第一話
ねえ、どうして? 私達、あんなに愛し合った仲じゃない。
確かに、偶には喧嘩もしたけれど……それでも私は、貴方を愛していた。
……なのに、一体どうして?
意識が薄れゆくのを感じる。それでも、“彼女”は彼に問い続けた。
何故? 一体、どうして……?
“彼女”の問いかけに、彼が答える事は永遠に無い。
……それを分かっていても、“彼女”は問うのをやめない。
……何故? どうして?
やがて、“彼女”の意識はゆっくりと闇に溶けていき――永遠に覚めない夢の世界へと堕ちていった――。
三月下旬。沢内探偵こと、沢内啓輔は、住居兼事務所の長椅子に腰かけながら、暇を持て余していた。
幾ら名探偵と名高い(?)彼でも、依頼の無い日くらいはある。今日は、まさにそんな一日だった。
春休み中だという事もあり、事務所のソファーには、彼の愛娘である六歳の少女、優の姿もあった。
優は退屈そうに欠伸を一つ噛み殺し、うんざりとした口調で問いかける。
「――ねえパパ、つまんない。何か予定は入ってないの?」
「お前、さっきからそれしか言ってないだろ。何度聞いても答えは同じ。入ってないよ。……大体、探偵が“つまんない”なんて良い事じゃないか。事件が全く起きてないってことなんだし……」
啓輔の言葉に優はぴくりと反応する。わざとらしくフンと鼻を鳴らし、肩を竦めてみせた。
「仮にも探偵が何を言ってるんだか。……良いかい、啓輔君。事件と云う物は、日夜起こり続けているものなのだよ? “事件が全く起こらない日”なんて物があったなら、警察は苦労しないよ」
なかなか嫌な事を言う六歳児だ。一つ溜息を吐き、啓輔は苦笑いを浮かべる。
「……そんなに暇なら、外行って遊んで来ればいいだろ? 子供は風の子なんだから」
「やだよ。こんな肌寒い中、わざわざ出歩きたい酔狂な人間なんて、いるわけないじゃん」
優は大袈裟に身を竦める。確かに季節的には春だが、まだ三月。冬と比べれば大分温かくはなってきたものの、確かに外にはあまり出たくない。
「それなら、こんな肌寒い中依頼に来る酔狂な人間もいるわけないだろ? ……第一、今日は何の連絡もないんだし――」
ピーンポーン――。
疲れたような啓輔の言葉は、突如辺りに響いたインターホンの音に掻き消された。
……来客の合図だ。それを瞬時に察した優は、先程までの退屈そうな顔とは打って変って、ぱあっと笑みを浮かべる。
「あ、パパ! きっと依頼人だよ! 私、見に行ってくるね」
「え? あ、おいちょっと!」
言うが早いか、優はいそいそとソファーから立ちあがり、軽やかに玄関へと足を運んで行く。その顔は実に晴れやかだ。
しかし、いざ扉の前に立つと、優は一瞬でスッと表情を引き締める。その顔に、先程と同じ浮ついたものは浮かんでいない。真剣そのものだ。
扉をゆっくりと開けながら、優は定型文を述べ始める。
「こちら、沢内探偵事務所で御座います。本日は、どういった御用件で――」
そう言いながら、扉の向こうに現れる青年と、その後ろに隠れる少女の姿を確認した時――一瞬、優の言葉が止まる。
次に彼女の口から発せられた言葉は、驚きに満ちたものだった。
「和人おじさんに、海ちゃん!? 何でまたこんな所にっ!?」
「よう、優じゃねぇか。久しぶりだな」
「こんにちは、優ちゃん」
気さくに片手を上げる青年とは対照的に、恥ずかしげに俯く少女。
その二人が同時に微笑んだ瞬間――優の顔が、再びぱあっと輝いた。
和人おじさんこと“桜庭和人”は、啓輔の幼馴染であり、悪友である青年だ。
出版社に記者として勤める彼は、今まで啓輔が解いてきた数々の事件を参考に、何作か小説を執筆している。その為、彼が事務所を訪れる事は多々ある事だった。
その際彼の娘である海も同伴する事があるため、同い年の優と海はかなり仲が良い。優が喜んだのもその為だ。
楽しげな優の声を聞き、何事かと驚いた啓輔が玄関に駆けつける。
少し緊張気味だった彼も、幼馴染の姿を確認すると、小さく顔を綻ばせた。
「……何だ。客って、和人達だったのか。来るなら来るって、連絡すればいいものを」
「別に良いじゃねぇか。どうせ暇だったんだろ?」
「――和人。お前それ、地味に失礼」
からからと笑う和人を、苦笑を浮かべながら窘める啓輔だが、その表情に怒りは浮かんでいない。それは、彼等の仲が良いという事と同時に、和人が悪意ある性格では無いという事の何よりの証拠だ。
「――ま、いいや。ここじゃ何だし、入れよ。何か用があるんだろ?」
「まあな。……じゃ、遠慮なく邪魔するぜ」
二人の来訪者を招き入れた後、ゆっくりと扉は閉ざされた。