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「お目覚めですか。ハルミア様」
ハルミアが目を覚ますと、そこはいつもハルミアが寝起きしている彼女の部屋だった。しかし最後の記憶はシリウスに向かって駆けたもので、混乱する彼女にハルバートが声をかけた。横にはアンリやべスも立っている。
「あっあの! シリウス様は、ご無事ですか?」
「大丈夫ですよ。それよりご自身の心配をなさってください」
「ハルミア様、あれから三日も眠り続けてたんすよ?」
「え……」
ハルミアが驚くと「散々婿殿に寝ずの看病をしていたのですから当然でしょう」とハルバートが切り捨てるように言い放つ。
「は、ハルバート先生、シリウス様は今、どんな様子で……?」
「あなたが庇いましたから、生きてますよ。もうすぐ来る頃合いでしょう。……ほら」
ハルバートが扉へ視線を向ける。すると、真っ白な布を深く被り、足先だけを出した、子供が仮装でお化けを模した姿にも似た人物がやってきた。ハルミアが首を傾げると、布お化けは「食事ですよ」と、不機嫌そうに手に持ったトレーをアンリに渡した。
「布を被ったまま食事を運ぶことは、いささか不衛生だと思うのですがね」
ふ、と馬鹿にしていることを隠さず、ハルバートが鼻で笑うと布お化けはぴくりと反応し、そそくさと部屋を出て行く。
状況を上手く呑み込めないハルミアにべスが「旦那様、ハルミア様を下敷きにして、ハルバート先生にこっぴどく叱られたんす」と伝えると、ハルバートが鋭い目をべスに向けた。
「それより、貴方たち使用人が下に綿や寝具でも重ねて並べ置いておけば、わざわざ私が無傷の人間を診にここまで足を運ぶことはなかったのですよ。それに、私の専門は人間の内臓でも、骨でもない。そのことをお忘れなきよう」
「わかったっす……」
「あの、ご足労いただきありがとうございました」
「礼などいりませんよ。慈善事業ではなく仕事ですから」
「それでも……ありがとうございます」
ハルミアが頭を下げると「病人に頭を下げられても嬉しくありません」とハルバートは撥ね付け、使用人二人に顔を向けた。
「では、私は本業の仕事をしてから帰りますから、アンリ、べス、出て行ってくださいますか」
「分かりました。ハルミア様、何かご入用があればなんなりとお申しつけください」
「じゃあ失礼するっす!」
ぱたぱたと慌ただしくアンリとべスが部屋を後にした。ハルバートは足音が遠ざかっていくのを見計らって、寝台近くの椅子に座る。
「あの……シリウス様は」
「ええ。貴方を下敷きにしたその日の夕方に意識が戻りました。翌日の朝からは運んできた食事も取っているので、それまで床に臥せり、使用人が泣き明かしても目を覚まさなかった貴方よりずっと健康になりましたよ」
「……ありがとうございます」
「病人の礼など不要だと、何度言えばご理解頂けるのでしょうか。それより眠れていなかったのは、旦那様の看病だけが理由ではありませんよね」
ハルバートの言葉に、ハルミアは口を噤んだ。視線を伏せて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。
「薬もいくつか出しておきます。雨期も近い」
「……あの、シリウス様が、もうあんな行動を取らないようにするには、どうしたらいいのでしょうか……どうにか元の気力を取り戻して頂きたいのですが……」
「何か、小さな成功体験を重ねることですね。今の彼は悉く矜持を踏みにじられ、夢も希望もない状態ですから。しかし、ハルミア様がそれを与えることに私は反対です」
「え……」
「共倒れ、道連れにされますよ。貴方はようやく持ち直してきたところなのですから」
ハルバートは、日頃その瞳に感情をのせることはない。しかし、今日はそこに心配の色が混ざったことを感じ、ハルミアは静かに頷いたのだった。
◇◇◇
「私、シリウス様とお話をしてみようと思うのです」
「お前は馬鹿なんじゃないのかい」
ハルミアが目覚めて一週間が経過したころ、久しぶりに彼女はオルディオンの果ての墓地に訪れた。そしていつも通りに墓守の老婆、ヴィータを捕まえそう宣言する。
「お前が倒れたって愚図のべスが報告に来たとき聞いたよ。お貴族様、飛び降りたんだってね」
