【短編】這う黒豆
這っても黒豆 とは
黒いものが這い出しても、虫であると認めず、黒豆であると言い張ること。間違っていても、強情に自説を曲げないことのたとえ。ー 広辞苑
白く輝く大理石の柱に、ピカピカに磨かれた床。
窓枠から入り込む、柔らかい陽光に照らされて、ホテルマンと宿泊客たちの影がゆらゆらと踊る。
ここは、東京都千代田区に居を構える、一流ホテルのロビー。
その荘厳な大扉の先には、柔らかで上品な空気が立ち込め、行き交う人々からは余裕が感じられる____そんな中、人目につかない階段下で、なにやらうずくまる二人の男がいた。
男の一人は、糊の効いた紺色のスーツに、明るい茶髪を短く刈り上げた爽やかな男。
その隣で座り込むのは、黒いスーツを堅苦しく着込み、薄い丸メガネをかけた色白の男だった。
二十代前半といった若々しい風貌の二人は、揃って黙り込み、じっと視線を床に落としていたが、やがてどちらからともなく、口を開いた。
「……これ、やっぱり虫じゃない?」
茶髪の男、藤原が一足先に顔を上げ、左隣の男に問いかける。
未だに真剣な面持ちで床を見つめる、メガネの男の視線の先には、大理石の床の上に乗った、なにやら黒くて丸い点のようなものがあった。
「その意見には同意しかねるな。これは間違いなく『黒豆』だと思うよ、藤原くん。」
メガネの男___菅野は、一歩遅れて顔を上げると、藤原より幾分か低い、冷めた声色でそう返す。
眼前に転がっている、この小指の先ほどもない黒いものが、果たして虫なのか黒豆なのか。
ひょんなことで意見がぶつかってから十数分。
自分の意見が正しいと、明確な証拠を提示できるわけでもなく、ふたりはただそれを観察しながら、ときどきぽつぽつと話しかけ合うのを繰り返していた。
「ほら、『これ』からちょっと離れたところ、あそこにカーペットがあるでしょ?あの絨毯、見た感じ相当古そうだしさ、あそこから虫が抜け出してきたんじゃないかな。」
「ふむ……確かにその可能性も否めないが、『これ』が虫であるとするなら、これまでの時間、ピクリとも動いていないのはおかしいだろう。」
「いやいや、それを言ったら、こんななにもない床の上に、黒豆が一個だけ落ちてる方がおかしくない?」
そう、藤原がもっともな指摘をすると、菅野はレンズの奥で切れ長の目をさらに細くさせ、すぐさま反論という名の持論を展開し始めた。
「今朝の朝食のビュッフェに、豆の五目煮があっただろう?」
「ああ、そういえばあったような。」
「覚えているだろうが、あの五目煮に使われていた豆は、黒豆だった。そこでだ、食材の配送業者が、ホテルに黒豆を搬入する際、ここの床にうっかりこぼしてしまった____とは、考えられないかね。」
菅野は、そう一息に、頭の中で醸造していた意見をぶちまけると、どうだとばかりに藤原の顔色を伺った。
東都帝国大学の理系学部を卒業し、ゼミやサークル内でもプライドが高いことで有名だった菅野の傲岸さは、大学を卒業しても変わらないままだった。
しかし、そんな彼の大学からの数少ない友人の藤原が、いやいや、と、菅野の意見に手を振って反論する。
「確かに業者がこぼすのはありえるけど、にしても一粒だけってどういうこと?箱に詰めてたらありえないでしょ。」
「……ううむ。いやしかし、このフォルムと色艶はどう考えても今朝の黒豆と同じで……あ?」
眉間に皺を寄せ、小難しい顔で異議を唱えていた菅野が、話の途中で突然上擦った声を出す。
その姿を見た藤原も続いてなにかに気づき、ふたり揃って顔を見合わせたのち、一斉に白濁した大理石の上に視線を向ける。
眼前の床の上では、先程まで微動だにしなかった黒いものが、本当に少しずつではあるものの、その小さな脚を動かして床を這っていた。
目の前の光景を見てしばらく呆気に取られていたふたりだったが、やがて藤原が耐えきれずに吹き出し、上を向いて豪快に笑い出す。
「あっはははは、やっぱり虫だったか!だと思ったんだよねー、黒豆が一粒だけ落ちてるっておかしいもんね。」
屈託のない笑顔でひとしきり声を上げた藤原は、議論の的となっていた謎が解けて満足したのか、両手で勢いよく膝を叩いて立ち上がる。
