俺の婚約者は、ニセ和尚と本物の婚宴を開いていた。
婚約して十年。神崎玲奈は十回目の結婚式をキャンセルし、その理由は相変わらず会社の祈願行事だった。
しかし、彼女の幼なじみである御堂文哉がグループに投稿した写真には、白無垢をまとった玲奈が彼と並んで祭壇の前に立っている姿が写っており、そこには「十年の相伴、縁は君とともに」と添えられていた。
親族や友人から次々と祝福が届き、なぜ頭を丸めたのかと尋ねる者までいた。
私はグループでこう返した。「引き菓子は私の分も残しておいて。ご祝儀十万円は用意してある」
彼女から電話がかかり、心が狭いと叱られ、「大師」に謝罪するよう求められ、来月に結婚式を挙げると約束された——それも八十八回目だった。
私は電話を切り、三つの主要契約書を持ち去り、辞職届と辞任届を提出した。そして指輪を外し、誰もいない宴会場に置き去りにした。
今度こそ、本当に終わりだ。
1
俺はそれ以降、玲奈からの電話を一本も取らなかった。
何十回かけてもつながらないと分かると、彼女はLINEで最後通告を送ってきた。
「直人、これが最後よ」
「これ以上くだらないことで騒ぐなら、本当に婚約を解消するから」
「今すぐ会社のLINEグループで慧真先生に謝りなさい。そうすれば、まだやり直せるわ」
画面に並んだ文字を眺めていると、胸の奥まで冷たい水に沈んでいくようだった。
俺たちは五年間交際し、その後、十年間婚約を続けてきた。
十五年の間、玲奈は意見が衝突するたびに、婚約解消を持ち出して俺を屈服させた。
かつての俺には、意地も自尊心もなかった。
自分が悪くなくても、玲奈のところへ駆けつけて謝り、説明し、許しを乞うた。本当に捨てられるのが怖かったからだ。
だが今日は、初めて彼女の電話をすべて拒否した。
間もなく、銀行から通知が届いた。
玲奈は俺に渡していた家族カードを停止し、生活口座のログイン情報まで変更していた。
口座は玲奈名義だが、そこには俺が長年働いて得た給与と貯金の大半が入っている。
口座を作った日、俺は彼女の手を握り、これが自分の持つすべてであり、二人の将来のために預けるのだと伝えた。
玲奈は目を潤ませ、こんなに心のこもった約束を受け取ったのは初めてだと言った。
だが今、その約束は俺を脅す道具に変わっている。
口論になるたびに玲奈は家族カードを止め、二十四時間の猶予を与えた。時間内に俺が謝らなければ、婚約を解消すると宣言するのだ。
十五年間、この経済的な制裁は一度も失敗しなかった。
俺が必ず、最後には折れていたからだ。
しかし今回、利用停止を示す灰色の画面を見ても、込み上げてきたのは笑いだけだった。
玲奈がカードを停止して間もなく、御堂文哉がInstagramへ新しい投稿を載せた。
彼は正式な寺院に所属しているわけでも、宗教法人から認められた僧侶でもない。「慧真」という法名を勝手に名乗り、企業専門の祈祷師として活動している玲奈の幼なじみだ。
投稿には、わざわざ俺のアカウントまでタグ付けされていた。
【玲奈と行った縁結び奉納式は、あくまで企業祈願です。まさか一部の方をここまで動揺させるとは思いませんでした。まだ心の修行が必要なようですね】
普段ほとんど投稿しない玲奈が、すぐに「いいね」を押した。
さらにコメントまで残している。
【自分の器が小さいのに、相手が優秀すぎるせいにする人もいるのね】
誰を指しているのかは、説明されるまでもなかった。
神崎ホールディングスとの関係で利益を得ている親族や社員たちも、続々とコメントを書き込んだ。
【相馬さん、男なのに心が狭すぎませんか。慧真先生、気になさらないでください】
【神崎社長が結婚式を延期し続けるのも分かります。これほど細かいことを気にする男性との結婚は、慎重になった方がいいですよ】
俺はInstagramを閉じ、スマートフォンの画面を消した。
慧真が日取りの縁起が悪いと言えば、玲奈は何か月も前から準備していた結婚式を簡単に中止した。
俺が一言でも不満を漏らせば、仕事への理解がないと責められた。
今回は俺が二人を祝福したというのに、皮肉を言ったと怒り、生活費まで止めて謝罪を迫ってくる。
正しいか間違っているかなど、初めから関係なかった。
玲奈の心にはずっと、袈裟をまとった幼なじみのための特別な場所があったのだ。
ホテルの支配人が、気まずそうな顔で俺のもとへ近づいてきた。
「相馬様、お伝えすべきか迷っていたことがございます」
「神崎玲奈様は数日前にも、こちらのホテルで宴席を開かれています。届け出上は『縁結び奉納式』でしたが、式次第も座席も衣装も、結婚披露宴とほとんど変わりませんでした」
「本日ご予約いただいている披露宴は、このまま行われますか?」
俺は披露宴の企画書の端を指でなぞり、首を横に振った。
「中止します」
「この日程は、ほかの方に譲ってください」
後ろで空きを待っていた一組の男女が、信じられないという顔でこちらを見た。
星凪グランドホテルは、星凪市でもっとも予約が取りにくい老舗高級ホテルだ。披露宴の日程は、通常なら一年前から押さえなければならない。
今日という日を確保するため、俺はこれまで築いてきた人脈をほとんど使い切った。
それでも、手放すことに迷いはなかった。
俺はキャンセル書類へ署名し、企画書と一緒に支配人へ返した。
玲奈が正式な結婚式を中止したのは、今回で十回目だ。
毎回、俺は今日と同じように会場を準備し、幸せそうな新郎新婦の間で、彼女が扉を開けてくれることを待った。
だが式が近づくたび、玲奈は電話をかけてきた。
「直人、会社の祈願行事に変更が出たの。結婚式は延期しないといけないわ」
「慧真先生が、この日は会社の運気と相性が悪いと言っているの」
俺が不満を口にすれば、彼女は取締役会や社員の生活を持ち出した。
「今回の祈願が、上場と融資に関わっていることを分かっている?」
「たった一度の個人的な披露宴のために、何千人もの社員の将来を危険にさらせと言うの?」
もっともらしい言葉だった。
