壁の花
あまり社交に積極的ではない両親に育てられたクリステルでしたが、それでも貴族の令嬢の嗜みとして、一通りのレディ教育は受けてきました。
この国の歴史や政治などの机上の勉強から、編み物や縫い物、そして社交ダンスや乗馬まで。
とりわけクリステルはダンスが得意でした。なぜかダンスが上手な父侯爵仕込みです。ゆっくりで踊りやすい曲から、早く、難しい曲まで難なく優雅に踊ることが出来ました。
夜会デビューの今宵。それまでの練習の成果は遺憾なく発揮されていました。
初めての夜会で、堂々と踊る美しい令嬢。
周囲の貴公子たちはすっかり釘付けです。
クリステルも、囁かれる甘い言葉にうっとりと上機嫌でした。
――再びその視線にぶつかるまでは。
また、冷たい視線を感じました。
それは踊っている最中でした。
視線を手繰れば、やはり、先程の貴公子にぶつかります。先程は『冷笑』といった感じでしたが、今回はもっと冷たい……ほぼ睨みつけるような視線です。
彼の君もどこかのご令嬢と踊っていたのですが、その頭越しにこちらを見ています。
その視線に、すっかり冷や水を被せられたようになったクリステル。
しばらく彼の様子が気になり目で追っていと、自分のパートナーには優しく微笑んでいました。そして、クリステルと目が合うと途端に冷たい視線に変わるのです。
――ああ、私のような初心者が、ちょっと皆様にちやほやされたからって調子に乗って何曲も何曲も踊ってしまったから、不愉快に思われたのでしょうか……
何も考えず舞い上がっていた自分を恥ずかしく思いました。
「どうかしましたか?」
すっかり自分の考えに耽っていたクリステルに、パートナーから声がかかりました。余程ぼんやりとしていたのでしょう。
「いえ、なんでもございませんわ」
無理にも微笑みを貼り付けてやり過ごします。
あの貴公子に睨まれていると思うと居ても立ってもいられないのですが、しかしその曲は何とか踊りきりました。ともすれば俯き、唇を噛みしめそうになる自分を叱咤し、笑顔の仮面を貼り付けます。
そしてようやく曲が終わると、その後は踊るのはお仕舞、とダンスフロアを後にし、
「ちょっと疲れてまいりましたので、あちらで休んでいますね?」
「そう? 大丈夫?」
「ええ、ご心配はいりませんわ」
母に断りを入れてから、飲み物を手に壁際へ移動することにしました。これからの時間はひっそりと、他の方々が踊っていらっしゃるのをそこで見て楽しもうと思ったのです。
広間のホールは華やかです。
名のある貴族や、その子女たちが競って華やかに着飾り踊っているのですから。
その中でも。
――まあ、お父様とお母様ったら! 今一番素敵なカップルじゃないいですか!