それと同時に、藤原は時間を忘れて黒豆に熱中していたことに気が付き、おっと、と小さく声を上げ、左手首を軽く振って腕時計に目を向ける。
彼の左手の時計の時刻はちょうど、午前十時を指しているところだった。
「まあ、なにはともあれ、謎が解けてよかった。もう移動の時間だから、俺はそろそろ行くよ……偶然だけど会えてよかった。また仕事上手くいったら教えてくれよな。」
「……あ、ああ……またな。」
背中を丸めたまま動かない菅野の後ろ姿に、嫌味のない調子でそう声をかけ、藤原は悠々とした足取りでその場を去っていく。
埃っぽい絨毯の上を歩く革靴の音が、エントランスからゆっくりと消えていく。
底抜けに快活な友人がホテルから完全に去っても、菅野は未だに黒い物体の前から動こうとしなかった。
小指の先程もない身体から生えた、毛のように細い足でのそのそと闊歩する黒い虫。
その歩く姿や全体的な形状は、誰からも、そして頑なに黒豆だと主張していた菅野から見ても、虫のそれそのものだった。
「黒豆、か……。」
そう呟いてみるものの、理屈としては理解しているにもかかわらず、膨れ上がったプライドゆえか本心ではそれを認められない。
虫ではないはずだ。
しばらくの逡巡の末、菅野は藤原からだいぶ遅れて緩慢な動作で立ち上がると、引きつった笑いを浮かべながらおもむろに喋り始めた。
「これはっ……これは、黒豆だ、うん。そうに違いない、恐らく風かなにかのせいで這っているように見えるんだな。きっとそうだ!」
足元に転がる黒虫は、どう考えても風に吹かれているようには思えない。
しかし菅野は乾いた笑いとともに、自分を納得させるための詭弁をひとしきり漏らすと、すぐさまある決心とともに踵を返した。
神経質そうな足音が、規則的なリズムを奏でながらエントランスへと向かっていく。
一度こうと決めつけたが最後、意見を撤回することを過度に嫌うこの男は、大学のラボに所属する研究者だった。
のちに「黒豆実験」として各界からの脚光を浴び、その技術力を世間に知らしめるきっかけを作った遺伝学者でもある。
彼の名前が新聞やメディアで取り上げられ始めたのは、まさに黒豆を扱う実験を初めてからだった。
「すみません、次の研究のテーマを『黒豆の品種改良』にしようと思うのですが……。」
学会の用事で宿泊していたホテルからトンボ帰りした菅野が、研究室の上長にその意見を伝えたのはその日のうちだった。
今まで興味もなかった豆類の遺伝分野に関する論文を読みあさり、他大の実験を見学し、業界の先駆者へ意気揚々と質問に出かける。
なぜ突然菅野が黒豆に執着し始めたのか、その理由は本人以外知る由もないが、その熱量ゆえか、数多く繰り返された実験は数年のうちに実を結んでいた。
ホテルでふたりが議論を繰り広げてから、およそ三年。
大学近くに作られた、研究用の小さな畑の中には、白衣姿で座り込むひとりの男の姿があった。
男____菅野の眼前の土壌には、なにやら黒い物体がぽつんと置いてある。
丸く、太陽の光を反射して黒光りするその物体のフォルムは、正しく黒豆そのもの。
しかし、先ほど畑から収穫されたばかりの黒豆は、豆にあるまじきことに、その場に長くとどまっていることがなかった。
数秒もしないうちに、その黒豆は側面から生えた四本の『脚』を活かして、土の上をもぞもぞと這い回り始める。
ホテルの絨毯の上にいた、名前も分からないあの虫とほぼ同じ姿で動き回る黒豆を見て、久方ぶりの笑みが菅野の顔に浮かぶ。
「ようやく、ようやくか……。これこそ私の追い求めた、納得のいく研究結果だっ!」
肌寒くなってきた空の下、喜びの色を抑えられないまま、土で汚れた白衣を振り乱して叫ぶ。
菅野の研究目標は、「虫のように這う黒豆」を生み出すこと。
ホテルでの一件を数年経っても根に持っており、いっそ虫のように動く黒豆があれば、藤原への敗北感を解消できるのではないかと着手した実験。
地道な努力によってその研究はついに実を結び、ようやく完成した理想の成果物が、いま目の前で土の上を這いずり回っていた。
遺伝子を組み替えられ、表面の産毛がまるで虫の脚のように異常に発達した、世にもめずらしい動く黒豆。