だが結婚式を中止したあと、慧真は決まって俺へ連絡してきた。
「玲奈は今朝四時に清心庵へ来て、掃除をしてくれました。今日は一日中、私と写経をしてくれるそうです」
「あなたが四十度の熱を出した時は、病院へ五分も行かなかったと聞きましたが?」
別の日には、不動産の譲渡書類まで送ってきた。
「清心庵は夏になると少し暑い、と話しただけなのです」
「玲奈はすぐに、紫苑台の別荘を私の名義へ変えてくれました」
「相馬さんは今も、月汐町の雨漏りする古いアパートに住んでいるのですよね?」
以前の俺は、慧真がわざと二人の間を壊そうとしているだけだと言い聞かせていた。
だが今回、玲奈は彼と、正式な結婚式と変わらない儀式を終えていた。
十五年続いた愚かな関係を終わらせるには、十分すぎる理由だった。
2
ホテルを出て間もなく、会社の法務部から返信が届いた。
退職届は受理されたが、俺は経営企画本部長と執行役員を兼任している。会社登記や大型案件の責任者変更に関わるため、玲奈本人へ辞任届が到達したことを確認する必要があるという。
秘書からも連絡があった。
「神崎社長は、ここ数日ずっと清心庵に滞在しています」
「執行役員辞任届は、できれば直接お渡しください。受け取りを拒否された場合は、内容証明郵便で正式に送付します」
清心庵という文字を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
そこは玲奈が会社の金で慧真のために建てた、会員制の禅修施設だった。
これまでは修行の場に部外者を入れられないと言われ、俺は敷地へ足を踏み入れることさえ許されなかった。
ようやく入ることができる理由が、玲奈との最後の仕事を終わらせるためだとは思わなかった。
それでも、俺は清心庵へ向かった。
清心庵は星凪市郊外にあり、写経室、茶室、枯山水の庭、護摩祈祷を行う部屋まで備えていた。
写経室の障子を開けると、玲奈が文机の前へ正座していた。
慧真は後ろから身体を密着させ、玲奈の肩越しに両腕を伸ばして、その手を握っている。二人は一本の筆を持ち、紙に「縁」という字を書いていた。
身体は隙間なく重なり、呼吸さえ混ざり合いそうな距離だった。
俺に気づいても、慧真は手を離さなかった。
むしろ玲奈の肩へ顎を乗せ、俺に聞こえる程度の声で笑った。
「玲奈、君の家の番犬が来たようですよ」
仕事の報告に来ていた幹部たちが、その言葉を聞いて笑い始めた。
「相馬本部長、また神崎社長に許してもらいに来たんですか?」
「一日も耐えられないと思っていましたよ」
「賭けますか? 三分以内に土下座する方へ十万円」
似たような侮辱は、これまで何度も聞いてきた。
それでも、胸の奥に重い不快感がたまっていく。
「謝罪に来たわけではありません」
幹部たちは、一斉に吹き出した。
「謝りに来たんじゃないなら、何をしに来たんです?」
「前回は神崎社長に許してもらうため、全社員の前で慧真先生へ一時間も土下座したでしょう?」
指先に力が入った。
忘れたい記憶が、鮮明によみがえる。
慧真は以前、経営会議で会社の資金を使い、大型の祈願塔を建設する案を出した。
事業上の価値がないと判断した俺は、会議の場で反対した。
すると慧真は玲奈の前で、俺が仏教や修行を侮辱し、会社の運気を破壊しようとしていると訴えた。
玲奈は激怒した。
その年の結婚式を中止されたくなければ、全社員の前で慧真に土下座し、百回謝罪しろと命じたのだ。
当時の俺は、彼女を愛していた。
だからまた、言われるままに従った。
俺が一度譲るたびに、玲奈の仕打ちはさらにひどくなっていった。
俺は深く息を吸い、辞任書類を入れた封筒を文机へ置いた。
「神崎社長、退職届と執行役員辞任届をお持ちしました。受領の確認をお願いします」
玲奈がようやく顔を上げた。
書類を取ろうとした瞬間、慧真が筆先で彼女の耳たぶに墨をつけた。
「玲奈、今日の写経は一気に完成させなければなりません」
「途中で別の書類に署名すれば、心が乱れてしまいますよ」
玲奈はすぐに手を引っ込めた。
その後、信じられないことに、慧真の袈裟の内側から神崎ホールディングスの代表者印を取り出し、文机へ放り出した。
「受領確認が必要なら、代表印を総務へ渡して処理させて」
「用事が済んだら帰って。写経の邪魔をしないで」
俺は代表者印を見つめた。
昨年、会社の上場準備で監査資料を整理した時、俺は何日も徹夜を続け、最後には四十度の熱を出した。
緊急書類へ押印する必要があったが、玲奈は代表者印を金庫へ入れたまま、俺には触れさせようとしなかった。
「会社の印鑑は、あなたのような一社員が自由に扱えるものではないわ」
あの時、彼女はそう言った。
俺には近づくことすら許さなかった代表者印が、今では玩具のように慧真の袈裟へ入れられている。
胸の内側を、細かな破片で切り刻まれているようだった。
俺は書類と受領確認書を整理し、法務部へ連絡を入れた。
あとは正式な手続きに任せればいい。
立ち去ろうとした俺を、玲奈が呼び止めた。
「慧真先生は、これから山籠もりの修行に入るの」
「清心庵コンサルティングの四半期報告書を、あなたが完成させておいて」
玲奈は空欄ばかりの書類を、俺の前へ投げた。
何度繰り返されたか分からない光景だった。
神崎ホールディングスは、清心庵コンサルティングへ四半期ごとに三百万円の「開運顧問料」を支払っている。
成果報告書、祈願行事の実施記録、業績改善に関する説明資料は、すべて俺が徹夜で作成してきた。
慧真は最後のページへ、自称する法名を書くだけだ。
それだけで、三百万円の顧問料を受け取ることができた。
資料にわずかな間違いがあれば、玲奈は取締役会で俺を罵倒した。
「こんなこともできないなら、道端の物乞いより役に立たないわね」
以前の俺は、自分自身に言い聞かせていた。
玲奈が喜び、いつか結婚式を挙げられるのなら、少しくらい傷ついても構わない。
だが今は、すべてが見えている。
「すでに辞任届を提出しました。この仕事は、もう俺の担当ではありません」
