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第十六話

 一年前、三月某日。




 ――ふう、緊張するわ。

 玄関をじっと眺めながら、眞耶は一つ深呼吸をする。この旅館に勤め始め、約半年。ようやく仕事にも馴染みつつあったが、お客様の出迎えだけはどうにも慣れない。

 もう何度も経験している事だというのに、未だに胸がバクバクするのであった。


 今日は、春休みを利用した大学生の団体が一組訪れる予定だ。現時刻は午後二時五十分。チェックインの予定時刻には、まだ十分ほどある。

 ……とはいっても、ふもとにある駐車場から旅館までの道は少し長いので、遅れて来る可能性の方が高いのだが。

 お客様は、ちゃんと迷わずに来られるだろうか――と眞耶が思案していると、突如視界に人影が飛び込む。

 どうやら、お客様が来たようだ――と察した眞耶は、深々と一礼した。


「いらっしゃいませ、鬼暮旅館へようこそお出で下さいました。わたくし、当旅館の若女将を勤めております、鶴瀬と申します」

「今日予約していた安藤です」


 客の声を聞き終えると、ようやく眞耶は顔を上げる。そこには、年若い三人の少女達が(たたず)んでいた。

 年の頃は、眞耶より少し年上なくらいだろうか。相手方も、思った以上に若い少女が出てきて面喰(めんくら)っているらしい。眞耶はにこやかな営業スマイルを口元に浮かべながら、旅館の奥を指し示す。


「三名様でご予約の、安藤様でございますね。こちらへどうぞ」

 眞耶は三人の手荷持を受け取ると、受け付け用の席へと歩を進めた――。




「――でね! その時教授ったら……」

「あはは、何それ!」

「マジうける!!」


 眞耶は三人を部屋へ案内しながら、そっと会話に聞き耳を立てていた。

 ――本来なら、絶対にやってはいけない事なのだが、聞こえる物は仕方が無い。

 話を聞く限り、三人は同じ大学に通う友人グループのようだ。代表者であり、グループのリーダー格である少女が安藤美玖(みく)。その横に佇む大人しげの少女が芳恵(よしえ)、ムードメーカーらしき存在の少女が莉沙(りさ)というらしい。


 一見見事なまでのでこぼこコンビだが、それ故に気が合う部分もあるのだろう。三人の間で交わされる会話は弾んでおり、仲の良さを(うかがわ)わせる。

 それが、そこまで仲の良い友人がいない眞耶には、少し(うらや)ましかった。




 この時、眞耶は気が付かなかった。三人の間に漂う空気が、(わず)かに重たい事に。時折、仲が良い友人達を見つめている筈の瞳に、暗い光がよぎる事に……。


 ――いや、この時点でもし眞耶が気付いていても、全ては無駄だっただろう。

 何故なら、彼女達を取り巻く運命は、既に決まっていたのだから。




「何よ! この泥棒女っ!! あんたさえいなければ、(さとる)は私だけを見ていたのに!!」


 眞耶の耳に、甲高い悲鳴のような叫び声が聞こえてきたのは、夕飯の膳を下げる為に三人の部屋を訪れた時の事だった。

 尋常ではないヒステリックな声音に、眞耶は思わずびくりと身体を震わせる。――声の主は美玖だろうか。甲高い言葉に、時折困ったような芳恵や莉沙の声が混じるので、ほぼ間違いないだろう。


 話の端々を聞いていくうちに、眞耶は何となくその内容を把握する。……どうやら美玖は、“聡”という彼氏を芳恵に奪われたらしいのだ。

 友人に彼氏を奪われた……よくある女同士のいざこざだ。そして、女同士の友情が破綻する可能性が、最も高いものでもある。


 ――これ以上、彼女を興奮させてはいけない。そう感じた眞耶は、聞き耳を立てるのを止め、部屋へと入りこむ。


「失礼致します。お客様、どうか致しましたか?」


 眞耶がそう告げた瞬間、室内が一瞬でシンと静まり返る。

 ――流石に空気を読まなすぎたか? と不安に思うが、安心した様子の芳恵と莉沙の顔を見る限り、取りあえず大丈夫なようだ。

 騒ぎを大きくした張本人である美玖は、気まずそうに視線を反らしている。

 そんな彼女をちらりと一瞥した後、眞耶は黙って空の膳を片付け始める。それを見た芳恵が慌てて手伝おうと皿に手を伸ばすが、眞耶はそっとそれを制した。


「お気づかい、ありがとうございます。これは、わたくし共の仕事なので」


 そう言ってにこやかに微笑むと、芳恵は恥ずかしげに手を引っ込める。引っ込み思案ながらも、なかなか思いやりのある少女らしい。

 しかしそんな所も、美玖には気にくわなかったらしい。唇を不快気に歪ませながら、彼女はぼそっと呟く。


「……偽善者」

「美玖、やめなよ。女将さんもいるのに……」


 莉沙が(たしな)めたおかげか、それっきり美玖は口を(つぐ)む。しかしその瞳は鋭く、彼女への嫌悪があからさまに伝わってきた。

 遠目からでもそれが分かるのだ。それをやられた張本人である芳恵の顔は、かなり青ざめている。

 部屋中に重たい空気が漂っている事を感じた眞耶は、努めて明るい声を上げる。


「……お客様。当旅館には、リラクゼーション効果のある、露天風呂がございます。折角いらっしゃった事ですし、宜しければ一度、入ってみてはいかがでしょうか?」

「そ、そうよ! 私達、此処に来てからまだ一度も温泉行ってないじゃない。行きましょうよ!!」


 眞耶の精一杯のフォローに、莉沙がのってくる。最初は嫌そうにしていた美玖も、そこまで言うなら――と、渋々首を縦に振った。残る芳恵にも、断る理由は無い。美玖が頷いたのを見届けると、慌てて周りへと同調した。




「――それじゃあ私達、温泉に行ってきます」


 タオルセットなどを持ちながら、莉沙が明るい声を上げる。そんな彼女に(いや)されたのか、芳恵も大分(おだ)やかな表情をしていた。先程まで苛立っていた美玖も、今は大分落ち着いている。

 来たばかりの時のように、和やかな態度の三人を見ながら、眞耶もまた、表情を緩める。


「ごゆっくり御くつろぎ下さいませ」


 眞耶に見送られながら、三人は部屋を後にする。やがて三人が扉の向こうへと消えるのを見届けた後、眞耶は再び片づけを開始した。




 これが、眞耶が芳恵を目撃した最後の時だった――。

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