菅野は数年来の悲願を達成した喜びに感じ入り、目に涙さえ浮かべながら、目の前で元気に這い回る豆をやさしく見守る。
しかし。
菅野は大学に雇用されている研究者であり、実験に三年という時間をかけて専念していたからには、実験の終了時にそれ相応の成果物を当局側に提示しなければいけなかった。
が、この黒豆はというと、実際はただ菅野の自己満足のために開発されていたため、そこに成果といえるほどの有用性は全く存在していなかった。
味自体に問題は無いが、食用にするには見た目に明らかな不快感があり、当然販売や営利利用の道はすぐに絶たれる。
さらに学術的な価値があるかというと、実験そのものは画期的であるものの、応用して活かす術も見つからず、それこそ学会で発表しても大した評価は得られそうにない。
もともと利益を得るために開発していたわけではなかったが、これでは研究そのものに価値がないといわれても仕方がない状況だった。
「……調子に乗って量産してしまったが、さすがにこの数はまずかったか。」
眼前でゆっくりと這い回る黒豆から、少し目線を上にずらせば、そこには畑の三分の一ほどを占領する黒豆の苗の山が存在している。
これを全部刈り取れというのか。
まだ元気なのにもったいない。
そう考えた菅野は、結局、手ずから栽培した豆を全てまとめて収穫し、籠いっぱいに詰まったそれを抱えて立ち去ることにした。
「さて、こいつらはどうするかな……。」
長時間曲げていた腰を伸ばすようにして立ち上がり、この先の思いやられる未来のことを考える。
収穫したてで活発な黒豆たちは、バスケットから溢れ出んばかりにかさかさと音を立てて動き回っていた。
捨てるのも心苦しいが、かといってこれをおすそ分けするような相手もいない。
最終的に、菅野は大量の豆の処分に迷った末、次の日料理にでもしてやろうと思いたち、その日は研究室内の一角にバスケットごと豆を置いてそのまま帰宅した。
翌日。
定刻通り到着したラボの中は、なにやらがやがやと騒がしかった。
白色の無機質な扉を開けて足を踏み入れると、数人の同僚が輪を作るようにしてスマホを眺めており、ときおり興奮した様子で口々になにかを呟いている。
「おはよう……ず、随分騒がしいようだが、一体なにがあったんだ?」
「おう、おはよ……あっ!おい菅野、俺らみんなお前のこと待ってたんだぞ!」
茶色がかった髪の同僚がそう大きく叫ぶと、首に腕を回され、あれよあれよという間に輪の中心に放り込まれる。
そこにいた別の同僚が持ったスマホには、なにかの動画が表示されているようだった。
「なあ、ツイッターとか見てないのか?菅野が作った豆、いまめちゃくちゃ拡散されてるぞ!」
「なに、あの黒豆が?しかし、あれは教授にも先輩方にも、全く役に立たないと馬鹿にされていたものだが……。」
「バカ、あんなの年寄りの意見に決まってるだろ!昨日そこの部屋でお前の黒豆見つけたからさ、俺らで動画撮ってアップロードしたんだよ……そしたら、ほら。」
差し出されたスマホには、バスケットいっぱいに詰め込まれた黒豆が、押し合いへし合いしながら籠を脱出し、研究室の床を這って逃げていく動画が表示されていた。
投稿者は、菅野たちの所属している、正鵠大学の生命科学科公式アカウント。
長らく運用されておらず、有名無実化していたそのアカウントが、「うちの研究員が新種の黒豆開発したんだが笑笑笑」という文言とともに動画を投稿している。
その時点でいいね数は二万件弱、リポスト数もそれに比例して膨れ上がっていた。
「な?最初はみんな虫だろって疑ってたんだけど、包丁で割って中身まで見せて、豆だってことを証明したら手のひら返ししてやんの。」
「い、いや正直びっくりだな……確かに目新しいとは思うが、所詮は豆だし、いまいち面白味が理解できん。」
「いや、充分面白いだろ、現にほら!『味に影響ないなら食べてみたい』『販売はしてますか』って販売希望者もたくさんいるし。」
そう言うと、同僚は力強く菅野の背中を叩き、案外大ヒットするかもしれないぞ、と声をかけた。
そして実際、その言葉は、さほど時間もかからず現実のものとなった。