言い終える前に、慧真が胸を押さえ、弱々しくせきをした。
「玲奈、相馬本部長を無理に働かせてはいけません」
「前回の護摩焚きで手を火傷しましたが、報告書くらいなら自分で書けますから」
玲奈はすぐに彼の手を取り、心配そうにのぞき込んだ。
「まだ治っていないのに、あれほど大量の資料を書けるはずがないでしょう?」
俺へ向き直った時には、声も表情も冷たくなっていた。
「前回の祈願式をあなたが台なしにしたのに、慧真先生は責任を追及しなかったのよ」
「埋め合わせの機会を与えているのに、断るつもり?」
俺は二人を眺め、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになった。
俺が台なしにしたという祈願式は、二人が結婚披露宴まがいの行事を開くための口実ではなかったのか。
玲奈は俺が動かないと分かると、また同じ言葉を使った。
「この報告書を作らないなら、本当に婚約を解消するわよ」
俺は静かに彼女を見た。
「それで構わない」
「俺も、同じことを考えていた」
3
俺は玲奈に背を向け、出口へ向かった。
「相馬直人、待ちなさい!」
信じられないという玲奈の声が、写経室に響いた。
幹部たちは顔を見合わせている。
俺が本当に断るとは、誰も思っていなかったのだろう。
慧真が数珠をゆっくり動かし、笑い声を漏らした。
「玲奈、怒る必要はありません」
「相馬本部長は、あなたの気を引こうとしているだけですよ」
彼は、わざと声を大きくした。
「以前も怒って家を出たものの、最後にはあなたの家の前で一晩中ひざまずいて、許しを求めていたではありませんか」
玲奈の表情から、少しずつ緊張が消えていった。
俺の背中へ向ける声も、柔らかくなった。
「直人、最近あなたを放っておいたことは認めるわ」
「慧真先生の四半期報告書を仕上げたら、来月こそ正式に結婚式を挙げましょう。ね?」
また来月だ。
八十八回も聞かされた、口先だけの約束だった。
前回も同じことを言われ、俺は三四半期分の報告書を徹夜で完成させた。
その結果、玲奈と慧真は「開運巡礼」と称して、碧環諸島へ旅行した。
二人は海辺の高級ホテルに半月滞在した。
慧真は毎日、玲奈との写真をInstagramへ投稿し、俺だけが会社へ残って、二人が投げ出した仕事を処理した。
もう、玲奈の言葉を信じることはない。
俺は振り返らなかった。
背後から、幹部たちの嘲笑が追いかけてきた。
「何を強がっているんだ?」
「相馬直人が神崎社長なしで生きていけるわけがない」
「今夜までに戻ってくる方へ賭けるよ」
俺は、その声をすべて清心庵へ置いてきた。
神崎ホールディングスへ戻った俺は、最後の業務資料を引き継ぎ、法務部を通じて辞任書類を正式に送達した。
同じ頃、三社の主要取引先がそれぞれ社内会議を開いていた。
神崎ホールディングスとの案件は正式契約前で、契約案には、俺を統括責任者とする条項が明記されている。
責任者が変更された場合、取引先は交渉を終了できる。
俺の退職が確定すると、三社は相次いで神崎ホールディングスへ交渉終了の通知を送った。
俺は会社の資料も、営業秘密も持ち出していない。
三社はただ、祈願で経営判断を下す会社ではなく、これまで案件を動かしてきた俺を信頼したのだ。
神崎ホールディングスのビルを出ると、幼い頃からの親友である久世悠真から連絡が届いた。
「直人、お前の席はずっと空けてある」
「戻る気になった時が、戻る時だ。久世ホールディングスはいつでも歓迎する」
十年前、悠真は自分の会社へ来ないかと誘ってくれた。
経営責任者の地位と、年俸三千万円。
住居も車も会社で用意すると言っていた。
それでも俺は断った。
「玲奈には、俺が必要なんだ」
当時の俺は、そう答えた。
今思えば、笑うしかない。
名目上の給与は役職に見合う額だった。
だが給与の大半は、毎月自動的に玲奈名義の生活口座へ移されていた。家族カードを除けば、俺が自由に使える金は月に十八万円ほどしかなかった。
それでも俺は、毎日深夜まで働き、玲奈が神崎ホールディングスを大きくするのを支え続けた。
住んでいたのは、月汐町にある築四十年以上の木造アパートだ。
屋根は雨漏りし、壁には湿気が染みついていたが、俺は玲奈へ何かを求めたことがなかった。
昨年、蒼岬台風が月城県を襲い、近くの川が氾濫した。
一階にあった俺の部屋も水に浸かり、濁った水の上に一枚のマットレスだけが浮かんでいた。
俺は玲奈へ、会社の独身寮に一時的に住ませてもらえないかと尋ねた。
彼女は、うんざりした口調で答えた。
「直人、いつからそんなに欲深くなったの?」
「今度は会社の部屋に住みたいの? そのうち神崎家の財産まで欲しがるんじゃないでしょうね」
その日の夜、慧真の腕には三千万円相当の高級腕時計が巻かれていた。
Instagramには、こう書かれていた。
【玲奈から修行用の時計をいただきました。これで写経に集中しても、時間を忘れずに済みます】
玲奈の愛情が俺へ向けられていたことなど、初めから一度もなかったのかもしれない。
俺が一人で、愛されていると信じ込んでいただけだ。
古いアパートへ戻り、わずかな荷物をまとめて久世ホールディングスへ向かった。
途中、星凪市にある老舗宝飾店の前で、玲奈たちを見かけた。
玲奈は慧真の腕を取り、父親の神崎宗一郎と母親の美佐子も一緒にいる。
四人は婚約指輪と、正式な結納に使う品を選んでいた。
道路の反対側に立っていても、美佐子の甲高い声が聞こえてきた。
「玲奈、直人とは早く婚約を解消した方がいいわ」
「あの男は長年、神崎家に頼って生きているだけで、何の能力もないでしょう」
「その点、慧真先生は若いのに深い修行と見識を持っているわ」
美佐子は慧真を見て、満足そうに笑った。
「慧真先生の十年の誓願も、もうすぐ終わるのよね」
「誓願を終えれば、二人の間を邪魔するものはないわ。家柄を考えても、あなたたちの方がお似合いよ」
拳がゆっくりと固くなっていった。
俺が神崎家に依存している?
