『フタリダケ』小さな図書室の物語
「許せそうに無いよ」
鉛色の雲の下で三雲祐里は言った。
周囲には、なんだか色々な物が転がっているが視界がボヤけていて、何か分からない。そんな中でも距離が近い所為か、三雲の顔は良く見える。
「こんな大事な時にどうして!」
端正な顔立ちがクシャクシャになっていた。
今にも泣きそうな彼女の頬に、俺は手を伸ばすけれど、何故か上手く力が入らなくてなかなか届かない。
驚いたように見開かれる彼女の瞳は今にも泣き出しそうで、酷く胸を締め付けられる。
どうしたの? そう問おうとしても声が出ない。
まるで夢の中だ。
思うように身体は動かないし、目の前の三雲以外はボヤけて見える。現実感がないとでも言えば良いのだろうか?
ようやく指が少し上気した柔らかな頬に触れ、すると同時に彼女は俺の手を覆うように両手で握った。
とても暖かな感触がなんだか気持ち良くて、瞼が降りそうになる。
三雲が今にも泣き出しそうだっていうのに……
閉じそうになる視界の端に、白い紙切れが一枚入りこむ。
そこには『フタリダケ』と書かれていた。
剥き出しのコンクリートの壁に、白いタイルが敷き詰められた廊下をせっせと俺は歩く。
目指すは廊下の端の古びた空き教室、そこには埃を被った本棚に古そうな本が置かれている。それらは図書室で読まれなくなった本かもしれないし、昔あったという文芸部の備品だったかもしれない。
とりあえず俺には何でそんな本があるか解らないし、その本に興味もない。
空き教室の前に着くと俺はドアを開けた。
僅かな埃臭さと日向のような香りが鼻腔をくすぐる。
窓から入り込む柔らかな日の光、綺麗に整列された沢山の机と椅子、それを囲むように壁際に並べられた本棚、小さな図書室のような空き教室。
その最も明るそうな日差しが入り込む窓の下で、少女が所々はげた赤茶色の分厚い本を広げて、床に座っていた。
「ちゃっす!」
いつものように挨拶すると、読書している間に垂れて来たのであろう黒い髪を分けながら少女は顔を上げた。
「また、書いて来たの?」
やや気だるげな声で少女は言った。
少女の名は三雲祐里、放課後になると必ずと言って良いほど、この小さな図書室で俺には良く解らない本を読んでいる変わった人だ。
「おう! 今度こそ傑作と言わしめてやるぜ!」
声高らかに宣言して、手に持った紙を三雲へと突き出す。
すると三雲は小さな溜息を吐いてから、目線を手にしていた本の方に戻した。
「切りの良い所まで読ませて」
「あいよ」
仕方なく手を引っ込めて俺は三雲からもっとも近い椅子に腰かけた。
本当は今すぐにでも読んでもらいたいのだけれど、こういう状態の三雲は頑固で、もし邪魔なんてしようものなら追い出されてしまう。別に力比べじゃ負けたりしないだろうけど、無理に此処にとどまっても今度は三雲自身が出て行ってしまうから、大人しく待つ以外に選択肢は無い。
この小さな図書室は人のいる校庭やクラスからは離れている為か、黙ってしまうとやたら静かだ。
かすかに外の音は聞こえるけれど、一番大きな音は本を捲る時の紙がすれる音だ。
だからだろうか、自然と俺は三雲を見ていた。
「どうかした?」
本に視線を向けたまま三雲は尋ねると、またページ捲る。
「暇だから三雲を見てる」
「人に見られてるって、結構気になるのだけど」
俺は辺りを見回してから言った。
「でも、他に見てて面白そうな物もないし」
「私が読書してる姿って面白いの?」
「退屈!」
即答すると三雲の視線が上がり、自然と目は上目遣いになるが、その表情はとても不満そうで可愛いとは言い難い。
「そんなに退屈なら本でも読めば良いのに……」
「だって此処にある本って分厚いし、そもそも俺は小説とか読まないし」
「何でそれで小説書こうって気になるかな?」
項垂れながら三雲は言うと、手を差し出した。
「どした?」
「読んであげるから、さっさと渡しなさい」
「ほいほい」
手に持ったままの授業中に書き上げた小説を渡す。
レポート用紙三枚ほどのそれを読み始めると、すぐに三雲の眉間にしわが寄った。
「毎回言ってるけど、今回も推敲してないでしょ」
「そだよ」
切れ長に釣り上がった目が向けられ、思わず俺は息を飲む。
「てにをは変だし、くだないって何? そもそもヒロインの名前、途中から変わってるでしょこれ!」
「待て待て! さすがの俺も、ヒロインの名前は間違えないって!」
「同一人物だと思われる人が、フィーネからアイリスになってるけど?」
