『図面など令嬢の手すさび』と八年分を燃やされた設計士——三か月後、王城の新館が傾きはじめました
世の中には、立っているだけで嘘をついている建物がある。
見た目は立派だ。柱は太い。玄関の彫刻には金までかかっている。それでも駄目なものは駄目だ。いずれ地面のほうが正直に答えを出す。
リリアン・フォン・クライスは、そういう建物を見分けるのが得意だった。
得意すぎて、婚約を破棄された。
ガントレンは王都から馬車で二日の町だ。石工と木挽きが多い。朝から槌の音がしている。
リリアンの設計事務所はその通りの端にあった。看板は自分で彫った。彫刻の腕はないので、字はやや曲がっている。
「先生、樋の勾配なんですがね」
石工のバルトが図面を持って入ってきた。指が石粉で白い。
「三十分の一で取ってくださいまし」
リリアンは鉛筆の尻で余白を叩いた。速い。機嫌がいいときの速さだ。
「それ以上寝かせると、冬に水が残って凍りますわ。凍れば割れます。割れたら春に直すことになって、あなたまた屋根に登るはめになりますでしょう?」
「登りたかありませんや」
「でしょう。ですから三十分の一ですの」
バルトが笑って出ていった。リリアンは椅子に沈んで、腹が鳴った。
(……そういえば、お昼をまだいただいておりませんわね)
この町へ来て九か月になる。伯爵令嬢だった頃の暮らしとは何もかも違うけれど、不思議と困っていない。困る暇がないほど仕事が来る。
王都にいた八年間、リリアンは図面を描き続けた。婚約者レオン・フォン・ベルクの名前で、である。
レオンは宮廷建設師の補佐だった。ただし図面が読めない。柱の断面図と梁の伏図の区別がつかない。それを八年間、隠し通した。
隠すために必要だったのが、婚約者の腕だった。
「君が描いてくれると助かるよ。名前は僕のになるけれど、結婚すれば同じことだろう」
同じことだろうか、と当時のリリアンは思った。思ったが、描いた。描くのは楽しかったし、自分の線で建物が立つのは気持ちがよかったからだ。
その八年分が、一年前の冬に燃えた。
きっかけは王城新館の設計だった。
建てる場所は王城の東棟の隣で、リリアンは着工前に王城管財室の地盤台帳を読んだ。台帳には、その土地の地面の中身が層ごとに記録されている。東側は粘土層と書いてあった。
粘土は水を含んでいる。上から重いものを載せると、水がゆっくり抜けて縮む。だから粘土層に建てるときは、その下の固い層まで杭を届かせなければいけない。届かなければ、建物はじわじわ沈む。
「東側は十二尺まで打ってくださいまし」
リリアンはそう書いた図面を出した。宮廷建設師グスタフ・エーレントは首を横に振った。
「工期が二月延びます。費用も嵩みます。六尺で十分でしょう」
「十分ではありません。台帳をご覧になって」
「台帳は目安です」
押し問答は三度続いた。三度目の夜、レオンが書斎でこう言った。
「図面など令嬢の手すさびだろう。口を出すな」
その一週間後、婚約の破棄が告げられた。理由は「気性が合わない」だった。
リリアンは荷物をまとめた。持っていくつもりだったのは、八年分の設計書だけだ。図面は彼女の手元にしかない写しで、王都で仕事を続けるにも辺境へ移るにも、あれさえあればよかった。
翌朝、書斎に行くと暖炉が燃えていた。
八年分が、そこに投げ込まれていた。
リリアンは手にした鉛筆の尻で、扉の枠を一度だけ叩いた。速さの出ない、鈍い音がした。
あのとき、リリアンは泣かなかった。
腹が立っただけだ。それも猛烈に。八年ぶんの紙が焦げる匂いのなかで、彼女が思ったのはただ一つだった。
——こんな人たちが造った建物になんて、絶対に入ってやるものですか。
その日の夕方、事務所の扉が鳴った。
入ってきたのは背の高い男だった。外套の裾に泥がはねている。
王都の泥だ、とリリアンは見た。ガントレンの土はもっと赤い。
「クライス設計事務所は、こちらでしょうか」
「ええ、そうですけれど」
「ランバール公国の建設特使、クリスト・フォン・ライナーと申します」
リリアンは鉛筆を置いた。隣国の特使が辺境の設計事務所に来る理由は、普通なら一つもない。