毎日、昼夜を問わず働いてきたのは誰だ。
契約を取るために酒を飲み、胃から血を流しても取引先へ頭を下げ続けたのは誰だった。
立ち去ろうとした時、宗一郎の声が聞こえた。
「直人は縁起が悪い」
「実の親さえ守れなかった男だ。神崎家に置いておけば、いずれ災いを呼ぶ」
足が止まった。
涙が、何の前触れもなくあふれた。
俺の両親は、蒼岬大学の教授だった。
十五年前の蒼岬地震で、玲奈は大学の研究棟から逃げ遅れた。
両親は崩れ落ちる天井や実験設備から玲奈をかばい、そのまま帰らぬ人となった。
玲奈は助かった。
両親は、瓦礫の中に残された。
当時、宗一郎と美佐子は両親の墓前へひざまずき、これからは俺を実の息子として大切にすると泣きながら誓った。
その二人が今、両親を失ったのは俺が災いを呼ぶ人間だからだと言っている。
人間は、ここまで恩を忘れられるものなのか。
俺が荷物を持って立ち去ろうとすると、慧真がこちらに気づいた。
4
「相馬本部長ではありませんか」
「勤務時間中に、買い物をする余裕があるのですね」
慧真は数珠を動かしながら、作り物めいた笑顔を浮かべた。
玲奈は俺を見た瞬間、無意識に慧真の腕を放した。
目にわずかな動揺が走ったが、すぐに怒りへ変わった。
「直人?」
「私を尾行していたの?」
慧真が、理解のある人物を装って口を挟んだ。
「玲奈、相馬本部長はあなたを心配しているのでしょう」
「ただ、あなたの行動を監視することに慣れているようですね。どこへ行っても現れるのですから」
玲奈はもう一度、慧真の腕をつかんだ。
「かばわなくていいわ」
そして俺へ鋭い視線を向けた。
「会社にどれだけ仕事が残っていると思っているの?」
「私と慧真先生を疑うだけでは足りず、勤務を放り出して尾行までしたのね」
「生活口座の利用権限は戻さないから。今月の給与だって、あなたには自由に使わせないわ!」
美佐子も横から口を出した。
「直人、叔母さんも言いたくはないけれどね」
「慧真先生は毎日、会社のために祈願してくださっているのに、報酬を要求したことはないのよ」
「給与をもらっているあなたが、どうして仕事をさぼれるの?」
慧真は両手を合わせ、芝居がかった仕草で頭を下げた。
「美佐子さん、怒らないでください」
宗一郎が、持っていた湯飲みを強く置いた。
「こんな疫病神は、もっと早く会社から追い出しておくべきだった」
「玲奈、これ以上引き延ばすな。早く処理しろ」
玲奈は俺を、何をしても役に立たない人間を見るような目で眺めた。
「相馬直人、最後の機会をあげる」
「すぐに会社へ戻って、慧真先生の報告書を完成させなさい」
「今日の午前零時までに私の家へ来て、土下座して謝って。時間を過ぎたら、本当に婚約を解消するわ」
そう言い残し、玲奈は両親と慧真を連れて宝飾店を出た。
慧真は去り際に、買ったばかりの金色の指輪を見せつけてきた。
俺は何も答えなかった。
すでに神崎ホールディングスの社員ではないと説明する気さえ起きなかった。
時間が少しずつ過ぎていった。
玲奈は紫苑台の自宅へ戻り、直人が午前零時までに謝罪へ来ると信じていた。
これまでと同じように、最後には必ず折れるはずだった。
しかし、玄関の外に直人の姿は現れない。
秘書に電話をすると、彼は会社にも戻っていないと言われた。
零時が近づくほど、玲奈の胸には理由の分からない焦りが広がった。
直人からの連絡は一通もない。
玲奈は秘書を住宅街の入口へ向かわせ、直人を見つけたらすぐに報告するよう命じた。
それでも落ち着かなかった。
何度もリビングの窓へ行き、住宅街へ続く道を確認する。
十五年間で初めて、直人は彼女をなだめず、命令にも従わなかった。
自分の思いどおりにならない状況が、玲奈には耐え難かった。
テレビ台には、付き合い始めた頃の二人の写真が飾られていた。
写真の中では互いに寄り添い、まだ傷つけ合うことを知らない笑顔を浮かべている。
玲奈はスマートフォンを手に取った。
「直人、これが本当に最後の機会よ」
「今から来て謝れば、まだやり直せるわ」
送信したメッセージは、深い水の中へ沈んだように、何の反応も返さなかった。
玲奈の眉間に、深いしわが刻まれていく。
やがて時計が午前零時を示した。
その直後、秘書から興奮した声で電話がかかってきた。
「神崎社長、男性が来ました!」
「スーツを着て、百八本の赤い薔薇を抱えています。今、紫苑台へ入りました!」
玲奈の張りつめた表情が、一瞬で緩んだ。
やはり直人は、自分を捨てられなかったのだ。
口調は相変わらず尊大だったが、口元には隠し切れない笑みが浮かんでいた。
「下で止めて」
「もう零時を過ぎているの。すぐには許さないわ」
「しばらく待たせておいて」
5
玲奈はInstagramを開き、投稿した。
【結局、私なしではいられないのね。期限は過ぎたけれど、ここまで誠意を見せるなら、もう一度くらい機会をあげてもいいかもしれない】
投稿すると、コメント欄はすぐに賑わった。
【神崎社長、もうご存じだったんですね!】
【慧真先生のプロポーズ、やっぱり秘密ではなかったんですね】
【お二人とも、おめでとうございます!】
【十年の誓願がついに終わるのですね。末永くお幸せに!】
コメントを読むうちに、玲奈の眉が少しずつ寄っていった。
事情を尋ねようとした時、外から歓声が聞こえた。
玲奈は窓へ駆け寄った。
百八本の赤い薔薇で作られたハートの中央に立っていたのは、直人ではない。
袈裟を脱いで高級スーツへ着替えた慧真が、指輪を持って片膝をついていた。
電話の向こうで、秘書が興奮して叫んでいる。
「神崎社長、慧真先生がプロポーズなさっています!」
玲奈の手から、スマートフォンが落ちた。
その頃、久世ホールディングスは正式な人事発表を行った。
【相馬直人氏が、本日付で久世ホールディングス代表取締役兼CEOに就任しました】
続けて、三社の主要取引先も発表を出した。
【神崎ホールディングス側の統括責任者変更に伴い、責任者条項に基づいて、現在進行中の提携交渉を終了します】
【当該事業については、新たな提携先の選定を開始します】
数分後、三社は久世ホールディングスとの協議を開始すると発表した。