「はい。それでハルバート先生に聞いたのです。シリウス様がもうそんなことをなさらないよう、元気になる方法を……そうしたら、何か小さな成功を積み重ねることが大事と聞いて……」
「はん。そんなのお前がくれてやってどうするんだい。共倒れになるってハルバートに注意でもされなかったのかい?」
まるでその場で聞いてきたとしか思えない言葉に、ハルミアは目を見開いた。しかしヴィータは当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「あたしはね、ハルバートを小さい時から見てきたんだ。あいつの診立てなんてなくてもそれくらい分かるよ。で、何をする気だい。止められたところでするんだろう?」
「はい。実はちょっと考えがあって……」
そう言ってハルミアは、ある計画を話す。それを理解したヴィータは「あたしを巻き込むんじゃないよ」とハルミアをはたいたのだった。
◇◇◇
ハルミアが目覚めるまでの間、シリウスは彼女の食事を運んでいた。それは、医者であるハルバートに伝えられた言葉が、全て彼の行動に身に覚えがあったからだ。
初夜の日に、自分が倒れた後、朧げにであるが、ハルミアが自分に声をかけていたことに、聞き覚えがあった。
さらに目を覚ましたことを喜ぶハルミアの目には、フードで少し隠れていたものの隈があり、最初オルディオンの屋敷で対面した時よりずっと、服の袖から伸びる指先はほっそりと、青白くなっていた。
それでも、シリウスが彼女に感謝を抱くことはできなかった。シンディーに魔力の権を譲渡させられたといえど、今シリウスの魔力を奪っているのはハルミアで、自分の全てをハルミアが握っているのだと思っただけでシリウスはハルミアが敵にしか見えなくなる。心を許す気には到底なれない。
だからこそ、身を投げようとしたときのハルミアの自分を恐れる必要はないという言葉に強い反応を示したのだ。
自分が恐れるはずがない。魔力の権を持っているからと言って、馬鹿にするな。ただただ子供の癇癪でシリウスは飛んだ。はじめこそあと一歩で近づけたはずの自分の夢が泡と消えたことに絶望し、縁へと立ったが、あの瞬間のシリウスは、ただただ自分にわずかに残った矜持を崩されまいとする一心だった。
そしてその、僅かながらの矜持も、霞と消えた。――彼女の身体に殆ど魔力がないというのは本当のことです。
半信半疑で夜半、ハルミアの眠る部屋に入ると、ハルバートの言葉を裏付けるように、ハルミアからは魔力を感じなかったのだ。いくら魔力を失っていても、他者のそれを感じることはできる。そして人は活動するとき、無意識に魔力を放出しており、眠り、そして意識がない時は活動時に放出されるべきだった分が体内に蓄積し毒にならないよう、より放出されるはずだった。
しかし、シリウスはハルミアから、まったくと言っていいほど魔力を感じることができなかった。
彼は戦時に幾つもの同胞の亡骸と対面してきたが、その骸と同じ、それ以下の魔力しか、感じ取ることができなかったのだ。魔力が少なく生まれた人間がこの国でどんな扱いを受けるか、シリウスはその身を以てよく知っている。ハルミアの身体に何が起きているかを知り、そこでようやくシリウスに、後悔、そして詫びの感情が生まれた。初めに反発しか感じなかったハルバートの言葉が、深く刺さった。ハルミアに対して、自分がどんな態度を取っていたかをようやく理解したのだ。
ハルミアが目覚めるまでシリウスは食事を運んでいた。いつか、ハルミアは目を覚ます日が来る。合わせる顔がないと、シーツを被って。そしてハルミアが目を覚ましてからは、食事を運ぶことを続けるか迷い、結局顔を合わせることから逃げ、シリウスはずっと部屋で過ごしていた。食事はべスが運んできて、それとなくハルミアの様子を知らせてくる。まるで、会いに行けと伝えんばかりに。
ハルミアと、一度しっかり話をしなければいけない。それはシリウスもよく考えたことだった。けれどなかなか上手い言葉が思いつかず、一筆すら書けなかった。
だから、シリウスも想定していなかったのだ。
「シリウス様、もしよろしければ、明日、共に外出を致しませんか?」
ハルミアが目覚めて一週間後の夕暮れ、彼女から出かけようと誘われるなんてことは。
◇◇◇