「まあ。ずいぶん遠くまで泥をお持ちになりましたのね」
「馬を替えて来ました」
冗談が通じない方だわ、と思いつつ、リリアンは椅子を勧めた。クリストは腰を下ろすと、卓に一枚の紙を置いた。
図面の写しだった。バルグ砦の増築。三年前、リリアンが描いたものだ。
隅に、菱形に線を一本引いた印がある。
「この印の主を探しています」
リリアンは黙った。
「名義はレオン・フォン・ベルク殿でした。ですが砦を見て、私はこの設計をした人間に会いたいと思いました。三年かかりました」
「……どうして名義の方ではないと」
「あの砦は、地盤の悪い側の柱だけ断面が大きい。台帳を読んでいなければ描けません。ベルク殿にお会いしたとき、彼は台帳の綴じ方をご存じなかった」
リリアンは思わず笑った。ふふ、と声が出てしまった。
「あら。それは決定的ですわね」
「決定的です」
クリストは表情を変えなかった。この人、褒めているつもりなのかしら、とリリアンは思う。たぶんそうなのだろう。褒め方が石工のそれだ。
「それで、ご用件は」
「王城の新館が沈んでいます」
リリアンの手が止まった。
「東側から。落成して三か月です。晩餐会が五日後にあります。両国の代表が入る予定になっています」
「……杭は、どのくらいで打ちました?」
「六尺だと聞いています」
リリアンは目を閉じた。閉じた裏側に、一年前の図面が浮かぶ。
東側は粘土層。荷重をかければ何か月もかけて縮む。あそこは十二尺なければ足りない。
目を開けた。
「六尺では足りません」
「同じ結論です」
「五日後の晩餐会は、中止になさって」
「その権限が私にはありません。ですから、あなたを探しに来ました」
リリアンは立ち上がった。上着を掴んで、それから振り返る。
「クリスト様。ひとつ伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「わたくし、あの建物に入りたくないと思っておりましたの。一年間ずっと」
「ええ」
「でも他の方が入って崩れるのは、もっと嫌ですわ」
クリストは一拍置いた。それから、初めてわずかに口の端を動かした。
「では、参りましょう」
王都までは馬車で二日かかった。
一日目、クリストはほとんど喋らなかった。窓の外を見ているか、書類を読んでいるかのどちらかだ。リリアンは二時間ほど我慢して、それから諦めた。
「クリスト様。少しお喋りしてもよろしい?」
クリストが書類から目を上げた。それを承諾と取ることにする。
「三年、とおっしゃいましたでしょう。あの印を探すのに」
クリストが窓から目を戻した。
「三年もかけて、いったい何をなさっていたんですの」
クリストは書類を膝に置いた。
「まず、ベルク殿にお会いしました。二年前です。そのときに、この方ではないと分かりました」
「まあ。二年前にはもう」
「ええ。ですが名義がある以上、公には申し立てられません。証拠がありませんでした」
「それで」
「ヴェルデン王国に提出された図面を、片端から見せていただきました。枢密院の書庫にあるものだけで四百枚ほどです」
リリアンは目を丸くした。
「四百枚をご覧になったんですの」
クリストは否定しなかった。それが肯定だった。
「あの……お仕事は」
「これも仕事です」
言い方があまりに平坦だったので、リリアンは思わず吹き出した。
「ふふ。ずいぶん熱心な特使様ですこと」
「熱心ではありません。必要でした」
「どう違いますの」
クリストは少し考えた。それから、外套の袖口を触った。
「うちの国は、これから十年で港を三つ造ります。地盤の悪い土地ばかりです。台帳を読める人間が要ります」
「なるほど。実利ですのね」
「実利です」
リリアンは窓の外に目をやった。畑がゆっくり流れていく。
(……本当にそれだけかしら)
四百枚は、実利にしては多すぎる気がした。けれど、そう言うと決めつけになる。彼女は言わないことにした。
代わりに、包みを開けて中身を差し出した。
「クリスト様。焼き菓子はお好きですか」
「……いただきます」
「よかった。ガントレンのパン屋のですのよ。二日ぶんですから、遠慮なさらないでくださいまし」