直人は、それらの発表を自身の認証済みアカウントで共有した。
最後に添えられていたのは、短い文章だけだった。
【神崎社長と慧真先生のご縁が無事に結ばれたことを、心よりお祝い申し上げます。奉納金として十万円を清心庵コンサルティングの口座へ送金しました】
玲奈は、狂ったように直人へ電話をかけた。
手が震え、スマートフォンを落としそうになる。
「出て……」
「直人、電話に出てよ……」
何度かけ直しても、機械的な案内音声が返ってくるだけだった。
玲奈はようやく、自分の電話番号もLINEも、すべて拒否されていることに気づいた。
その瞬間、一つの考えが頭の中で弾けた。
直人は、本当に自分を捨てた。
「そんなはずはない……」
「直人が、本当にいなくなるはずがない……」
自分に言い聞かせながら、玲奈は何度も発信ボタンを押した。
これまでは、どれほどひどいことをしても、繰り返し電話すれば直人が応じた。
彼がどれほど傷ついていても、最後には玲奈をなだめ、低い声で謝罪した。
だが今回、電話の向こうから、あの優しい声は聞こえない。
直人は、もう戻ってこない。
再び外から歓声が上がった。
慧真が窓を見上げ、深い愛情を装った笑みを浮かべている。
「玲奈、私はずっと君を待っていました」
「十年の誓願を立てたのも、いつか君が本当の意味で自由になる日を待つためです」
周囲には、神崎ホールディングスの役員や社員が集まっていた。
誰もが祝福の表情を浮かべている。プロポーズの計画を、玲奈だけが知らされていなかったのだ。
しかし玲奈には、すべてが滑稽に見えた。
自分が待っていたのは、この男ではない。
玲奈は階段を駆け下りた。
途中でハイヒールをひねったが、痛みを気にする余裕もなかった。
慧真は玲奈が現れると、指輪を高く掲げた。
「玲奈、私と結婚してください」
「黙って!」
玲奈は慧真の手を払いのけた。
指輪が遠くまで転がり、周囲の歓声が一瞬で消えた。
慧真は頬を引きつらせ、信じられないという顔で玲奈を見た。
「玲奈、どうしたのですか?」
玲奈は答えず、近くにいた秘書の腕をつかんだ。
「直人はどこ?」
「直人を見た人はいないの?」
豹変した玲奈におびえながら、秘書はスマートフォンを差し出した。
「神崎社長、相馬さんは三十分前に、久世ホールディングスの代表取締役兼CEOへ正式に就任されました」
経済ニュースには、直人の就任会見が映し出されていた。
濃い色のスーツをまとった直人が、久世ホールディングスのロゴの前へ立っている。
穏やかで、自信に満ちた表情だった。
玲奈が、これまで一度も真剣に見ようとしなかった直人だ。
自分の後ろをついて回り、機嫌を取るだけの男ではない。
本来立つべき場所に戻った、一人の経営者だった。
玲奈の指が細かく震えた。
見えない手に心臓を握り潰されたように、息ができなくなる。
慧真が彼女の手首をつかんだ。
声には、恥をかかされたことへの苛立ちがにじんでいる。
「玲奈、しっかりしてください」
「私は今、あなたにプロポーズしているのですよ」
宗一郎と美佐子も慌ててやってきた。
放心した娘を見るなり、美佐子は眉をつり上げた。
「玲奈、慧真先生がここまでしてくださっているのよ。早く受けなさい」
「これまでどれだけ神崎家のために祈願してくださったか、忘れたの?」
宗一郎は薔薇の花束を慧真から受け取り、玲奈の腕へ無理やり押し込んだ。
「慧真先生が会社の災いを引き受けてくださらなければ、神崎ホールディングスが今まで成長できたと思うのか?」
「恩知らずな真似をするな」
玲奈は、鮮やかな薔薇を抱えたまま立ち尽くした。
視線はスマートフォンの画面から離れない。
直人へかけた何十件もの電話。
一度も、つながっていない。
周囲では通行人がスマートフォンを向け、ライブ配信を始める者まで現れた。
「神崎ホールディングスの社長じゃないか?」
「公開プロポーズされているのに、どうして泣いているんだ?」
「あの男は、十年間婚約していた相手とは別人だよね?」
カメラが近づいてくる中、玲奈は指輪をはめようとした慧真を突き飛ばした。
指輪が地面へ落ち、小さな音を立てる。
「私はあなたを好きではない」
「御堂文哉、あなたと結婚したいと思ったことなんて、一度もないわ!」
周囲が大きくざわめいた。
一人の社員が、戸惑いながら尋ねた。
「ですが神崎社長、つい先日、慧真先生と縁結び奉納式を行ったばかりではありませんか?」
「お二人は、ずっと親密に見えました」
玲奈の目から、ついに涙がこぼれた。
「あの儀式は、会社の融資計画を成功させるためだったの」
「毎回、慧真先生が結縁の儀式を行わなければ、会社の運気が下がり、上場も融資も失敗すると言ったから……」
玲奈は慧真へ向き直った。
その目には、初めて明確な冷たさが宿っていた。
「私に婚約者がいると知っていたのに、あなたは祈願と会社の運勢を利用して、何度も私と直人の結婚を邪魔した」
慧真の顔から、血の気が引いた。
「玲奈、疲れているのではありませんか?」
「私たちは、これまでとても良い関係だったでしょう?」
「もう十分よ」
玲奈は彼の言葉を遮った。
「あなたが私を騙していたことは事実よ」
「でも、直人を追い詰めたのは、あなただけではない」
玲奈は手を強く握り締め、震える声で続けた。
「あなたの言葉を選んで信じたのは私」
「婚約を解消すると言って、何度も直人を脅したのも私よ」
「心の中で一番大切なのが直人なら、ほかのことは裏切りにならないと、勝手に思い込んでいた」
「私は間違っていた」
「直人を本当に失ったのは、私が一度も彼を大切にしなかったからよ」
玲奈は薔薇の花束を落とし、その場を去った。
今はただ、直人を見つけたかった。
6
久世ホールディングスのCEO執務室で、俺は最後の就任書類へ署名した。
スマートフォンに、ライブ配信の通知が表示された。
【神崎ホールディングスの女性社長、公開プロポーズの場で号泣】
見るつもりはなかった。
それでも指が一瞬止まり、気づけば配信画面を開いていた。
玲奈は人々に囲まれ、赤く腫れた目で立っていた。
