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8/16

 ピクニックから翌日のこと。シリウスは窓辺に立ち、中庭で花を見て回っているハルミアをこそこそと陰から見つめていた。


 昨日の夕食は、ハルミアと出かけたことで、広間で食事を摂るのかとばかり思っていたが、変わらず自分の部屋に食事が運ばれてきて、部屋から出ずとも何も言われず、ただいつも通りそっとされていることに戸惑いながら彼は一夜を過ごしていた。


 そして朝はどうだと考えてみれば変わらずベスが食事を持ってきたことに拍子抜けして、自分の身の置き方に悩んでいる。


「どうしたんすか? なんか困ってるんすか?」

「うわっ」


 突然後ろからぬっと現れたベスにシリウスは心底驚いた。「ノックぐらいしていただけませんか?」と遺憾を示せばベスが「したっすよ〜」と大して悪びれもせず答え、シリウスは眉間にしわを寄せた。


「一体何の用です?」

「旦那様に用はないっすよ。花瓶の水を入れ替えに来たんす」


 ベスは、シリウスが初夜に倒れたことを知り、馬鹿にしないまでも自分と同類だと感じていた。さらに除名だけではなく決定的に家から否定されたというところも似通っており、早い話敬いの対象から完全に外し、職場に入ってきた新入り程度の認識で見ていた。


「旦那様は何してるんすか? アンリみたいに覗きっすか?」

「はぁ!? な、なんで私がそんなことを」

「だってハルミア様のこと陰からちらちら見てるじゃないっすか。なんすか。捧生の腕輪なんとかして奪えないか考えてるんすか?」


 ベスの言葉を、シリウスは否定しようとした。しかし即座にベスは「無理っすよ」と何の気なしに続ける。


「ハルミア様、オルディオンでいっちばん長く生きてる婆さんのとこ行って、どうにか旦那様の捧生の契約外せないか聞いてたっすけど、駄目って言われたらしいっす」


 シリウスは、その言葉に驚いた。まさかハルミアが自分の捧生の腕輪を何とかしようとしてるなんて、思ってもみなかったからだ。


「それはいつの話だ」

「旦那様が屋敷に来る前っすね。婆さんから聞いて〜そんでもって婆さん、下手なやり方したら王女様に気づかれるからやめろって言ったらしいんすけど、ハルミア様腕切り落としかねないから、気を付けてくれって」

「腕を切り落としかねないって……」

「やるっすよ。あの人は。自分の身体に興味ないっすもん」


 ベスが花瓶の水を入れ替えながら、ふざけるわけでもなく言う。シリウスはその意味に愕然とした。


 花瓶を置いたベスは、「じゃあまたっす〜!」と軽快に部屋を後にする。昨日見た表情といい、ハルミアの心根が分からずシリウスは混乱したまま立ち尽くしたのだった。


◇◇◇


「刺繍をしませんか?」


 ピクニックから翌日の昼。食事を終えたハルミアは、裁縫箱を持ってシリウスのもとを訪れた。


「……もしかして、それが、手伝いということですか?」


 戸惑いがちに問いかけるシリウスの問いかけに、ハルミアが机の上に裁縫箱を開きながら頷く。ハルミアの手伝ってもらいたいこと、それは刺繍だった。


 大体が同じ動作の繰り返しで、簡単なものであれば目に見えてすぐに結果が分かる。


 だからこそ、成功体験を積み重ねてシリウスの気力を取り戻すにはうってつけだと考えていたのだ。


 ハルミアは刺繍枠をはめた白いハンカチを取り出して、シリウスに差し出した。


「まずは、私と同じ柄を縫ってみましょう?」

「私は、一度も針を持ったことはないですよ? 私より適任な人間はいくらでもいると思いますが……」

「大丈夫です。私も初めは針を持ったことがありませんでしたし、失敗してもいいんです。解いてまた上から縫ってしまえばいいのですから」

「……」


 シリウスは恐る恐る白いハンカチを手に取った。ハンカチには薄く線が引かれていて、そこに刺繍を入れていくだけでいいようにしてある。ハルミアが裁縫箱を開いて、針を選び取り、シリウスには沢山の刺繍糸が並ぶ小箱を向けた。


「どんな色がいいですか? 好きな色で大丈夫ですよ」

「好きな色と言われても……」


 箱には、春の花々の印象が強い淡い黄色や桃色など暖色の糸、深みを帯びた枯れた青や緑の寒色の糸と画家の絵具箱と見間違えんばかりに様々だ。自分の好きな色すら存在しないシリウスはしばらく考え込んだ末に、白いハンカチを縫うならば、濃い色が見やすいだろうと効率を重視して濃藍色の糸を指した。ハルミアは手早く針に糸を通して、シリウスに渡す。