二日目、クリストは少しだけ喋るようになった。
着いた朝、リリアンは新館の東側の廊下に立った。
立った瞬間に分かった。目より先に足の裏が答えを出す。左が低い。
指が動いた。鉛筆を探している。持っていないのに、余白を叩こうとしていた。
「……三分の一寸ほど、傾いていますわね」
「測量では四分の一寸でした」
「昨日の測量でしょう。今朝はもう三分の一ですわ」
クリストが初めて彼女の顔を見た。
「進行しているということですか」
「ええ。粘土は一度動き出すと、しばらく止まりません。晩餐会で百人が入れば、荷重が増えます」
リリアンは壁に手を当てた。継ぎ目に細い亀裂が走っている。指を入れると、爪の先が沈む。
(——ああ、もう。だから言いましたのに)
腹が立つ。一年前と同じ怒りが戻ってきた。ただ今度は、怒っている暇がない。
「クリスト様。管財室の地盤台帳を出していただけますか。それと、新館の提出図面を」
「台帳は管財室、図面は枢密院の書庫です。どちらも申し立てれば出ます。私にはその権限があります」
「ではお願いいたしますわ。わたくしは、その間に杭の頭を見てまいります」
「床下に潜るのですか」
「潜りますわよ。ドレスではありませんもの」
リリアンは笑った。作業着の裾を持ち上げてみせる。クリストは何か言いかけて、やめた。
新館の床下は、思ったより広かった。
膝をついて進むと、途中から腹ばいになる。埃と、湿った土の匂い。リリアンは灯りを前へ押し出しながら、東の壁のほうへ這っていった。
「見えますか」
入口からクリストの声が降ってくる。
「見えておりますわ。もう少しですの」
やがて杭の頭に手が届いた。石を積んだ土台の下から、太い木の断面が覗いている。リリアンはその周りの土を指で払った。
土台の縁と、杭の頭の間に隙間があった。指が一本入る。
(……あら。抜けかけてらっしゃるわ)
沈んでいるのは建物のほうではない。杭ごと下がって、土台だけが取り残されている。粘土が縮んだせいで、杭が下へ引きずり込まれているのだ。
リリアンは灯りを近づけて、杭の側面を見た。木肌に横線が一本走っている。土に埋まっていた部分と、そうでない部分の境目だ。
線から頭までを、手の幅で測る。三つと少し。
「クリスト様。聞こえていらっしゃる?」
「聞こえています」
「杭、二寸下がっておりますわ。落成のときからですと、月に半寸強のはやさですの」
少しの沈黙があった。
「あと二日で、どれだけ下がりますか」
「二日なら知れております。問題は、その日に百人お入りになることですわ」
リリアンは杭の頭を手のひらで叩いた。乾いた音ではなく、鈍い音が返ってきた。
「音が湿っております。周りの土が水を持っておりますのね」
彼女は這って戻りはじめた。戻りながら、頭の中で計算をしていた。荷重、面積、粘土の縮み方。数字は昔から、勝手に並んでくれる。
外に出ると、クリストが手を差し出していた。リリアンはその手を取って立ち上がる。埃で真っ白だった。
「ひどい格好でしょう」
「いえ」
「あら。お上手ですのね」
「事実です」
この方、本当に冗談を言わないのだわ、とリリアンは思った。思って、少し笑った。
その日の午後、二つのものが並んだ。
一つは王城管財室の地盤台帳。東側は粘土層、と書いてある。一年前にリリアンが読んだままだ。
もう一つは、新館の提出図面。杭六尺。名義はグスタフ・エーレント。
枢密院の審査は通っている。審査で見るのは総額と工期だけで、杭の一本一本までは照合しない。そこを知っている人間の仕事だった。
そして図面の隅に、菱形に線を一本引いた印があった。
リリアンはその印を長いこと見ていた。
「わたくしの印ですわ」
「間違いありませんか」
「間違えようがありません。この線、右上から左下へ引いておりますでしょう。わたくしは左利きですの」
クリストが顔を上げた。
「ベルク殿もエーレント殿も、右利きでした」
「ええ。ですから真似ができないんです。引き直すたびに、癖が出ますから」
リリアンは図面をめくった。三枚目で手が止まる。
「……あら」
「どうしました」
