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第二十五話

 ――空気が澄んでいるな。

 散歩の為、旅館の外へ出た啓輔は、第一にそんな事を思った。

 頭上に広がる満点の星空を見ながら、啓輔は小さく息をつく。やはり人間、自然に囲まれると癒されるものだ。時間が時間なだけあって、流石に此処には、人っ子一人いない。

 啓輔は、ポケットに仕舞いっぱなしだった煙草を取り出し、口に咥える。ライターで先端に火を灯し、胸一杯に煙を吸い込むと、昂った気分が落ち着いていくのを感じた。


 ――と、その時。啓輔は、ふと背後に気配を感じる。忍び足のつもりなのか、靴音はほとんど聞きとる事ができない。

 こんな夜更けなのだ。まず間違いなく、自分の後を追ってきた子供達では無いだろう。大人である和人ならまだ有り得るかもしれないが、それならば、わざわざ足音を殺す必要は無い。

 面倒な事を何よりも嫌う彼の事だ。ただ単に、驚かせようとしている――というのも考えにくい。


 ――優達でも、和人でも無いのなら――まさか、一年前に消えた三人の亡霊? 足音が聞こえないのは……足が、無いから?

 ふと頭の片隅に浮かんだ疑念を、啓輔はふるふると頭を振りながら否定する。

 ……いやまさか。そんな事がある筈無い。探偵が非科学的な物を肯定してどうするのだ。

 だが、世界は謎に満ち溢れているのだ。例え自分が体験した事が無いからと言って、全てを否定して良いわけ――。

 混乱している頭の中を整理する啓輔は、いつの間にか彼女(・・)が近付いている事に気付かない。

「こんばんは。……貴方も愛煙家なのね?」

 だから、若い女性の声でそう問いかけられた瞬間――柄にもなく、びくりと肩を震わせてしまうのだった。




「……そんなに驚かれるなんて、ちょっと悲しいわ」

「――」

 そう言う割には、先程からクスクスと笑い続けている女性――玲を前に、啓輔は真っ赤な顔で俯いた。

 随分とヒステリックだった彼女も、今は落ち着いているようだ。ころころと表情を変える彼女は、とても部屋の中で喚き散らしていた女性と同一人物とは思えない。

 どうやら先程の声は、彼女の物であったらしい。話を聞いてみると、なかなか寝付けない為、一旦散歩でもして心を落ち着けようと思った玲が、啓輔を驚かせる為に足音を殺しながら近付き、声をかけたのだとか。

 考えてみれば、大した事の無いトリック。――深夜零時過ぎという特殊な時間帯に、特殊な環境にいたのだ。少し怯えてしまうのも仕方が無いだろう……。

 そうは思うものの、年下の女性に笑われ続けるのには、少々気恥ずかしい物があった。 いつまでも笑い続ける彼女が嫌になり、啓輔はすっと無表情を浮かべる。真剣な眼差しで彼女を見据えつつ、啓輔は口を開いた。


「確かに、大袈裟に驚いたこちらにも非はありますが……あまり大人をからかわない方が良いですよ? 後で痛い目を見るのは、貴方自身なのですから」

「……あら、“痛い目”って、具体的にはどんな事なのかしら?」

 啓輔の挑発に、玲は唇の片端を歪めつつ乗ってくる。妖艶に微笑む彼女は、とても学生とは思えない。

 誘っている――瞬時にそう判断した啓輔は、強張っていた頬をふっと緩めた。

「すみません。少し、からかいすぎましたね。若い子を見て、つい苛めたくなってしまったようです」

「若い子――なんていっても、そこまで年は離れていない筈だわ。精々、五つくらいの物でしょう?」

「――」

 五つ以上も年下なら、啓輔にとっては充分“若い”に値するのだが、どうやら彼女の価値観は違うらしい。

 啓輔が黙りこくっていると、玲は真っ赤な唇を妖しく歪めた。


「そういえば探偵さん。……貴方、奥さんはどちらにいらっしゃるの? 優ちゃん、でしたっけ? お子さんがいらっしゃるのなら、当然いるんでしょう?」

 彼女がそう問いかけた瞬間、啓輔は表情が強張るのを感じる。

 脳裏に蘇るのは、亜麻色の髪を持つ少女――秋には真っ赤に葉を彩る木と同じ名を持つ彼女は、今も記憶の中で、あどけない微笑みを浮かべている。

 彼女――(かえで)がこの世を去ったのは、もう三年も前の事だ。


 ――不意に込み上げてくる熱い想いを押しこめつつ、啓輔は口を開く。発した言葉は、自分でも驚くほど冷たい物だった。

「貴方には、一切関係の無い事です」

「……成程。訳あり、という事ね」

 余程硬い表情をしていたのか、玲はそれ以上の追及を止める。見かけによらず、踏み込んではいけない領域、という物はきちんとわきまえているらしい。

 曖昧に微笑みながら、啓輔はなるべく穏やかな声音で語りかけた。


「……夜ももう遅いです。そろそろ部屋に戻らないと、彼氏さんが心配しますよ?」

 何なら、部屋まで送りましょうか? そう言おうとした啓輔は、みるみる彼女の顔が青ざめていく事に気が付く。

 今まで浮かべていた妖しい笑みを少し悲しげな物へと変え、玲はぼそりと呟いた。

「……慎司は――心配なんてしないわよ」

 ……どうやら、彼女も何か訳ありのようだ。啓輔は、彼女が先程そうしたように、これ以上踏み越えてはいけない境界線に近づいてしまった事を悟る。


 ただ、啓輔と玲が唯一違う物――それは、好奇心だ。

 勿論、啓輔だっていい年をした大人だ。好奇心を満たすためだけに、何でもかんでも詮索するのは良くない事くらい重々承知している。

 ……だが、それでも尚啓輔は問うてしまう。その、憂いを帯びた瞳に映している何かを知る為に――。

「何故、そんな事を断言出来るのですか?」

 強張っている玲の顔を見据えながら、啓輔はわざとらしく小首を傾げてみせた。

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