ホールの光を一身に浴びて踊っているのは、クリステルの父と母。すっかり周りがかすんでしまっています。
そんな両親に温かい笑みを浮かべながら見ていると、
「おや、もうダンスはお仕舞ですか?」
そう言ってにこやかにクリステルに近付いてくる貴公子がいました。名前は忘れてしまいましたが、先程ダンスのお相手をしていただいた方です。
「ええ、たくさん踊りましたので、少し疲れてしまいましたの」
微苦笑しクリステルは答えました。
「それはいけない。ああ、飲み物も少なくなっていますね。新しいのをどうぞ」
「まあ、そんな、結構ですわ!」
「いいえ、ご遠慮なさらずとも!」
「……ありがとうございます」
礼を言い飲み物を受け取るクリステル。するとその貴公子はそのままクリステルの横に陣取りました。
「ああ、ここだとダンスフロアがよく見えますね。貴女のご両親は何て素敵なのでしょう」
「ふふ、ありがとうございます」
「さすがは貴女のご両親だ」
歯の浮くような言葉に、クリステルはぽかんとし、ただただ彼を見つめることしかできません。
彼の青い瞳が甘く微笑んでいるのを見ていると、
「こちらにおいででしたか! クリステル嬢。このお菓子が美味しいと聞きましたので、貴女におひとついかがかと思いましてね?」
そう言って、綺麗に盛りつけられたお菓子の皿を持って、別の貴公子が現れました。
「あら……ご丁寧に、ありがとうございます」
礼を言って彼から皿を受け取り、その菓子の芸術的な美事さにしばし見惚れていると、
「なんだかこちらは楽しそうですね? どれ、僕も混ぜてくれませんか?」
と、またまた飲み物片手に別の貴公子が寄ってきました。
そうしてしばらく後には、クリステルを囲んだ貴公子たちの輪が、壁際に出来上がっていました。
このような状況に初めて遭遇するクリステルは、ただただ「ええ」だの「そうなのですか」などという相槌をうつものの、早くこの場から逃げたいと思うばかりなのでした。
どうやってこの場から逃げ出そうかと考えながらも、なかなか機会がつかめずに、秘かにため息をついていたところ。
また視線を感じました。
もう探さなくても判っていました。――先程からの貴公子です。
クリステルは周囲に気付かれないように、またそっとため息をこぼしました。
――わたくしのような貧相な娘が、やっと踊るのをやめたと思ったら、次は壁際で騒がしいとお思いになっていらっしゃるのですわ……。きっと目障りなのでしょう。
周りの喧騒がふっと遠く感じられました。
いたたまれない気持ちになったクリステルは、どうやってこの場を辞去しようかと本格的に考え、あちこちに目をやりました。
そこで、兄のクロードと目が合いました。彼は父の従兄弟のプラッド――今はクォーツ伯爵――と話をしているところでした。
『お兄様、助けて』
目で訴えます。するとそこは兄妹。
『わかった』
目を合わせながら小さく頷くクロード。どうやらアイコンタクトは成功したようです。クロードはプラッドに何か一言告げてから、貴公子たちに囲まれているクリステルの方へやってきました。
「ステラ。プラッドおじ様が呼んでいるよ? 久しぶりに話がしたいって」
数多いる貴公子たちをかき分けて、にこりと笑いながらクリステルに手を差し伸べてくれるクロード。助かったとばかりにほっと安堵の笑みをこぼしながら、
「今参ります。皆様、ごきげんよう」
ちょんとドレスをつまみ一礼をしてから、兄の手を取りました。
その心からの微笑みに、その場にいた貴公子たちが陶然となったことに、すぐさま踵を返してしまったクリステルは気付きもしませんでした。
「今日はステラが一番人気だ」
「まあ! そんなことございませんわ。皆様、初めて見るわたくしが珍しいだけですわよ」
「はいはい」
周りに聞こえないように小声で話すクリステルとクロード。クロードはクスクスと笑っていますが、クリステルはよく覚えてもいない貴公子たちのことよりも、あの視線のことを思うと気が重くて仕方ありません。柳眉を顰めてしまします。
初めて会った人、それも驚くほど美しい男の人に、いきなり嫌われたのかと思うと心が痛みました。
目を閉じ、ふうう、と長いため息をついて、
「わたくし、もう疲れてしまったの。もう帰ってもいいかしら?」
上目遣いで兄に訴えました。兄がクリステルの上目づかいに弱いことは百も承知です。
「それはいけないね。父上に言おう。すぐにでも連れて帰ってくれるよ」
優しい笑みで妹を気遣うクロードです。プラッドのところへは行かず、父侯爵の元へとクリステルを連れて行ってくれました。
「ステラがもう疲れたと言っています」
「そうかい。たくさん踊ったしね。がんばったね、ステラ。そろそろ時間も遅いし、帰ろうか」
今だ淑女方を魅了する綺麗な笑みで娘を労う父は、そのままトパーズ卿のところへ行き、暇乞いをしてくれました。
再びクロードにエスコートされて公爵邸を後にするとき。
やはり彼の君の冷たい視線を感じたクリステルでした。
今日もありがとうございました(^^)