「杭の数字だけ、書き替えられておりますわ」
紙を光にかざす。十二という数字の上に、六が上書きされていた。下の線がわずかにはみ出している。
「わたくしの図面を出して、杭の深さだけ短くしたんですのね。工期と費用が浮きますもの」
「差額はどこへ」
「さあ。でもこの手は、今回が初めてではないと思いますわ」
リリアンは図面を置いた。それから、思い出したように付け加える。
「エーレント様、去年の暮れに屋敷を建て増しなさいましたの。西の棟をまるごと。……ちょうど、杭の代金が浮いた頃ですわね」
審問は翌日と決まった。
その夜、リリアンは宿の卓で紙を広げていた。計算を書き出しておくためだ。荷重に対して粘土がどれだけ縮むか。式は三つある。どれで計算しても同じ答えになることを、明日その場で見せる。
扉が叩かれた。クリストが茶を持って立っていた。
「まだ起きていらしたの」
「明日の段取りを詰めていました」
彼は卓に茶を置いて、リリアンの紙を覗き込んだ。数字の列を目で追っている。
「三つとも合いますか」
「合いますわ。二寸三分。実測とも合っております」
「では、崩せません」
「ええ。崩せませんの」
クリストは椅子を引いて座った。座ってから、しばらく黙っていた。
「クライス嬢」
「はい」
「明日、あなたはご自分の八年を人前に出すことになります」
リリアンは鉛筆を置いた。
「そうですわね」
「気が進まないのであれば、鑑定書だけ書いていただく形にもできます。私が代わりに読みます」
思いがけない申し出だった。リリアンは少し驚いて、それから笑った。
「クリスト様。あなた、意外とお優しいんですのね」
「効率の話です」
「いいえ、優しさですわ。わたくし、そういうのは見分けがつきますの。建物と同じで」
クリストは答えなかった。袖口を触っていた。
「ですが、出ます」
リリアンは言った。ここは令嬢語尾を抜いた。
「八年間、わたくしの線は他人の名前で立っておりました。一度くらい、自分の名前で立たせてやりたいんです」
クリストが顔を上げた。
「わかりました」
「あら。反対なさらないの」
「反対する理由がありません」
彼は立ち上がって、扉のところで振り返った。
「茶が冷めます」
それだけ言って出ていった。リリアンは湯気の立つ茶碗をしばらく眺めて、それから吹き出した。
(……本当に、見積書みたいな方だこと)
枢密院の審問は翌日だった。
謁見の間の床は磨いた石で、秋なのに底冷えがした。
リリアンはランバール公国の列に立っていた。クリストの二つ後ろだ。伯爵令嬢の装いではない。特使が用意した鑑定人の紺の上衣を着ている。
長机の上に、地盤台帳と新館の提出図面が広げられていた。
レオンは正面にいた。一年ぶりだ。姿勢だけは記憶のままだった。
老議長が図面を掲げた。
「杭六尺。地盤台帳は粘土層と記す。エーレント殿、なぜ六尺か」
「工期の都合でございます」とグスタフが答えた。「台帳は目安にすぎません。現場の判断が優先されるのが慣行でして」
「その慣行はどこに書いてある」
グスタフの返事が、少し遅れた。
議長がリリアンに向いた。
「ランバールの鑑定人。この図面の作者は」
リリアンは前に出た。ここから先は、令嬢の言葉ではなかった。
「わたくしです。八年前から一年前まで、ベルク家に提出した図面はすべてわたくしが引きました。この印は左利きの引き方です。今この場で同じものを引いてご覧に入れます」
紙が用意された。リリアンは菱形を引き、線を一本入れた。右上から左下へ。
議長が図面の印と並べた。二つは同じ角度で傾いていた。
「捏造だ」
レオンが叫んだ。声が上ずっている。
「それはあいつが後から刷ったものだ。八年間、僕が描いてきた」
「では、伏図の梁と柱の断面をこの場で描いていただけますか」
リリアンが言った。声を張らなかった。図面の話をするときの、あの静かな速さで言った。
「どちらも一枚十分で描けるものですわ。八年お描きになったのでしたら」
レオンは紙を睨んだ。鉛筆を持ったまま、動かない。
「では、こちらでも構いません」
リリアンは自分の紙を出した。
