第九話
「うわあ……美味しそう!!」
全ての料理が並び終えると、優が感嘆の声を上げる。その口元からは、今にも涎が垂れてきそうだ。
彼女の言うとおり、料理は思った以上に美味しそうなものだった。
旬の山菜で彩られた小皿達は、何とも食欲をそそられる。
膳の隅に置いてある漬け物は自家製だろうか。スーパーなどの店舗では見かけた事が無い。
メインである猪肉の煮付けは、さぞかしよくご飯とも合うだろう。
「それでは、そろそろ失礼致します。ごゆっくり……」
眞耶は来た時と同じ営業スマイル、熊谷は愛想の無い無表情を浮かべながら一礼する。そして、静かに部屋を出て行った。
――パタン、という音と共に扉が閉じられると、途端に優がはしゃいだ声で問いかける。
「美味しそう! パパ、もう食べて良いんだよね?」
「ああ。好きにし――」
「いただきまーす!!」
啓輔が全てを言い終えないうちに、優は小皿に箸をつける。余程空腹だったのか、そのスピードはかなり早い。
ちゃんと噛みなさい――と注意してみるが、口に食べ物を詰めながらもごもごされるだけだった。
聞く耳を持たない娘に呆れながら、啓輔も両手を合わせる。
「いただきます」
そう言いながら啓輔は箸へと手を伸ばす。……しかしそれを手にする前に、啓輔の動きは止まる。行き場を失った手は、力無く空を掴んだ。
――俺は一体、何をやっているんだ?
今日啓輔が此処を訪れたのは、決して遊びに来たわけではない。この旅館で一年前に起こった謎の集団失踪――通称、神隠し事件を解き明かすためだ。
折角当の旅館へと訪れたというのに、啓輔達がやった事といえば、精々迷子の娘達を捜した事くらいだ。……事件とは、何の関係も無い。
後一日あるとはいえ、この調子で過ごしていたら、事件の“事”すらも聞く事もなく、東京へと帰る事になるだろう。――それだけは、絶対に許されない。
啓輔は、本来は今日話を聞く筈だった依頼人へと思いを馳せる。
急用が出来たので――と言ったら、本来は憤られてもおかしくないというのに、快く了承してくれたのだ。
和人の会社である、丸西出版だってそうだ。旅費や交通費を全て負担してくれたというのに、何も収穫がなかったのでは、赤字もいい所だ。
本来なら、今だってこんな事をしている場合ではない。すぐにでも調査に行って、何かを掴んで来なくてはいけないのだ……。
「啓輔?」
隣に座る和人が、怪訝そうな声を上げる。手を止めたまま、険しい顔をして固まっている幼馴染を不審に思ったのだろう。
心配させまいと、啓輔は口元に微笑を浮かべる。
「――悪いな。ちょっと、考え事してた」
「……そうか」
はぐらかすような啓輔の答えを聞くと、和人は曖昧に微笑む。気にはなっているものの、これ以上詮索はしないでくれるらしい。
無理に上げた口角が、どうしようもなく痛かった。
――と、そんな時。
ひょいっ。未だ手を付けられていなかった啓輔の膳に箸が伸びる。啓輔が声を上げる前に、膳からはお新香が消えていた。
ばりばりと音を立ててそれを咀嚼する娘を、啓輔はきっと睨みつける。
「……優、お前なぁ」
啓輔の怨みがましげな視線を優は華麗にスルーする。コクン――とそれを飲み込むと、ようやく煩わしげに父を見つめた。
「煩いなあ……パパ、食べないんでしょ? だったら、優が遠慮なく――」
再び箸を伸ばす優の手は、啓輔にぺしりと叩かれた。
「誰がやるか!! っていうかお前、それだけあってもまだ足りないのか!?」
「あたり前じゃん! 子供の食欲を舐めちゃダメだよ!!」
自信満々に胸を張る優の膳には、啓輔達と全く同じ料理が載っている。
一般成人男性である啓輔達から見て、丁度良いくらいの量なのだ。子供である二人にとっては、少し多すぎるだろう。実際、優の隣に座る海は、先程から困ったように微笑んでいる。
得意げな優を見ながら、海は自分の膳を差し出した。
「……優ちゃん。よかったら、好きなの食べる? あたし、こんなに食べられない……」
「そう? 海ちゃんって、結構小食なんだね」
「海ちゃんが小食なんじゃなくて、お前の胃袋が異常なんだよ。いい加減気付け、馬鹿」
「なっ……そんな事無いもん!!」
いつのまにか、辺りには常のような和やかな空気が流れていた。
――と、そんな時。
“キャアアアアアアー!!”
啓輔達の耳に、女性特有の甲高い悲鳴が聞こえてきた。音の発信源は、此処からそう離れてはいない。……恐らく、隣の部屋あたりだろう。
啓輔は一瞬で表情を引き締めると、状況を確認するべく、さっと立ち上がった――。