第四話
車から降りて早数十分。啓輔達は、目的地である鬼暮旅館に辿りついた。
“数十分”というと随分長く感じるが、舗装されている道をゆっくりと歩くだけだったので、迷いに迷った末ようやく辿り着いた――などという感動的な話は無い。
鬼暮旅館は、想像していた物よりずっと小綺麗で、落ち着いた風貌の木造の建物だった。江戸時代に建てられたという老舗らしいが、とてもそうは見えない。
和人がすいませーん――と声を掛けながらガラガラと引き戸を開けると、外装と合った、木目調で統一された広いロビーに出る。
そこには、和服姿の初老の婦人が一人、姿勢を正しながら佇んでいた。
婦人は、来客に気が付くと、ぺこりとお辞儀をしながら口を開く。
「いらっしゃいませ、鬼暮旅館へようこそお出で下さいました。わたくし、当旅館の女将を勤めております、梅田と申します」
梅田がそう言うと、和人は、普段は絶対に見せないような最大級の営業スマイルを浮かべる。
「ご丁寧にどうも。私、丸西出版の桜庭と云う者で御座います」
「まあまあ、桜庭様で御座いますか……。遠方からはるばるようこそお出で下さいました。ささ、こちらへどうぞ」
梅田は笑みを湛えたまま立ち上がり、受付らしき所へと歩を進める。
……ん、待てよ? そこで啓輔は一つの疑問に思い当たった。
一年前。確かにこの旅館の宿泊客が行方不明になった。しかしその当時、旅館は“自分達は関係ない”の一点張りだった筈だ。
結局うやむやになったまま終わってしまった事件だったが、幾ら時が流れたとはいえ、当時の状況について、女将が良い顔をして話してくれるとは思いにくい。寧ろ、昔の事件を掘り出され、嫌な気持ちになる筈だ。
……だというのに、嫌な顔一つ見せず微笑む女将。些細な違和感ではあったが、一度気付いてしまうと、もう止められないのが啓輔の悪い癖だ。
啓輔は和人に近づき、耳元でそっと囁く。
「――なあ、和人。女将さん、あの事について、ちゃんと話してくれるのか?」
「ん? ……ああ。その事なら、心配いらねぇよ」
啓輔が不安そうに問いかけるが、和人の表情は柔らかい。どうやら、余程自信があるようだ。
その理由は、二人の会話に気が付いた女将の一言で、すぐに明らかとなる。
「そういえば、桜庭様。……例の件、話すのはいつ頃がよろしいでしょうか?」
「……ん。そう、ですね――そちらとしては、いつ頃都合が付きやすいですかね?」
「そうですね――」
どうやら、上手く和人が話をつけておいてくれたらしい。女将の表情に、嫌そうな物は無い。
流石雑誌の記者だ――と、啓輔はしみじみと思った。
「――やはり、温泉の紹介という事ですから……御写真は、夜に露天風呂を撮るのはいかがでしょうか? 当旅館一の絶景となっております」
「夜の露天風呂ですか。……成程、風情がありますね」
温泉紹介? ……露天風呂? 聞き慣れない言葉に、啓輔はぴくりと反応する。
「従業員へのインタビュー、というお話しもありましたが……これは、仕事時間の関係も御座いますので、私どもの方から指定させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、それは勿論です」
朗らかな笑みを浮かべる和人を見ながら、啓輔は背後に妙な悪寒を感じた。
ツンツン、と軽く肩をつつき、再び耳元に口を寄せる。
「なあ、和人。……今回の取材の目的って、“温泉地の紹介”なのか?」
「ああ? んな訳無いだろ。だったら何のためにお前達を呼びよせたんだよ。勿論、一年前の事件を解決するために決まってんだろ?」
至極当たり前のように囁き返す和人を、啓輔は呆れた目で見つめ返す。
「――じゃあ、さっきから女将さんが言ってる“温泉紹介”やら“夜の露天風呂”って何の話だよ? ……まさか、温泉地の取材をするために来た――なんて、嘘吐いて予約した訳じゃないよな?」
「ん? そうだけど?」
至極当たり前のように答える和人を、啓輔は更に冷やかな視線で一瞥した。
「お前なあ。だったら、当時の状況とか誰に聞けって言うんだよ? ……まさか、当時の話とか一切聞かないまま事件解決しろなんて――」
「ん? 無理なのか?」
「……」
和人よ。お前は一体俺を何だと思っているんだ? ……なんて問いかけても、“名探偵、だろ?”なんていう天然な声が返ってくる事は目に見えているので、啓輔はそれ以上口を開くのをやめた。
そんな二人の様子を不審に思ったのか、女将が怪訝そうに問いかける。
「あの――桜庭様?」
「ああ、すみません。こいつ、遠方に取材行くのは初めてなものですから。なんか、必要以上に緊張してしまっているようで」
「……はあ」
どこか拍子抜けした表情のまま、女将は受付を始めた。