宗一郎と美佐子が慧真の指輪を無理に玲奈の指へはめようとしている。しかし彼女の顔に喜びはなく、魂を失ったような目をしていた。
かつて人を見下ろし、誰もが自分の命令に従うと信じていた玲奈とは、別人のようだった。
短い疑問が浮かんだ。
あれほど慧真を大切にしていたのに、なぜ少しも幸せそうではないのだろう。
だが、すぐに考えることをやめた。
玲奈が幸せかどうかは、もう俺に関係のないことだ。
配信を閉じ、仕事へ戻った。
夜が深くなった頃、執務室の扉が開いた。
久世悠真が大股で入ってくる。
その後ろには、見覚えがあるのに、すぐには誰か分からない若い女性が立っていた。
「直人、仕事のしすぎで人の顔まで分からなくなったのか?」
「妹の日和だよ」
俺は顔を上げた。
久世日和は、シンプルな白いワンピースを着ていた。肩に落ちた黒髪と優しい目元には、幼い頃の面影が残っている。
けれど、俺の服の裾をつかんで後ろを歩いていた少女は、落ち着いた大人の女性へ成長していた。
「直人さん、お久しぶりです」
柔らかな声だった。
立ち上がろうとして、机のコーヒーカップへ手をぶつけた。
日和が素早くカップを支える。
カップ越しに指先が触れた瞬間、彼女は驚いたように手を引き、頬をわずかに赤らめた。
「日和、本当に久しぶりだな」
日和は顔を伏せた。
耳まで赤くなっている。
悠真が俺たちを交互に見て、面白そうに笑った。
「この空気なら、俺は退席した方がいいか?」
「日和はMBA課程を修了したばかりで、久世ホールディングスへ入社する。経営補佐を担当させる予定だ」
「お前には秘書とプロジェクト補佐が必要だろう。日和をそばにつける」
日和が勢いよく顔を上げた。
「本当に、直人さんの下で働いてもいいんですか?」
「まだ経験は足りませんが、必ずお役に立てるよう努力します」
期待に満ちた目を見ていると、幼い頃の日和を思い出した。
コンビニの前で、俺がお菓子を買ってくれるのを待っていた時も、同じ目をしていた。
胸に、久しく忘れていた温かさが広がった。
「もちろんだ」
「ちょうど、信頼できる補佐が必要だった」
悠真が隣で手を叩いた。
「それなら決まりだ」
「仕事はもうやめろ。今日は日和の入社祝いに、俺が夜食をごちそうする」
オフィスを出る時、日和が階段を一段踏み外した。
俺は反射的に腰へ手を回し、身体を支えた。
日和が胸元へ倒れ込み、髪から淡い香りが漂った。
目が合い、二人とも慌てて離れる。
理由もなく、心臓が一度強く跳ねた。
ビルの入口へ着くと、暗がりから人影が飛び出してきた。
「直人!」
玲奈だった。
顔は涙で濡れ、化粧も崩れている。
彼女は周囲も気にせず俺へ駆け寄り、強く抱きついた。
「どうして電話に出てくれないの?」
「私がどれだけ捜したか、分かっているの?」
一瞬、身体が固まった。
だがすぐに、玲奈の腕を外して距離を取った。
「俺たちは、もう終わった」
「違う!」
玲奈は必死に首を横へ振った。
「誤解なの。御堂文哉とは、あなたが考えているような関係ではないわ」
「プロポーズも拒否した。みんなの前できちんと説明したのよ!」
取り乱す玲奈を見ても、感じるのは疲労だけだった。
「結婚式と変わらない縁結び奉納式も、誤解なのか?」
「俺たちの結婚式を何度も中止したことも、誤解か?」
「世間中がお前たちは結婚したと思った。今さら何を説明する?」
玲奈は俺の袖をつかんだ。
「私が好きなのは、ずっと直人だけよ」
「自分勝手だったことも、あなたの優しさを当然だと思っていたことも認める」
「もう二度と同じことはしない。約束するから」
俺は玲奈の指を一本ずつ外した。
「もう、どうでもいい」
「お前の約束は、八十八回聞いた」
俺は日和へ、行こうと声をかけた。
その時、玲奈は初めて日和の存在に気づいた。
俺が先ほど日和を支えていたこと、二人で同じオフィスから出てきたことを思い出したのだろう。
玲奈の目にあった哀願が、激しい嫉妬へ変わった。
「あなたなの?」
玲奈は日和へ走り寄り、その頬を打った。
「私の婚約者を奪ったのは、あなたなのね!」
乾いた音が夜の入口に響いた。
日和の白い頬には、すぐに赤い手の跡が浮かんだ。
彼女は頬を押さえ、目を潤ませながらも、泣こうとはしなかった。
玲奈へ残っていた最後の情が、その瞬間に消えた。
彼女は今も、関係のない人間へ責任を押しつけようとしている。
自分自身が十五年の関係を壊したことを、何も理解していない。
玲奈が再び手を上げた瞬間、俺はその手首をつかんだ。
「そこまでだ」
「日和に触るな」
玲奈は信じられないという顔で俺を見た。
「その女のために、私へこんなことをするの?」
「日和は第三者ではない」
「日和と再会する前に、俺はお前との婚約を終わらせ、神崎ホールディングスも退職した」
俺は日和を背中へかばい、玲奈を見据えた。
「彼女は幼い頃から知っている友人の妹で、今は俺の秘書だ」
「もう一度手を出せば警察へ通報する。ビルの防犯映像も提出する」
入口の警備員たちが駆けつけてきた。
玲奈は彼らを見て、ようやく後ろへ下がった。
大粒の涙が頬を流れている。
「直人、本当に悪かったと思っているの」
「もう一度だけ、機会をくれない?」
俺は答えなかった。
悠真が車を入口へ回し、俺は日和と一緒に乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、玲奈が地面へ崩れ落ちる姿が見えた。
高価なスーツには、灰色の汚れがついていた。
それでも、もう心は動かなかった。
7
車内には、重い空気が流れていた。
悠真がバックミラー越しに俺を見た。
「あの女は、まだ何をしに来たんだ?」
「正式に結婚しなくて正解だったな。結婚していたら、一生振り回されていたぞ」
車窓の外を流れるネオンを眺めながら、過去の光景を思い出した。
尊大に命令する玲奈。
何度も結婚式を中止した理由。
慧真のためなら、俺へどれほど冷酷な言葉でも浴びせられた姿。
十五年は、ようやく目を覚ました長い悪夢のようだった。
「もう、その話はやめよう」
こめかみを押さえ、記憶を追い払った。
隣の日和は頬を押さえたまま、下を向いていた。