「では、私から始めますね」


 ハルミアは桃色を選び取り、糸を通した。そしてシリウスの隣に座って、ゆっくりゆっくりと布に針を通していく。シリウスも見よう見真似で彼女に倣った。もう一度針を刺すと、ハルミアのハンカチには桃の点が、シリウスのハンカチには藍の点が取り残された星座のように浮かんだ。


「もうこれで完成したのと同じですよ」

「そんなはずがないでしょう」

「でも、これと同じ作業を繰り返すのです」


 ハルミアは少しずつ針をハンカチへ入れていく。シリウスは彼女の動きをよく観察して手を動かした。しばらくそうしていると、ぽろりとシリウスの針から糸がすり抜けてしまった。


「あっ」

「貸してください」


 ハルミアは手を止め、彼の糸を通してやる。「こうして入れなおせばいいだけなので、大丈夫ですよ」と落ち着かせる言葉をかけながら。シリウスが線に合わせ黙々と縫っていると、徐々に淡く引かれた炭の曲線は鮮やかな藍に覆われていく。


 ハンカチに針を刺して、糸が絡まらないようしごいて、また針を通していく。それらを繰り返し、窓から差し込む光の角度が変わり、ハルミアたちの手元に影が差したころ、とうとう二人の炭の線は完全に糸に覆われて消えた。


「そして、縫い終わりはこうするのです」


 ハルミアが手本を見せると、ゆっくりゆっくりシリウスも後に続く。ハルミアが余った刺繍糸を金細工の鋏で切り落としてやると、それまで縫うのに夢中で気にしていなかった図面の全体像にシリウスははっとした。


「シリウス様の頭文字です。これは、シリウス様のものです。どうぞ」


 ハルミアが刺繍枠を外したハンカチを彼に差し出す。藍色の刺繍を見て、シリウスは感動したようにそれを眺めている。


 曲線を描いたシリウスの頭文字は、図面が筆入れの部分はほっそりと、そして止めの部分はあえて強く力を入れた時のものになっており、ただの文字よりもずっと映えて見える。やや拙い部分はあるものの、糸の並び部分は均一で、初めてながらに秀逸な出来栄えであった。


「少しずつ点を作っていって、綺麗な刺繍ができていくのですよ」

「き、昨日の敷き布も、同じようにするんですか?」

「はい。いくつか違う縫い方も含まれますが、大元を辿れば同じですよ。どうですか、刺繍は」

「こうして、結果が出るものは好きです」


 シリウスの言葉に、ハルミアは胸が痛くなった。宰相の座を失くし、好きな人との婚約を解消されてしまった彼を想い、言葉を失う。けれどぎゅっと手のひらを握りしめて、「またしませんか?」と問いかけた。


「ええ。是非」


 シリウスが午後の日差しを受けながら優しく微笑んだ。やや弱々しくあるものの、ハルミアは内心安堵する。


「それにしても、時間が過ぎるのがあっという間に感じました。っいてて」


 時計を見ながら伸びをしたシリウスが、腰をさする。ハルミアは「夕食までまだ時間があるので、良ければどうぞ」と包みを取り出した。渡されたシリウスが包みを開いている間に、ハルミアはアンリを呼び、紅茶を淹れてきてほしいとお願いする。


「疲れた時には甘いものが一番ですから朝に焼いておいたんです。紅茶に浸してどうぞ」


 ハルミアが、今度はシリウスと向かい合って座った。包みには、ビスコッティが入っている。砕いて炒った木の実に、麦の粉やバターをよく混ぜて焼いたそれは、飴色に煮詰めた砂糖を絡めており、包みを開いただけで優しいバターのにおいが香った。


 アンリが紅茶を淹れるのを待ってからシリウスがそれを口に運ぶと、木の実の歯ごたえと、ややほろ苦くも甘みが広がる。さくさくとした軽い口当たりで、紅茶を一口飲むと、菓子のために調整されているのか、さっぱりと、どこかぴりりとしていてシリウスは驚いた。


「もしかして、紅茶も変えてあるのですか」

「はい。甘いものに甘い紅茶……というのも、あまり合わないような気がしてアンリにお願いしたんです」


 ハルミアは、笑ってカップに口をつける。そして思い出したようにシリウスに目を合わせた。


「ハンカチは、貴方のものですから、どうぞ使ってくださいね」

「わ、分かりました」


 あなたのもの。シリウスが反芻しながら手元のハンカチを見て、藍色の刺繍をなぞる。久々に疲れを感じそのあとに甘いものを食べたのか、何かを完成させたからか、珍しく満たされた気持ちで、シリウスは紅茶を飲んだのだった。


