月虹
ロマンチック目指してはいます!
夜会を終えて侯爵家へと戻ったクリステルは、すべての装いを解き、湯あみも終え、柔らかなシルクの夜着を身に付けて部屋に戻りました。
侍女たちを下がらせて一人きりになると、出窓になっている腰高の窓によじ登り、すっぽりとその中に入り込んで膝を抱え、その上に自分の顎を乗せてぼんやりと夜空を見上げました。
中空に輝く月虹を纏った月がクリステルを見下ろしています。
まだ夜会の興奮は醒めやりません。
王子と交わした言葉。
アレクシスと踊ったときめき。
未だにクリステルの気持ちを昂らせたままにしているのは、やはりアレクシスとのダンスでしょう。
初めて触れるアレクシスの手は、大きく暖かで、クリステルの華奢な手などすっぽりと包まれてしまっていました。
「握りつぶされてしまいそうな力でしたわ」
目を細め、ふふふ、と思い出し笑いするクリステルです。
そう。ダンスの途中、クリステルの手はアレクシスに強く強く握りこまれてしまっていたからです。
ひと時でもアレクシスと繋がっていた自分の手を目の前に翳し、もう一つの手でなぞります。
「普通はあんなに力入れないものよね? アレクシス様も緊張なさっていたのかしら? でもとてもお上手なリードだったわ。お父様といい勝負ができそう」
きゅっと自分の手を握り締めながら、クリステルは一人ごちました。
『あなたは私の国に来ることを望みませんか?』
自分の手を握り締め、アレクシスの手の感触を思い出して幸せに浸っていたところで、不意に王子の言葉が頭をよぎりました。
「ああ。きっとあれはどのご令嬢にも聞いていることなのでしょうけど……」
もっと他に答えようがあったと思うのですが、どうしてもはっきりと答えられなかったクリステルです。決意したはずなのに、心の奥底ではまだ揺らいでいたのです。
優しい穏やかな王子の心よりも、クリステルには欲しいものがあったから。
「……未練がましいこと」
目を閉じ、呆れたようにため息をつきます。
「こんな物思いは今日までにしなくては。明日には花嫁候補が発表されるんだから」
明日にはアウイン侯爵令嬢が隣国第一王子に嫁する、と発表されるはずです。
――自分で決めたことでしょう?
揺れる心を叱咤します。
月明かりに照らされている庭を眺めようと視線を落とした時でした。
――誰か、いる……
クリステルの部屋の下、綺麗に整えられた植え込みのところに人が立っていました。
こちらをじっと見上げています。
月明かりに照らし出されたその人は――
まさかの想いに窓に手を付き乗り出して見ると。
――アレクシス、様!!
驚きに瞠目したクリステルは、自分に都合のいい夢か幻を見ているのではないかと自分の頬をつねってみましたが、しっかりと痛みが走ります。
「いたっ!! これは……現?」
慌てて出窓からひらりと身を翻すと、上掛けを素早く肩に羽織り、そのままテラスに続く窓に静かに駆け寄りました。
……君や来し 我や行きけむ 思ほえず
大急ぎでした。瞬きをする間に消えてしまいそうな気がしたからです。
寝てか醒めてか 夢か現か……
いつかどこかで聞いたことのある詩が頭を過りました。
音をたてないように静かに窓を開きテラスに出ました。微かに吹く夜風が、ステラの夜着の裾をわずかにはためかせます。
勢いのままにテラスの手すりに乗り出し庭を見下ろすと、やはりアレクシスです。
アレクシスは先程と変わらずそのままこちらを見上げていました。そしてクリステルの姿を認めると、嬉しそうに目元を緩めました。
それは初めて見るアレクシスの微笑みでした。
クリステルは瞠目しました。今まで欲しいと思いながらも、それでも手に入らなかったものだったからです。
――アレクシス様が、わたくしに向かって笑った……
身体の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えて、