赤く腫れた顔を見ると、申し訳なさが込み上げる。
「すまなかった」
「俺のせいで、巻き込んでしまった」
日和は何も言わず、首を横へ振った。
指はスカートの裾を強く握っている。
夜食を終えたあと、先に悠真を送り、それから日和の家へ向かった。
マンションの前へ着いても、日和はすぐに車を降りなかった。
静かな車内には、互いの呼吸だけが聞こえている。
「直人さん、ごめんなさい」
日和が突然言った。
俺は驚いて横を向いた。
「日和が謝ることは、何もないだろう」
彼女は顔を上げた。
まだ目元は赤かったが、視線は真剣だった。
「玲奈さんの言ったことが、全部間違っていたわけではありません」
「私は昔から、直人さんを兄のように思っていただけではありませんでした」
日和は唇をかみ、言葉を選ぶように続けた。
「長い関係を終えたばかりの直人さんが、今すぐ私を受け入れられないことも分かっています」
「これからはきちんと仕事をします。この気持ちを利用して、迷惑をかけるつもりもありません」
言葉を失った。
目の前の日和と、幼い頃に俺の後ろを歩いていた少女の姿が重なった。
胸の奥に、説明できない痛みが広がる。
「違う」
日和の目に、わずかな光が戻った。
「何が、違うんですか?」
少し迷ってから、低い声で答えた。
「日和を好きではない、という意味ではない」
「ただ、今の俺は自分の気持ちを整理できていない。誰かを、玲奈がいなくなった穴を埋めるための存在にはしたくないんだ」
「少し時間をくれ」
日和は数秒間、何も言わず俺を見つめた。
やがて目にあった不安が、静かな強さへ変わった。
「分かりました」
「直人さんが本当に過去を整理できる日まで、待ちます」
日和は車のドアを開け、降りる前にもう一度こちらを振り返った。
「おやすみなさい、直人さん」
彼女が建物の中へ消えるのを見届けながら、俺は初めて未来に小さな期待を抱いた。
翌朝、オフィスへ入ると、秘書が経済ニュースを持ってきた。
【神崎ホールディングス、三つの大型案件を相次いで失う。主要銀行が信用評価を引き下げ、取締役会は紛糾】
記事には、会議室で青ざめた顔をしている宗一郎と美佐子の写真が掲載されていた。
別の写真では、慧真が袈裟を着て神崎ホールディングスのロビーへ立ち、数珠を手に「緊急事業再生祈願」を行っている。
周囲にいる取締役たちは、誰一人として信じていない顔をしていた。
俺は記事を閉じた。
神崎ホールディングスが窮地に陥ったのは、俺が退職したからだけではない。
俺が長年積み上げてきた成果を、慧真の祈願がもたらしたものだと思い込み続けたからだ。
オフィスの扉が控えめにノックされた。
日和がコーヒーを持って入ってきた。
「相馬社長、コーヒーをお持ちしました」
今日は落ち着いたビジネススーツを着て、髪を一つにまとめている。
昨夜の悲しみを感じさせない、爽やかな笑顔だった。
ただ、頬にはまだ薄く赤い跡が残っている。
コーヒーを受け取る時、指先が日和の手へ触れた。
耳が赤くなったものの、彼女は手を引かなかった。
「ありがとう」
日和は、わずかに笑った。
「秘書として当然のことです」
一方、神崎ホールディングスでは内部監査が始まっていた。
三つの大型案件を失い、取締役会はようやく、祈願だけでは経営危機を解決できないと気づいた。
清心庵コンサルティングへ支払われた過去三年間の顧問料、資金の流れ、祈願活動の報告書が、すべて調査対象となった。
玲奈もまた、自分の判断が完全に誤っていたわけではないと証明するため、民間の調査会社へ御堂文哉の身辺調査を依頼した。
ところが、届いた報告は想像を超えていた。
十年の誓願も、山中で受けたという秘伝も、企業祈願師としての資格も、すべて作り話だった。
御堂文哉は正式な寺院に所属しておらず、宗教法人とも一切関係がない。
過去三年間、架空の祈願事業や偽造した活動報告書を使い、さらに会社の代表者印を無断で使用して、神崎ホールディングスから二億円近い金を流出させていた。
その金は、不動産、高級車、宝飾品の購入へ使われている。
複数の女性へ、長期間にわたり生活費を送っていた記録もあった。
玲奈は報告書を机へ広げたまま、一晩中動けなかった。
翌朝、すべての資料を星凪中央警察署へ提出した。
8
数日後、御堂文哉は神崎ホールディングスのロビーで、事業再生のための祈願を行っていた。
袈裟を着て数珠を動かし、誰にも意味の分からない経文を唱えている。
突然、会社の入口が開いた。
複数の警察官がロビーへ入ってきた。
「御堂文哉、動かないでください」
先頭の警察官が身分証と逮捕状を示した。
「詐欺、業務上横領、私文書偽造および同行使などの容疑で逮捕します」
ロビーが騒然となった。
文哉の顔は青ざめ、手に持っていた数珠が床へ落ちた。
「何かの間違いでしょう?」
「私は修行者です。神崎ホールディングスのために祈願を行っているのです!」
警察官は冷たい目を向けた。
「過去三年間、祈祷行事や経営顧問料を名目に、神崎ホールディングスから二億円近い金を移動させています」
「銀行口座の記録、偽造された契約書、関係者の供述はすでにそろっています」
美佐子が悲鳴を上げ、警察官へ駆け寄った。
「慧真先生を連れていかないで!」
「この方は本物の高僧で、神崎家の恩人なのよ!」
警察官は淡々と告げた。
「御堂容疑者には正式な寺院への所属も、宗教法人との関係もありません」
「横領した金が複数の不動産や高級車の購入、交際相手への送金に使われた記録も確認されています」
宗一郎はその言葉を聞くと、顔を真っ白にした。
胸を押さえ、その場へ倒れる。
取締役たちは机を叩き、神崎家へ詰め寄った。
「神崎家は株主へ説明してください!」
「何年も会社の金を詐欺師に奪われて、経営陣は何をしていたんですか!」
玲奈はエレベーターからロビーへ出た。
手錠をかけられた文哉を見ても、驚きはなかった。
顔に浮かんでいるのは、冷たい失望だけだ。
文哉は玲奈を見つけると、最後の救いを求めるように叫んだ。
「玲奈、助けてください!」
「幼い頃からの付き合いでしょう? 警察に誤解だと説明してください!」
玲奈は彼の前で足を止めた。
