第1話
中世ヨーロッパ風の異世界が舞台のお話。
凍えそうに寒い。肩が手足が背中が冷たい。少しでも温たかくなりたいのに、身体の上のものがはぎとられ一層寒さが増す。寒い寒いと訴える。誰も聞いてくれるはずなどないのに。悲しみが押し寄せてくる。誰もわたしのことなど。
しかし、不意に、わたしは温かいものにくるまれた。やさしくわたしを宥める、その温もりと声に。これをどんなに憧れ、求めていたことか。思い描いたようにそれはわたしを温かさで満たしていく。これが夢なら永遠に覚めないで。
朝、目を開けると、薄着で裸の人に絡みついていた。この裸の人は、柔らかい胸がないので男性だと思われる。寒くて温かいものにすり寄ったことは、なんとなく覚えている。
湯たんぽの正体は、この男性だったのか。トクントクンと心臓の音が聞こえる。ぬくぬくの湯たんぽ男性の胸元に頬をつけたまま、今の状況を考える。
ここは、まるで見覚えのないところだった。
寝台が一つ、今わたしが男性と二人で横になっている。狭いので一人用の寝台なのだろう。あとは小さなテーブルと椅子が二脚あるだけの小さな部屋。寝台の端に立てかけてあるでかい取っ手の細長い金物。これは、剣、のようだ。かなり大ぶりで、男性の持ち物なのだろう。あの剣は、わたしには持てそうにない。
鳥の高い声が聞こえ、窓から陽の光が差し込んでいる。どうやら今は朝らしい。
わたしはここで何をしているのだろう。昨夜のことを思い出そうとして。
なぜこんなところにいるのかな?
あれ?
昨日、わたしは何をしていた?
あれ? あれ?
「起きているなら、この金縛りを解いてくれないか」
湯たんぽが言葉を発した。ちょうど男性の胸元にしがみついていたので、頭の上から少しかすれた低い声が降ってきた。男性の胸の上に乗っかるような体勢のわたしは、じわーっと頭を上に向けた。
いつの間にか男性は目を開け、金色の瞳が半目でわたしを見ている。その感情はわからない。とりあえず絡みつかせていた足と腕を解く。名残惜しい。朝はまだ薄寒いので上からは退かない。暖に乗ったまま。
一応、男性は上半身は裸だけど、下は何か穿いているらしい。がっしりした胸板と所々に残る傷跡。苦労してるのか。
だいぶん年上の男性だと思う。目鼻立ちはすっきりきりっとしており、眉と口が直線で四角い顔だ。見覚えはない、と思う。
「俺はマークだ。お前は?」
わたしが乗っているのをものともせず、男性は起き上がり、寝台から降りてしまった。当然、わたしはコロンと横に転がる。転がった先が壁でよかった。
シーツにくるまり、恨めしそうに男性を見た。あぁ。わたしの湯たんぽが遠くへ。
しかし、目が合った途端、男性に睨み返されてしまった。割と、かなり怖い顔で。睨まれ続けるのも居心地が悪く、とりあえずわたしも上半身を起こした。
「名前は?」
再び、男性が尋ねてきた。
前より声が低められ、男性は寝台の横に仁王立で高い位置からわたしを見下ろしている。今にも目が、金の目が、ピカッと光りそう。
わたしが質問に答えないせいで怒気が含まれてしまったらしい。早く答えなくては。わたしは焦って口を開いた。
「わたしの名前は……」
が。
「何でしょう?」
わたしの頭は真っ白で、何も思い浮かばなかった。見事に何も浮かばない。そういえば、先程もそんなことを考えていたのではなかった?
「ふざけるなっ。さっさと名前を言え」
男性の低音が響く。その声に空気までも振動していそうだ。とうとう怒らせてしまったらしい。
でも、答えようがない。覚えてないのだから。
「ええっと。わたし、名前、憶えてないみたい」
男性は目を見開き、ジロジロとわたしを眺めまわした。そして、眉間に皺を寄せわたしに近づいてくる。
わたしが首をかしげて見ていると、男性はわたしの後頭部へ手を伸ばした。
「いっ、いだっ!」
とんでもない激痛がわたしを襲った。すぐに男性は手を離したようだが、まだ頭の後ろがジンジンする。痛かった。というか、まだ痛い。わたしの頭、どうしたんだろう。そうっと自分の手を後頭部にまわし、おそるおそる触れると。
痛っ!
でも、何か布がある。そういえば、頭に包帯が巻かれている。頭に巻かれた布を手で触って確かめていると。
「頭を強く打ったんだろう。でかいコブになってる。血は止まっているが、触るな」
男性は腕を組み、わたしに声をかけてきた。渋い顔でこちらを見ている。この男性が手当をしてくれたらしい。
「昨日のことは、覚えているか?」
彼がゆっくりと問いかけてきた。ジッとわたしの目を見て、用心深く何かを探るように。
昨日のこと?
「夜、寒かったことは。でも、その前、その前は……わからない」
「どこに住んでいたとか、誰か知っている名前は?」
知っている名前? 思い出そうとすると、ムニャムニャ何かが頭を過るような気はする。しかし。
何だっけ?
そんな感じで、思い描こうとするものは掴みどころなく全てが霧散していく。つまり、まるでわからないのだ。
男性に、首を横に振って見せた。
が、頭振ると気持ち悪いかも。
「記憶がとんだ、か」
記憶がとんだ?って何かな。ちょっと吐き気のした頭を抱えていると、男性は服を着替え始めた。
服の上から腰に帯を結び、そこに剣を携えた。厚みのある体格は威圧感を感じさせ、その袖からのびる腕は太くて硬そうだ。がっしり剣士姿、カッコいいかも。惚れ惚れしていると、男性は部屋から出て行こうとしていた。
ええ? えっと。
「あっ、あの、マーク?」
とっさに呼び止めた。
男性はわたしの声に足を止めてくれたものの、振り向くでもなく視線だけ寄こす。何の用だ?と無表情で問いかける。
「あの。わたしは、その、どうしたらいいんでしょう?」
何とか言葉にしてみた。
こんなことを言いたかったわけではないような。いや、確かにこれも聞きたかったことなんだけど。
「そこで大人しく待っていろ」
そう言い放つと、男性は表情も変えず、さっさと出て行ってしまった。閉じられたドアをジッと見ていたが。ドアは開きそうになかった。
静まり返った部屋は、さっきより肌寒く感じられる。ドアの外からも窓の外からも様々な物音が聞こえてくる。ドアの外は廊下になっているのだろう。人が行き来する音がして、窓の外も、騒々しい物音や人の話し声などでかき消され、鳥の声はもう聞こえてこない。すでに朝の生活が始まっているのだ。
待っていろと言った。部屋には男性のものと思われる荷物が残されている。きっとあの男性はここへ戻ってくる。その考えは、なぜか、わたしを安心させた。
どうして頭に怪我をしているのか、とか考えた方がよさそうなことは沢山あるのかもしれない。でも、今のわたしは、そんなことはどうでもいい。
あの男性と一緒にいなければいけない。これは、全てがあやふやな自分の中で、唯一確信のある思いだった。その思いに理由は必要ない。あの人が、わたしの……。
再びウトウトと眠りに落ちていった。