第十七話
翌日午前四時過ぎ。眞耶は女将の元で食器洗いを手伝っていた。
料理人である熊谷は、現在仕入れに行っている。その為、二人きりで台所に立つのはそう珍しい事では無かった。
眞耶は、隣に立つ女将をちらりと見やる。連日お客様相手に奮闘しているからか、その表情はどこか暗い。あまり眠れていないのか、目元には薄らと隈が出来ていた。
「眞耶。ぼーっとしている暇があるのなら、手を動かしなさい!」
「え? あ……す、すみません!」
女将の観察に没頭しすぎていたせいか、いつの間にか手が止まっていたようだ。客相手には絶対に出さないような女将の怒声を浴びながら、慌てて眞耶は作業を再開した。
途端、女将がクスッと笑う。眞耶は再び手を止め、まじまじと女将を見据えた。
「……どうかしましたか、女将?」
「あら、ごめんなさい。一生懸命な貴女を見ていたら、つい。……ほら、私子供がいないでしょう? 眞耶の事は、実の娘のように思っているのよ」
「……」
女将のどこか寂しげな言葉を聞きながら、眞耶はそっと目を伏せる。彼女は元々、この辺りにあった鬼暮村の村長の末裔だ。かつて存在した館の一つを改造して、この旅館を作ったらしい。
そんな恵まれた環境で生まれ育った彼女に、唯一恵まれなかった物――それが、子供だ。
子宝を授かる前に夫を亡くしたという彼女は、親戚である熊谷と共に、二人でこの旅館を切り盛りしてきたのだという。山のふもとの村で生まれ育った眞耶が、此処を訪れるまで、ずっと。
それがどれほど心細く寂しい事なのかは、未だ若い眞耶には想像もつかなかった……。
そんな眞耶の心情を読みとったのか、女将は小さく微笑みかける。そして、止まっている手をぺちりと叩いて注意を促した。
「ほら。熊谷さんが帰ってくる前に、ちゃっちゃと片づけ終わらせちゃいましょう? この後、朝食の仕込みもしなくちゃいけないんだから」
「は、はい!」
眞耶も女将に負けないくらいの微笑みを浮かべながら、精一杯の明るい声を上げた。
「すみませ~ん! 誰かいませんか~!?」
数分後。御簾の奥から、切羽詰まったような声が聞こえてきた。その声質は、若い女性の物……当然、熊谷ではない。
瞬時にお客様だ――と判断した女将は、眞耶に小さく目配せした後、厨房から出て行った。
取り残された眞耶も、まさかそのまま呆けているわけにはいかない。眞耶は、部屋の隅に置いてある古ぼけた時計を見やる。
……現時刻は午前四時を少し過ぎた頃。普通なら、客は眠っている筈の時刻だ。何か異常事態が発生した――という事は、眞耶にもすぐに理解できた。
そうだと気付いて平気でいられるほど、眞耶は大人じゃない。捲くっていた袖を素早く戻し、部屋の外の様子を見に行った。
「――何ですって!!」
厨房の外へと急ぐ眞耶が耳にしたのは、驚愕に満ちた女将の声だった。普段落ち着いている女将が、ここまで驚くのだ。……余程事態は深刻なのだろう。
「どうかしましたか!?」
眞耶は御簾越しに外を見やりながら、声を張り上げる。そこからは、青ざめた女将と二人の少女の姿が見えた。
余程話に盛り上がっているのか、三人とも、眞耶が来た事には気付いていないようだ。唖然とする女将に代わって、少女達――美玖と莉沙が言葉を継ぐ。
「朝トイレに起きたら、隣にいる筈の芳恵がいなかったんです!! トイレにもいないし、お風呂用のタオルセットはそのままだし……」
「それに、玄関に置いてあった筈の靴が無くなってるんです! 一体こんな朝早くに、外に何の用事があるっていうんですか!?」
二人の言葉で、眞耶は大まかな事態を把握する。……どうやら、芳恵が忽然と姿を消したらしい。まだ夜も明けきっていない時間帯に、靴を履いたまま……。
――と、眞耶がそこまで思案した頃、ようやく女将が彼女の存在に気がつく。女将は一瞬不快気に眉根を寄せたが、流石に客前では怒る訳にもいかない。
女将は二人に気取られぬよう、そっと眞耶に囁きかける。
「眞耶。貴女は取りあえず、お二人と一緒に旅館の中を探して頂戴。私は少し外を見てくるわ。……いい? くれぐれもお客様に、妙な事を漏らすんじゃないよ?」
女将の言わんとする事を、眞耶は瞬時に察する。――例の伝説の事だ。
伝説では、“悪さをした者が温泉に浸かると、山神様に連れて行かれてしまう”。
……昨日話を聞く限り、芳恵は美玖から“聡”を奪った。……そう、彼女は充分“悪さをした者”にあたるのだ。
下手にこの話をして、お客様を怯えさせるな――恐らく女将は、そう言いたいのだろう。
眞耶がコクン、と頷くのを見届けると、女将は険しい顔つきのまま、玄関へと続く廊下へと歩を進めていった――。
「……お客様。取りあえず私達は、一回館内を探しましょう。もしかしたら、朝の散歩に出たかっただけなのかもしれませんし。……もう戻られて、迷子になっている可能性もありますから」
外は少し入り組んでいて危険な為、女将が調べておいてくれますので――眞耶はそう言いながら、不安げな二人に微笑みかける事しか出来なかった。