虫にしか見えない黒豆、というキャッチーな言葉を引っさげた動画の拡散と、そこからの展開は早かった。
バズった投稿が複数社のネットニュースに載った直後、あれよあれよという間に全国紙の二面で取り上げられるほどの話題性を獲得し、それに伴って知名度もうなぎ登り。
健康に害がないということが証明されてからは、動画サイトでのドッキリや一風変わった贈り物として珍重され、そして開発者である菅野もまたメディアに露出を始めていた。
「では、その虫の形状からヒントを得て開発されたと?」
「そうですね、きっかけはホテルの絨毯の上を……。」
慣れないスタジオでの撮影や、小さなネットメディアからの取材にも律儀に応える。
もともとのステレオタイプな研究者然とした性格と、他社で繰り返された質問にも毎回丁寧に対応する様子が評価され、メディア関係者からの評判も良好。
小規模なECサイトで販売していた「這う黒豆」の苗や種が売り切れる頃には、既にスポンサーがついて一定の人気を誇るようになっていた。
需要があれば生産される。
いまや、黒豆の栽培は、個人的な研究として生産していたときとは比べ物にならないほどの大きな畑、そして上等な設備や予算とともに、実験室横の畑で繰り返されていた。
「もはや何世代目かも分からないが……これは。」
動画の投稿から早くも半年が経ち、白い手袋を嵌めた菅野の指に掴まれているのは、いつもの黒豆。
一見これまでの黒豆と全く変わらないように見えるが、この半年間常に栽培に向き合ってきた菅野は、そこに小さな違和感を感じ取っていた。
「脚の成長が加速している……?」
今までの「這う」黒豆の側面には、虫とほぼ同じ形状の四本の脚が小さく生えていた。
しかし最近収穫された黒豆は、その四本の脚が従来より太く、長く、まるでバッタのように筋肉質な形に成長している。
数世代で終えるはずだった生産を、数十世代に渡って続けたからか、はたまたなにかほかの要因があるのか。
菅野はにわかに湧いて出た不安を胸に、指先で摘んだ黒豆に訝しげな視線を送る。
「……実験を続ける他ないな。もう数十世代が経過しないと、判断は下せない。」
想定もしていなかった事態を目の前に、そう呟いて問題を先延ばしにしてみる。
しかし、先程の黒豆から感じ取っていた違和感は徐々に無視できないほどに膨れ上がっていき、やがて数ヶ月もたたないうちに、それは明確な現実となって菅野の目の前に現れた。
収穫された黒豆の動きが、明らかに激しくなっている。
針金のように細かった黒豆の脚は太く、より跳躍しやすい形へと変化を遂げ、収穫されるや否や黒豆がぴょんぴょんとそこらじゅうを駆け回る異常事態となっていた。
これはもはや、菅野が最初に目指した「這う黒豆」の像とは違う、そこから分岐して発生した別のなにかだった。
生物の歴史上、人間がそれをなんと呼ぶか。
環境に適応し、種の形態が変わることをなんというか、研究室の面々はおろか、世間のほとんどの人間が知っている。
「進化が起きている、としか考えられん。ここまで恐ろしい速度で進化を遂げるなど、本来はありえないはずだが……。」
『這う』黒豆は、今や『跳ねる』黒豆とでも呼ぶ方が適切な姿になっていた。
百円ショップで急遽買ってこられた飼育ケースの中で、強靭な後ろ脚を二本備えた黒豆が、バッタよろしく忙しなく動き回っている。
ここまで別物になってしまうと、「這う黒豆」としての販売はできないと真っ先に主張したのは菅野だったが、しかし下火になってきたとはいえ黒豆は未だブームを保っている。
先日も有名動画投稿者が「這う黒豆、豪邸の中に百匹放ってみた。」と題する動画をアップロードし、公開から数日で百万回再生を記録したばかり。
しかし、日に日に「這う黒豆」の収穫量は減っていき、それに反比例するように「跳ぶ黒豆」の収穫量は増えていく。
進化を止める方法など、さすがの菅野でも考えついていなかった。
なにか対策を練らなければならない、とは常々思っていた。
ほとんどの上司や部下が帰宅した夜半、実験室の中で、昆虫ケースに閉じ込められた黒豆の様子をじっと見ながら考える。
