第八話
優達と一通り話を終えた後、智也達は温泉へと向かって行った。
そういえば、彼等は最初温泉を探していたんだったな――と、海の中で軽く罪悪感が芽生える。
「宿泊客って、私達の他にはあの人達だけなのかな? 今まで他のお客さんに会ってないよね?」
「……やっぱり、一年前の事件が大きく影響しているんだろうね」
海はしんみりとそう言った瞬間――不意に、背後に気配を感じる。
さっきの人達が戻って来たのだろうか? と思った時、聞き慣れた怒声が耳に響いた。
「――悪かったなあ、知名度の低い探偵でよ」
「お前ら、何勝手にいなくなってんだよ!」
「げ……パパ」
「お父さん!?」
海が慌てて後ろを振り向くと、不快気に眉根を寄せる和人と、ぴくぴくと眉を動かす啓輔が目に映った。
「な、何でこんな所に?」
「ばーか。お前の単純な思考回路なんて、簡単に読めるんだよ」
「……ここ結構印象に残りにくい場所だから、絶対分かんないって思ってたのに」
優の上擦った声音に、啓輔は至極冷静な言葉を返す。
ぐう――と言葉に詰まる優を見ながら、啓輔はふっと不敵に微笑んだ。そうしてしばらく娘を見据えていたが、不意に真顔に戻る。
「そういや、さっきの人達は? 従業員の人――じゃないよな?」
「観光客の人だって。春休みを利用した、学生旅行らしいよ」
「っつー事は、大学生か? はん、良い御身分だな」
「……ふーん」
皮肉交じりの和人に対し、啓輔は軽く目を伏せる。憂いを帯びたその表情は、彼が考え事をする時の癖だった。
そんな啓輔を見て、和人は不思議そうに問いかける。
「啓輔、どうかしたのか?」
「――いや。何でわざわざ、こんな旅館を選んだのかな……と思って。幾ら安いといっても、同じくらいの料金の旅館なんて、腐るほどあるだろ? わざわざ、未解決失踪事件の起きた場所を選ぶのもどうかと思うんだが……実際、客も俺達とあの人達しかいないみたいだし」
「……まあ、確かにな」
それは、傍目から見れば些細な疑問――けれど、その些細なキッカケで事件が解決してきたという事を、海はよく父親に聞かされてきた。
しばらく目を伏せていた啓輔だったが、やがて苦笑交じりに顔を上げる。
「――ま、こんな事考えてても仕方ないか。あの女将と誰かが親戚か何かなのかもしれないし……何より、情報が足りなすぎる」
「それもそうだな。……っと、もうこんな時間だ。そろそろ戻ろうぜ?」
和人が腕時計を見ながらそう告げる。海が近くに飾られている古びた時計を見上げると、午後六時二十分を指しているのが見えた。
海は先程の女将の言葉を頭に反芻する。……彼女曰く、確か夕飯は六時半ごろ持ってきてくれる予定になっている筈だ。そろそろ部屋に戻ったほうが賢明だろう。
「――ったく、お前らが勝手な行動とるから遅くなったんだぞ? 分かってんのか?」
和人が厳しい声を上げるが、そこまで怒っている様子はない。“ごめんなさい”と言いながらしゅんとしょげてみせると、はあ――っと深い溜息を一つ吐き、それ以上は何も言わなくなった。
「それじゃ、戻ろうか」
啓輔の言葉を始めとして、四人は部屋へと足を運んで行った――。
部屋に近付くにつれ、醤油の香ばしい香りが啓輔の鼻腔をくすぐる。夕食らしきその匂いは、どこか幼い日を思い起こさせた。
うっとりとした表情を浮かべながら、優がぽつりと呟く。
「いい匂い……もしかして、もうお夕飯の準備とか出来てるのかな?」
「ありえるかもな。もうじき六時半だし――少し早めに来てても、おかしくはねぇしな」
和人の言葉通り、四人が部屋に戻ると、既に従業員らしき若い女性と、中年の男性が夕餉の支度をしていた。
二人とも、啓輔の見慣れない者達だった。
白い甚平を身に纏う男性は、料理人だろうか。厳つい顔つきと大柄な体格は、見る者に畏怖の念を抱かせる。
それに対し、紺色の着物を纏う女性は、女将より年若い――否、“若者”というよりは、“少女”と呼ぶ方が相応しい。
未だあどけなさを残す彼女は、精々十代の後半頃――ぱっと見、啓輔よりも年下だった。
二人は来客の気配を悟ると、ゆっくりと啓輔達の方へ視線を移す。そして、そっと床に手をつき、一礼した。
お互いに顔を上げると、まず少女が口を開く。
「おかえりなさいませ。私、当旅館の若女将を務めております、鶴瀬眞耶と申します」
「――料理人を務めております、熊谷です」
「ああ。ご丁寧にどうも……。私、雑誌記者を務めております、桜庭です」
「はい、存じております。数多くある旅館の中から当旅館を選んで下さり、誠にありがとうございます」
そう言いながら、少女――眞耶は、にっこりと微笑む。無垢なその表情を見ながら、啓輔はちくりと良心が痛むのを感じた。