「アレクシス様?!」
小さな声でしたが、それは夜のしじまに凛と響きアレクシスの元にも届きました。
「クリステル……」
今度はアレクシスの潜めた声がクリステルに届きました。
初めて呼ばれた自分の名前。うれしさに震えてしまいます。
しかしこちらを見上げるアレクシスの瞳は、いつもの冷たいそれではなく、むしろ苦しそうです。
どういうことかと首をかしげるクリステルに、こちらを見上げたままゆっくりと両腕を広げて、
「おいで」
アレクシスは囁きました。
あまりのアレクシスの豹変に、クリステルはにわかに信じられませんでした。手すりを握る手の関節が白くなります。
いつもの冷淡で、クリステルになど関心もないというアレクシスではありませんでした。
似て非なる人物か、はたまた妖かと疑いましたが、彼はなお、
「話がしたい。大丈夫、受け止めることなんて造作もない。だから……」
動かぬステラに潜めた声で誘います。
――妖であろうと、ここに現れたのはわたくしの想いが昇華しきれなかったからに他ならないわ。ならば……
落ちて儚くなるのもまた定め、と。
覚悟を決めて、バルコニーの手すりに乗り上げました。そして、
ひらり
クリステルの華奢な体が宙を舞いました。
アレクシスが魔法を使ったのでしょう。まるで重さがなくなったように、クリステルの身体は何の衝撃もなくすっぽりとアレクシスの腕の中に納まりました。
それと同時にアレクシスの腕がしっかりと巻きついてきます。
クリステルは飛び降りたという衝撃と、アレクシスの腕の中に閉じ込められたという衝撃で呆然としていました。
耳に当たるのはアレクシスの胸のあたり。
そこに置いた掌から、鼓膜から、信じられなほど早い鼓動が伝わってきます。
しかしクリステルの鼓動もまるで早鐘の様。もはや、自分の物なのかアレクシスのものなのか、判別できません。
鼓動に耳を傾けて、必死に落ち着こうとしていると、頭の上にアレクシスの頬を感じました。
「ああ、クリステル……ステラ……!」
小さく何度も囁かれます。
囲われる腕の力も増したようです。
夢のような現実に、クリステルはうっかりと口走ってしまいました。
「これは夢かしら? ふふ、夢にしてもうれしいですわ。こうしてアレクシス様にお会いできたのですから。これでわたくしも心置きなく隣国へ行けるというものね……」
微笑ながらもほろほろと涙が頬を伝わっていきました。
「ああ、ステラ! あなたは本当に隣国へ行かれるのか?」
頭上から潜めた声が聞こえてきます。心なしか震えているようです。
「多分、そうなる、と聞いております」
キュッとアレクシスの服を握り締めて、夢心地のままクリステルは答えます。
「……どうして貴女は自ら名乗りを上げたのです? 彼の君に焦がれたとおっしゃるのか?」
「まさかそんなこと。素敵なお方だとは思いますが、そのような畏れ多いこと……」
ハッとなり、伏せていた顔を上げて、頭上にある美しい顔を見ます。
「では、なぜ」
クリステルの淡紫の瞳を覗き込みながら、アレクシスは聞いてきます。片手でクリステルの涙を拭ってくれます。
クリステルが隣国に嫁ぐことなど、アレクシスには何の関係もないことです。クリステルが仄かに想いを寄せていても、彼はむしろ疎んじてきたようでしたし。
それを思うと悲しくて、またほろほろと涙はこぼれていきます。
――『なぜ』なんて、聞いてこられても……
「それは、貴方様には関係ないこと……。もはや打ち捨てておいてくださいませ」
真剣な光を帯びたはちみつ色の瞳から視線を逸らせ、クリステルは希いました。
しかしアレクシスは引き下がりません。
「今宵は、私の気持ちを伝えに来たのだ。ステラ、君を想っていたんだ……」
今や声だけでなく、身体が震えていました。
今日もありがとうございました(^^)
君やこし 我が行きけむ 思ほえず 寝てか覚めてか 夢かうつつか
伊勢物語 第69段 作中歌