既に、『跳ねる』特性が弱い、つまり脚の発達が鈍い個体同士を掛け合わせ、また這う黒豆に戻すという計画は失敗に終わった。
その他にもスタッフから案を募り、打開策となりそうなものをいくつか試してしてみたが、状況は依然として改善していなかった。
大学上層部や、広告代理店の担当者からは、「今度は『跳ねる黒豆』を売り出してみないか」という提案が既に複数回なされている。
菅野は、自身を大学の学長室に押し込め、なんとかこちらを懐柔せんとする学長と、代理店の担当者に言われた言葉を思い出していた。
「菅野くんが開発してくれた『這う黒豆』のおかげで、今期はかなり予算が潤沢になった……どうか大学を助けると思って、今度は『跳ねる黒豆』の開発に専念してくれんかね。」
「……しかし、あくまで私が作りたかったのは『這う黒豆』であって、跳ねる黒豆ではないんです。あれは実験の過程で生まれた、ただの偶然の産物に過ぎない。」
「お気持ちも分かりますが、菅野さん、世間的には、『跳ねる』黒豆の方がウケがいいと思うんです。だってただ這ってるより、そちらの方が絵面がダイナミックじゃないですか。」
貼り付けたような笑みを浮かべた代理店の営業が、ねえ、と、学長に嫌らしい目配せをしてからそう話しかけてくる。
「……私個人の意見としては、黒豆実験を中止したいと考えています。私は本来科学者であって、おもしろおかしい植物を生み出す発明家ではありません。」
前方で椅子に座るふたりの目を、真っ直ぐに見据えてそう伝える。
しかし返ってきたのは、学長からのいい加減承諾しろという無言のプレッシャーと、何としてもこの場で販売の言質を取りたい、担当者の早口だけだった。
「大学に所属しているといえど、販売のマージンは一定数菅野さんにも入ります。『這う黒豆』でも、広告使用料やメディア出演で少なからず儲かった、そうでしょう?」
「そうだ、君にデメリットはないはずじゃないか。研究者としての知名度も、報酬も手に入れて、なぜ『跳ねる黒豆』の開発だけ頑なに着手しない。」
学長は太い指を机の上で絡め合わせながら、心底理解できないという視線をこちらへ向けてくる。
菅野は黙って思考をまとめていた。
確かに、ふたりの言う通り、たしかに商業的に考えれば、跳ねる黒豆を大々的に売り出した方が利益は得られるのだろう。
しかしそれでは、そもそもの開発理念とは矛盾したものが販売されることになってしまう。
作りたかったのは、藤原に対抗するために必要だった這う黒豆であって、珍品として扱われる商品ではないのだ。
「それは……お答えできかねます。大学当局の指示としてなら開発しますが、少なくとも私としては、全く気が進まないということは覚えておいていただきたい。」
結局堂々巡りの議論に埒が明かないと思い、その日はそれだけを伝えて学長室を足早にあとにした。
のち、学長と学科長の連名で、『跳ねる黒豆』の栽培に着手するよう命令が下されたのは、そのすぐ翌日のことだった。
かくして渋々実験に手をつけた菅野は、最初は気が向かなかったものの、実験を続けるうちに嫌でも情熱を『跳ねる黒豆』に傾けるようになっていき、そこからは研究に追われる目まぐるしい日々を過ごした。
「這う黒豆」の成功により余裕の出た予算を潤沢に使い、スタッフや設備も増設し、かつての同僚たちとも手を取り合って実験を進める。
そうして、休む間もなく日々を過ごしているうち、奇妙な豆の育つ畑に、いつの間にか二回の冬が訪れていた。
静まり返った実験室の中、菅野ははぁ、と小さくため息をつき、凝り固まった右肩をぐるぐると軽く回す。
跳ねる黒豆の栽培方法は、這う黒豆のそれとほぼ変わりがない。
より『跳ねる』黒豆同士を厳選して掛け合わせ、土に埋め、肥料をやり、時が来ればスタッフとともにそれを収穫する。
そして、収穫した黒豆からサンプルを選び取り、跳ねた際の飛距離やそれぞれの体積など、ひとつひとつデータを収集して積み重ねていく。
数え切れないほど繰り返した実験の中で、這う黒豆は徐々にマイノリティとして数を減らし、いまや収穫される黒豆の半数以上は跳ねる黒豆となっていた。