「何を説明するの?」
「あなたを警察へ通報したのは、私よ」
文哉は目を見開いた。
「何を言っているのですか?」
玲奈はスマートフォンを取り出し、録音を再生した。
調査会社が接触した、文哉の元協力者から提供された音声だった。
「玲奈をもう数年引き止めて、相馬直人と完全に別れさせればいい。そうすれば神崎家の財産は、いずれ俺たちのものになる」
御堂文哉の声が、ロビーにはっきりと響いた。
続けて、二つ目の録音が流れる。
「相馬直人は、本当に俺が会社のために祈願していると信じているらしい」
「あいつと玲奈が正式に結婚できないようにしておけば、俺にも神崎家へ入る機会が残る」
ロビーが静まり返った。
全員が、文哉を凝視している。
玲奈はスマートフォンを下ろし、かすれた声で言った。
「あなたはずっと、私と直人の間を壊そうとしていたのね」
「でも、あなたの言葉にも一つだけ正しいところがある」
「直人を何度も傷つけたのは、私よ」
「私が自分を正しいと思い込み、あなたに褒められることを楽しんでいなければ、どんな企みも成功しなかった」
文哉は灰色の顔で、何も言い返せなくなった。
それでも突然、玲奈をにらみつけた。
「あなたは、相馬直人のどこが好きなのですか?」
玲奈は長い間、彼を見つめた。
「少なくとも直人は、愛していると言いながら、会社の金で複数の女性を養ったりしない」
「私の信頼を、金を奪うための道具にも使わない」
「あなたは慧真先生なんかではなかった」
「頭を丸め、袈裟を着ただけの詐欺師よ」
文哉は警察に連行された。
身体には力が入らず、まともに歩くことさえできない。
かつての尊大な祈祷師の姿は、どこにも残っていなかった。
その後、御堂文哉は詐欺や業務上横領、私文書偽造など複数の罪で、十年の実刑判決を受けた。
他人の幸福を祈るふりをし続けた男は、最後まで自分自身の未来を救うことができなかった。
玲奈から、久世ホールディングスの代表番号へ電話がかかってきた。
秘書から転送された通話に出ると、彼女の声は泣き出しそうに震えていた。
「直人……」
「お願い、私を助けて。神崎ホールディングスも救ってほしいの」
「あなたが三つの大型案件と一緒に戻ってくれれば、会社はまだ立て直せるわ」
宗一郎は病院へ運ばれたばかりだった。
電話の近くには美佐子もいるらしく、泣きながら訴える声が聞こえた。
「直人、私たちが間違っていたわ」
「見る目がなかったの。本当に反省している」
「玲奈も、あの詐欺師に騙されていただけなのよ。会社も玲奈も見捨てないで」
俺は数秒、黙っていた。
「戻りません」
「神崎玲奈さん、神崎さん、美佐子さん。俺はもう、あなたたちを助けない」
玲奈の声が急に大きくなった。
「待って、直人!」
「本当に悪かったと思っているの!」
「戻ってくれたら、今すぐ結婚する。会社だって、あなたへ任せるわ!」
俺は静かに遮った。
「俺が結婚式を望んでいた時、お前は十回中止した」
「俺が一つの約束を求めていた時、お前は八十八回、俺を裏切った」
「今の俺には、もう必要ない」
電話を切った。
今度こそ、玲奈のために心を動かす者はいなかった。
9
慧真の逮捕、大型案件の消失、内部統制の問題が公表されると、神崎ホールディングスの社員たちは、経営陣の責任を求める連名の要望書を取締役会へ提出した。
主要株主の請求により、臨時株主総会が招集された。
重大な経営判断の誤り、内部統制の機能不全、関連企業による資金流出を長年放置した責任を問われ、玲奈は取締役を解任された。
同時に、代表取締役社長の地位も失った。
宗一郎と美佐子も、御堂文哉を擁護し、会社へ損害を与えた責任から取締役を解任された。
かつて星凪市で大きな影響力を持っていた神崎家は、神崎ホールディングスの経営権を完全に失った。
玲奈は紫苑台の家からも退去した。
何度も久世ホールディングスを訪れ、俺との面会を求めた。
しかし、そのたびに受付で断られた。
玲奈からは、何通もの手紙が届いた。
どの手紙にも、似たような言葉が書かれていた。
慧真が俺を奪ったのではなく、自分の手で俺を遠ざけたのだと、ようやく理解したこと。
俺の愛情は永遠に消えないと信じ、何度も試し、傷つけ、使い尽くしてしまったこと。
時間を戻せるのなら、最初の結婚式に必ず出席し、その日から俺を大切にすると書かれていた。
だが、現実に「もし」は存在しない。
俺は一度も、玲奈と会わなかった。
半年後、久世ホールディングスと三社の主要取引先が進めていた大型案件は、すべて正式に始動した。
祝賀会が開かれた夜も、俺はオフィスへ残り、最後の書類を確認していた。
日和が、机へコーヒーを置いた。
「相馬社長、そろそろ帰らないと、悠真会長から私が叱られてしまいます」
俺は日和を見上げた。
この半年、彼女は答えを急かしたことがない。
俺の弱った心につけ込み、自分の気持ちを押しつけることもなかった。
ただ秘書として真面目に働き、俺が残業する夜には、静かに明かりを残してくれた。
窓の向こうでは、星凪市の街明かりが輝いている。
半年前、車の中で少し時間が欲しいと言ったことを思い出した。
過去の混乱は、もう心の中で静かに沈んでいた。
「日和」
彼女が足を止めた。
「何でしょうか?」
俺は書類を閉じ、上着を手に取った。
「今夜、何か予定はあるか?」
日和は一瞬驚き、目に少しずつ笑みを浮かべた。
「ありません」
「それなら、一緒に食事へ行かないか」
「社長と秘書としての会食ではない」
彼女を見ながら、初めて自分から続きを口にした。
「俺個人として、日和を誘いたい」
日和は唇を結んだ。
それでも、あふれた笑顔を隠すことはできなかった。
「はい。喜んで」
俺たちは並んでオフィスを出た。
かつて俺は、玲奈のように眩しく、触れれば焼ける炎こそが、運命から与えられた愛だと思っていた。
傷だらけになって、ようやく気づいた。
長い人生を共に歩けるのは、息ができなくなるほど激しい炎ではないのかもしれない。
日和のように静かで、温かく、どれだけ暗い夜にも消えない月明かりなのだ。
過去は、もう終わった。
俺の新しい人生は、ここから始まる。