「あぁ、そういえば途中からフィーネってよりアイリスぽかったから変えた」
とても不思議なモノを見たというような、何とも言えない表情を三雲はすると、大きな溜息を吐いた。
「君は他人の名前が突然変わったら変だと思わない?」
「どうだろ? 考えたことないな」
「今から私の名前はマリアです」
「……何で?」
「そういうこと、いきいなり人の名前が変わったら大なり小なり混乱するでしょ。
小説だって同じ、急に登場人物の名前が変わったら読者は混乱する。ただでさえ小説なんて文字だけなんだから余計にね」
「ほ、ほう?」
俺が首を傾げると、三雲の眉が釣り上がる。
「適当な理由で登場人物の名前を変えない! 変えるなら変えるで、それなりの説明文を書くこと!」
「お、おう」
怒っているかのような勢いに押されたまま返事をする。
それが気に入らなかったのか、念を押すように「解った?」と言ってくる。その目は怖いくらいに真剣なもので、俺は大きく二度三度頷いた。
正直に言えばこんな小さなミスに、どうしてこんなにも感情を露わにするのか俺には良く解らない。だって誤字や脱字で物語が変わる訳じゃないと思うが、素直に今の三雲は何だか怖いので口にはしない。
「変なとこ、マーカーで色つけとくから、ちゃんと見直しなさい」
そう言って三雲は制服のポケットから真新しい黄色の蛍光ペンを取り出す。それから床から立ち上がると、僕の向かいの席へと座る。
柔らかな日差しが机に置かれた三枚のレポート用紙を照らす。決して綺麗とは言えない黒い文字と真っ白な紙、そこに黄色いインクが所々に塗られていく。
作業に入った三雲には声をかけづらくて、会話を失った僕等を静寂が包み込む。視線を下げている為に垂れてくる前髪を、時折り掻き上げながら三雲は黄色いラインを引く。色素の薄い白い手がなめらかに左右に動き、掴んだら折れてしまいそうな細い指が蛍光ペンを握っている。
何の気なしに、それをジッと見つめていると何故だか繊細なガラス細工を見ているような錯覚に囚われ、手の動きに魅入っていた。
「君ってさ、ロマンチストなの?」
唐突な問いに言葉の意味をしばらく理解できなくて、首を傾げた。
「だって君って、とっても適当で面倒くさがりじゃない」
何だか酷いことを言われているけど、否定も出来ないのでしぶしぶ俺は頷く。
「何だか目の前の貴方と貴方の書いた小説は、とてもギャップがあるのよね」
「そうなのか?」
三雲は「えぇ」と頷くと、更に言葉を繋げる。
「まるで別人が書いているみたいで……ついつい最後まで読んじゃうのよね」
「もしかして、それは面白かったってことか!」
「興味深いって意味なら、そうね」
おかしそうに三雲は微笑む。
「ちぇ」と視線を反らし毒づいたふりをすると、俺は突然に身体を左右に揺すられるような感覚に襲われ、思わず立ち上がってたたらを踏む。
「地震?」
目を瞬かせながら、三雲は両手で机を抑える。
地に足が付いていないかのような浮遊感、ガタガタという音を立てて周囲の物が動き、本棚に積もった埃が浮き上がり周囲に舞い始める。
「ちょっと、これは強すぎだろ!」
言った瞬間、三雲のすぐ後ろにある本棚がグラグラと揺れ始める。まだ三雲は気付いていないのか、少しも動こうとしない。
「ユウリ!」
咄嗟に下の名前を呼んで、俺は机越しに置かれた三雲の細い腕を掴み、力任せに引っ張る。揺れに任せて傾く身体をそのままに、机の脇へと引きずり倒す。
二メートルはありそうな本棚が僕等を覆い潰すように倒れてくる。
見開かれた大きな三雲の瞳が随分と近くにある。その頭に手を伸ばして、抱え込む。瞬間、俺の視界は本の山によって暗く閉ざされた。
『フタリダケ』俺が授業中に書いたレポート用紙三枚に書いた短い小説。
恋愛関係にある二人が喧嘩したのちに、災害に巻き込まれて仲直りするという内容だ。
今、思うと酷く陳腐な気がしないでもない。
薄れゆく意識の中、三雲の声がはっきりと聞こえた。
「人の名前間違えるかな! 私はユウリじゃなくてユリだから!」
あぁ、なるほど台無しだ。
翌日、病院のベッドで起きた俺は見舞いに来た三雲祐里に、原稿用紙五枚いっぱいに『三雲祐里 みくもゆり』と書かされていた。
「ところでさ」
「何?」
「祐里は俺のこと君としか言わないけど、俺の名前知ってるの?」
クスリと微笑んで祐里は原稿用紙の片隅に広瀬直人と書き込んだ。
「しょうがない。おとなしく書くか」
「残念でした」
おわり