パソコンのデータ上に示されたふたつのグラフのうち、ひとつは底辺から右肩上がりの収穫量をみせ、もうひとつは頂点から確実な凋落をみせている。
そういう風に遺伝子組み換えをしているのだから当然だが、どこか愛着の湧いていた『這う黒豆』が自らの手によって絶滅の危機に瀕していることに、菅野は一抹の寂しさを抱いていた。
このまま順調に計画が進み、『跳ねる黒豆』が完成すれば、否が応でもまた世間からの脚光を浴びることになる。
それもまた、ひとつの懸念ではある。
しかし、ここ数日間で収穫された黒豆を観察していた菅野には、もうひとつ別の懸念が浮かび上がっていた。
透明なプラスチックケースの中でぴょんぴょんと不規則に飛び跳ねる黒豆を見て、ふと業務中に想像したことがある。
這う、跳ねる、歩く、走る。
かつて、人類が猿から進化したのと同じように、この黒豆が実験を通して未知の進化を遂げ、知性を獲得するのではないかという不安。
そもそも黒豆に脳が発生することなど本来はありえないと思いつつも、今まで自らの作り出してきた異常な黒豆の様子を見ていれば、それは真っ向から否定できるものではない。
バッタのようだった後脚はより洗練された、歩行に適した形へと変化し、発達の鈍かった前脚は器用な動作ができるよう先が分化する。
やがてより繊細に手足を操作するため、司令塔としての脳が自然的に発生し、今度はそれらを効率的に支えるための首や腰が形成されていく。
より実用的に、より高度に。
全身が黒い豆の皮質で覆われた、異形の人間を思わず頭の中で想像し、そしてそれを即座に振り払う。
仮にも科学に身を捧げる者の端くれとして、我ながらなんて荒唐無稽な妄想なんだ、と研究室の中でひとり笑ってみる。
起きないはずだ。
ダーウィンの進化論にも、エルメッセの塊根概論にも、大豆がそんな発展を遂げるとはどこにも記されていない。
と同時に、大豆が『這う』『跳ねる』ように進化するとも記されていないことに菅野は気づいていたが、その気づきにはすぐに蓋をした。
日々の業務をこなし、求められるがままに淡々と黒豆の栽培作業を繰り返し続ける。
最初は小さな畑の一角から始まった黒豆の生産計画が、いまや数十世代、数百世代を経て多くの物好きたちの手へと渡っていく。
そしてより大量の人々が注文し、より大量の黒豆が生産されるに連れ、進化に必要な、世代の積み重ねがどんどん加速していく。
菅野は願っていた。
なにも起こらないことを、自分の手に負えない現象が発生しないことを。
しかし、ことが起こったのは、かなりの年月を費やし、ようやく『跳ねる黒豆』の量産計画が軌道に乗り始めたばかりの頃だった。
その時、人類の歴史上、あらゆる聡明な偉人が夢の中ですら考えなかったことが、ある大学の畑で発生していた。
「畑全体の調査をするのも、思えば一年ぶりか……。」
大学の研究室横の畑、太陽の弱い光に照らされた苗には、若々しい枝豆が幾重にもなってぶら下がっていた。
幾分か涼しくなり始めた秋口、このままあと二ヶ月もしたら黒豆の収穫の季節。
菅野自らの、そして同僚やスタッフたちの献身的な助けもあり、苗たちはいつにも増して生き生きとした様子でたわわな枝豆をつけていた。
しかし、本来なら喜ぶべき枝豆の健康っぷりを見ても、丸メガネの奥の菅野の目つきは険しいままだった。
最初に這う黒豆の生産を始めてから数年、その間にできた後輩たちやスタッフ、同僚の一部を引き連れ、整然と植えられた黒豆の苗山へと入り込んでいく。
運動靴で踏みしめる畑の土は、昨日の雨のせいかじっとりと湿っていて歩きにくい。
見渡せるほどに広大な畑の土地。
その中で菅野が目をつけたのは、数ある苗の中でも一際目を引く、たっぷり栄養を吸ったらしい巨大な一株。
入り乱れて生える太い茎に、晴天によく映える瑞々しい若葉。
そこに、菅野の白手袋の指が忍び寄り、指先をくすぐる産毛や、今朝の雨で残った露を意にも介さず、無慈悲にも、ぶちり、と、苗からひとつの房をもぎ取った。
右の手のひらに乗った房を見て、菅野がちいさく呟く。
「……妄想は、妄想でしかない、はずだ。」
いつかの研究室で頭に浮かんだ、ほんの少しの現実味を帯びた夢想を振り払う。