◇◇◇


「できました。現鳥です」


 朝食を終え、ハルミアが中庭を散歩していると、シリウスが向かいからずんずんと足音を立てる勢いでやってきた。見せつけるよう広げられたハンカチには一面に青空を背景に大きく羽ばたく現鳥の姿がある。羽は七色で、粒子も散り、その身は糸を重ねたことで立体的で、嘴は今にも子供の頭を突かんという迫力だ。空も水色一色ではなく、遠くは淡く、高い場所は色濃く段階的に色を変えているため、空間が広がって見える。


 シリウスがハルミアに刺繍を教わって二週間。彼の刺繍の腕は留まることなく上達し続け、名前の頭文字を恐る恐る刺していた姿から一変し、色合いを変え多様な色味を使い、異なる技法を扱い、複雑な曲線も難なく針を入れるまでになった。元々凝り性で、気になることはとことん突き詰め高みを目指し、静かな作業を苦に思わない彼の気質と、作業中に目に見えて結果が分かり、人を必要としない単独で行う刺繍が見事に合致したのだ。


 さらに、シリウスは眠りが浅く、夜起きて何もせずいることも多かった。しかし今、彼には刺繍があり、眠れなければ手を動かし、また眠りにつくという生活をしていた。


 もっといえば、彼には今何もすることがない。日中ただ窓を眺めたり他人の気配を気にしていた時間がすべて刺繍に変わり、分からないことがあればハルミアを呼べばすぐに来ることから、刺繍を上達させる環境は、完璧といっていいほどに整っていた。


「まぁ、輝いて見えるようここに白を入れているのですね……完成まで大変だったでしょう……、これは、額に入れておきましょうか」


 さらに、シリウスは刺繍の話題に関してならば、ハルミアに滞りなく声をかけることができた。


 よって、このままならばなんとか彼女と落ち着いて話ができるのではないかと考え、元々の承認欲求の高さもあり、出来た刺繍をハルミアに見せることを続けていた。


「ずっと思っていたんですけど……、シリウス様、一度その刺繍を誰かに贈ってみるのはどうですか?」

「はい?」

「実は、墓守を勤めているお婆様にケープを編んだのですが、どうも見目がしっくりこなくて、よければシリウス様に刺繍を入れていただきたいのです」

「あなたが刺せばいいのでは?」

「もう、幾度となく刺繍を入れたものを贈っておりまして……私の入れたものは飽きたと……」


 なぜ、他人の刺繍を飽きたなどという老人のケープを刺繍してやらなければならない。シリウスは率直にそう思った。しかしハルミアは話を続ける。


「私だけでは、勿体無いですし……、使用人の皆さんに見られることに気後れなさっているのでしたらと思っていて、ならばと……」


 ハルミアは、毎日自分のもとへ刺繍を見せに来るシリウスを見て、彼の才能を感じていた。


 ほかの人間も間違いなくシリウスの刺繍を見て喜び顔をほころばせるはずなのに、彼は


「使用人なんて皆口をそろえて褒めるにきまってますよ。相手は主なのですから」と言い、屋敷に飾ったり見せることを躊躇った。


 よってハルミアは使用人ではなく、ヴィータにシリウスの腕を見てもらおうと考えたのだ。ヴィータは口が悪くそっけない老人であるが、嘘だけは吐かない。ハルミアの最後に贈った刺繍に向かって放った言葉も、「腕も色選びの目もいいけどね、作った人間が同じだから飽きるんだよ。いやがらせかい?」だ。


 シリウスの刺繍を見れば、きっと彼の腕を率直な言葉で認めてもらえるに違いないと考えていた。


「でも……」


 一方のシリウスはといえば、ただの墓守の老人に刺繍して自分にどんな益があるのかと返事を躊躇っていた。


「お願いします。ヴィータさんは嘘も吐かない方で、お世辞を言ったりすることは絶対にありませんし、わざとらしい態度で接してくることは絶対ありませんよ」

「ヴィータ?」


 その名を聞いて、シリウスの目の色が変わる。ヴィータは、ハルミアが捧生の腕輪の相談をしていた老婆だと気付いた彼は、すぐに頷こうとして、慌てて咳ばらいをした。


「し、仕方がないですね。そこまで頼むなら構いませんよ。時間はありますしね」

「ありがとうございます!」


 ハルミアの喜びように、シリウスはふいっと目をそらした。「で、大体いつ頃完成させればいいのですか」と問いかけると、彼女は「出来たらで大丈夫ですよ」と答える。


「は?」

「出来たら渡しに行こうと思っているので、その時で大丈夫です」


 なんだそれは。今作れということか。シリウスは気が遠くなりながらもハルミアからふんだくるようにケープを受け取る。


「柄は?」

「何でも好きなものでいいですよ。好きなものを聞いたら、好きも嫌いもない、とおっしゃっていたので」


 本当に、なんなんだそれは。シリウスはどこか自分がハルミアの手のひらの上で踊らされているような気がして、むしゃくしゃした気持ちでケープを掴み「じゃあ縫ってきますよ」と中庭を後にしたのだった。


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