「六尺の杭で粘土層に立てた建物が、何か月で何寸沈むか。計算式は三つございます。どれでも結構です。三つとも同じ答えになりますから」
彼女は書いた。書きながら読み上げた。
「荷重を面積で割ります。粘土の縮み率を掛けます。杭が届いていない分の厚みを掛けます。——二寸三分」
二つ目の式を書いた。答えは同じだった。
三つ目も同じだった。
「昨日、床下で実測してまいりました。二寸下がっておりました。三分の差は、測り方の誤差ですわ」
議長が身を乗り出した。
「エーレント殿。反論は」
グスタフは黙っていた。彼は技量のある建設師だ。だからこそ、この計算が合っていることが分かってしまう。
レオンの口が開いた。
何も出てこなかった。
リリアンは、その沈黙を正面から見ていた。
八年だ。八年間この人は、図面が読めないことを一度も認めなかった。認めなくても済んでしまったのだ。だから認め方を覚えないまま二十七歳になった。
それが今日、要る場面に来ている。
胸が熱くなるだろうと思っていた。ざまあみろ、と思うつもりでいた。
(……あら)
来なかった。代わりに来たのは、もっと平たいものだった。
この人はたぶん、明日も自分が悪いとは思わない。そういう造りなのだ。造りは、そう簡単に直らない。柱の位置と同じで、後から動かせるものではない。
「議長」
グスタフが口を開いた。
「差額の件は、ベルク家からのご要請でございました」
レオンが振り向いた。その顔を、リリアンは見た。見て、目を伏せた。愉快ではなかったからだ。
議長が閉会を告げた。
新館の晩餐会は中止になった。東側は解体して打ち直す。費用は二人の家が負う。
宮廷建設師の職は取り上げられた。ベルク家からは補佐の名も消えた。
リリアンはその決定を、謁見の間を出るときに聞いた。廊下の窓から秋の光が入っていた。
王都を発つ朝、宿の前にクリストが立っていた。
「王城から使いが来ています」とクリストが言った。「名誉の回復と、宮廷建設師の職をお受けいただきたいと」
「まあ。ずいぶん急にお優しいこと」
「受けますか」
リリアンは少し考えた。
考えている間に、腹が鳴った。
(……朝食がまだですわね。いえ、その前にお返事ですわ)
「お断りいたしますわ」
「理由を伺っても」
「ガントレンに、樋の勾配で困っている石工がおりますの。冬までに仕上げないと、あの方また屋根に登りますのよ」
クリストは黙った。
それから、外套の袖口を触った。触ってから、一拍置いた。
「クライス嬢」
名を呼ばれて、リリアンは振り向いた。
「ランバールに、まだ立っていない建物がたくさんあります」
「存じておりますわ」
「私は、その建物を建てる側の人間です。あなたに、隣にいていただきたい」
リリアンは目を丸くした。
「……それは、お仕事のお話ですの? それとも」
「両方です」
言い切った。相変わらず声の高さが変わらない。
リリアンは笑った。今度は声を出して笑った。
「クリスト様。あなた、告白まで見積書みたいにおっしゃるのね」
「正確な方がよいと思いました」
「ええ。とても正確でしたわ」
返事をしようとして、リリアンは口を開けたまま止まった。
おかしなことだった。杭の深さなら即答できる。粘土の縮み率も、荷重の割り方も、聞かれた瞬間に数字が出る。それなのに、自分がこの人の隣にいたいかどうかだけが、言葉にならない。
答えは出ている。出ているのに、口が動かない。
彼女は右手を差し出した。先に手が動いた。鉛の粉のついた指だ。八年間、他人の名前で図面を引いてきた指でもある。
「……お受けいたします。ただし事務所は畳みませんわ。あちらとこちら、両方でやります」
「馬車で二日です」
「二日でしたら、月に二度は往復できますでしょう?」
クリストがその手を取った。取ってから、ようやく口の端が動いた。
朝の光が石畳に落ちていた。遠くで槌の音がしている。どこかで誰かが、まだ立っていない建物を叩いている音だ。
世の中には、立っているだけで嘘をついている建物がある。
けれど、正直に立っている建物のほうが、ずっと多い。
リリアンはそちら側を建てる人間だった。これからも、そうするつもりだった。