菅野は、自分に言い聞かせるようにそうひとりごつと、もいだ枝豆の房を慎重に持ち上げ、ちょうど真上に到達した太陽にそれをかざした。
薄くみずみずしい枝豆の皮が日光によって透け、房に包まれた二つの黒豆のシルエットが明らかになる。
本来なら楕円形で、少し膨らんでみえるはずの黒豆の影は、いまや通常のそれと全く変わったものになっていた。
その形は、まるで。
「たっ、胎児……?」
同行していた研究者の一人が、いつの間にか静まり返っていた畑で小さく呟く。
不格好な様子で足は丸められ、頭は身体に比べてアンバランスに大きく、そして時折もぞもぞと、外界を求めるかのように小さく回転する。
その、太陽に照らされて浮かび上がった黒豆の色形は、発達段階ではあるものの、まさしく人間の胎児そのものだった。
産科のエコーや映像でなら見慣れているはずのそれが異質に映るのは、『胎児』が収まっているのが枝豆の房の中だから。
いま、小さく震える、菅野の手のひらには、全長二センチにも満たない人間の最初期そのものが収まっていた。
豆は胎児で、房は、まるで極小にあつらえられた子宮かのように。
今や、その房の付着した朝露の粒でさえ、この異形の子宮から漏れ出た羊水ではないかと勘ぐってしまうのも無理はない。
この場に集まった、国内でも選りすぐりの科学者たちの優秀な頭脳を持ってしても、この驚愕の光景を、進化を、否定できるような言葉を、どうしても口から絞り出すことができない。
ただ、目の前の光景に広がる光景は、彼らの中にあった常識という形容詞を、音を立てて崩壊させるのに十分すぎるほどのものだった。
一方で、当事者である菅野は、懸念が現実となって現れた恐怖感と、どこか他人事のように感じる絶望感によって、広い畑の中央でただ立ち尽くしていた。
実はその事態が起こることを知っていたような、知っていたのに知らぬ振りをしていたような。
頭の中に、後悔とも呼べない、あの時取るべきだったかもしれない行動の数々が、彗星のような速さで、あとを引きながら流れていく。
相変わらず土で汚れた白衣の背後には、これまで研究を続けるうちに増えた後輩たちの姿が。
そしてそれに伴って膨れ上がった、大量の黒豆の苗がある。
菅野は、こんな事態が起こるとは想像もしていなかった頃は、手ずから育てた黒豆の畑を、自分の業績の象徴だと誇りにも思っていた。
しかしいまは、無数の苗が居並ぶ後方を、ほんの少し振り返って確認することすら恐ろしい。
「彼らが胎児だとしたら、この畑は、まるで産婦人科か……はは。」
菅野は共に農場にやってきた有望な科学者たちが一言も発しない中、そう自嘲げにぽつりと呟くと、視線を足元へと向けた。
広がるのは荒い土。
その刹那、菅野は、あの日藤原と議論を交わしていた、ホテルの大理石の床のことを思い出した。
ふたりで連れ添って歩いていて、ふと視線を床に落とし、そして、黒くて丸いなにかを見つけた。
後で分かったが、それは虫だった。
しかし、醸成されたプライドが、自分の推測の誤りを許さず、黒豆への執着と、いまのこの結果を生み出した。
菅野は額からじわりと汗が浮き出るのを感じ、逃れられない目の前の現実を移す視界に、ゆっくりと、瞼で蓋をした。
いま聞こえるのは、時折強く吹く秋風と、その風に揺らされて、ガサガサと擦れ合う黒豆の葉の音。
しかし、幾度となく聞いてきたはずの、畑で生じる音は、いまや菅野の不安を拭うどころか、その精神の均衡を完全に破壊しようとしていた。
目に見えない脅威や責任によって、じわじわと崖の縁に追い詰められているような、そんな気分。
次第に菅野は、なにか自分の周りから、小さく、ただ確かな鼓動が無数に響いてくるような気持ちに囚われ、ついには耳までをも塞ぎ込んだ。
それと同時に、その耳に添えられた菅野の手のひらから、ぼとり、と鈍い音を立てて黒豆の房が落下する。
その房は、時を経ても誰にも手をつけられず、やがて土に埋もれ、数年をかけて腐っていく。
呆然とする研究チームの背後で風になびく、無数の苗に実った黒豆の収穫までは、あと二ヶ月ある。
畑に立ち尽くす、小さな研究者の男が崩れ落ちるまでは、もう幾ばくもかからない。