オルディオンの山は、およそ登山には向かない土地だ。山頂部と麓ではその気温が大きく異なり、人々が汗をかき、外出すら億劫になる夏場でも、その山頂ではしんしんと雪が降り積もり、一面凍て付いた銀世界が広がっている。
黒々とした針金のような木々からは剣と見間違えんほどの氷柱がいくつも並び、迷い込んだ人々の命を気紛れに奪うからと、親が子に言って聞かせるほどだ。ではオルディオンの街並みが白く染まり、一年を終えようとする頃はといえば、灼熱の暑さとともに酷い干ばつが襲う。一歩踏み入れればすぐさま身体中の水分が抜け、渇きの苦しみと共に息絶えることで、動物の侵入を悉く拒絶しているとすら言われていた。
しかし、その麓はそうでもない。
日差しが入り辛いことで薄暗く、どこか寒々しいのは、春夏秋冬を通してあるものの、逆を言えば常に一定といっていい気温で、人々は遠乗りに出かけたり、山菜や木の実の収穫に訪れることもしばしばあり、ピクニックや散歩にはうってつけの土地であった。
そして、昨晩シリウスを誘ったハルミアもまた、晴れ渡る青空の下、彼とともにオルディオンの山の麓へ散歩に訪れていた。
「えっと、この道はあまり町の人も訪れないところなので、安心してください」
「人知れないところで、私を殺すにはうってつけの場所ですね」
白いローブを着て、フードを深く被ったシリウスが返事をする。彼の今着ているものは、ハルミアが与えたものだ。自分が昨晩誘いに行ったとき、慌ててシーツを被る彼を見て、あったほうがいいだろうと朝に持っていくと、出発する際、着替えて現れた。
「そんなことしませんよ。この辺りはほかの場所より影が濃いので、子供たちに近付かないよう町の大人たちは話すのです。そして、子供たちに示しをつけるよう、昼間は必要でない限り、近付かないようにしています」
「そうですか」
一方のハルミアもまた、今日も今日とて全身真っ黒な装いに身を包んでいる。傍から見れば、黒い塊と白い塊が微妙な距離を取り並び歩く奇妙な光景であるが、黒い木々がささくれ立って並び、ぽつぽつと石が落ちているだけで周囲にそれを揶揄する人影はない。
急ごしらえではあるが今日のためにと用意したものを詰め込んだバスケットを手に持ち、ハルミアは歩いていく。途中、シリウスは何度も声をかけようとしたが、その度に小鳥がさえずったり、春風が吹き、彩度の低い木の葉たちが渦を作り音を立てることで、叶わずにいる。
「この辺りは、幼い頃に家族で来ていたんです。姉様は外に出ることが好き……というより、屋敷の中にいられない気質で、よく、一緒に習っていたピアノや、ワルツのレッスンを抜け出そうと言ってきて……ここから左に逸れ、あの洞窟を抜けると、湖と木の実が沢山取れる草原に出ます」
ハルミアは歩きながら、遠くに見える洞窟に指を指した。所どころ苔で覆われたその場所は、周囲の木々は白く、洞窟の奥からは柔らかな光を発していて、幻想的だ。シリウスは興味深そうに足を止めると、ハルミアも足を止めた。
「洞窟の中の空気の濃さが外とは極端に異なり、また、洞窟を作り出しているのが、双水岩ですから、ああいう風に見えるのですよ」
「双水岩……魔道具の材料のですか?」
「はい。王都で使われているのは加工されたもので薄めたものだと聞きますが、あれは天然もの、いわば原石です。国もなんとかしようと動いていて、調査員が過去に何百と訪れていたのですが、やはり硬度が問題で……」
「それで……」
双水岩といえば、魔力を使って動かす道具の主原料になるもので、魔力を内側に流すことができ、さらに外側からほかの魔力を弾くことが出来るという、極めて需要が高い素材だ。
しかし、採掘できる場所は限られ、さらにかなりの硬度で、高い魔力を持たなければ切り出しや熱で溶かすことも困難である。ただでさえ、拳ほどでも加工に手こずる品物だ。洞窟を作り出してしまうほどの大きさともなれば、戦時を想定した魔力を用いて加工しなければならない。
さらに場所は果てのオルディオン。何百人もの魔法士を扱い岩を切り出しても、それを今度は王都で職人が加工するためさらに裁断しなければならない。そこまでの労力を用いるならば、今限りある場所から発掘した岩を加工するほうが、よほど効率がいいのである。
シリウスが感心しながら歩み始めると、今度は七色の羽を持ち、粒子を発する鶴がハルミアと彼の頭上を旋回した。
「あれは、現鳥ですね」
「現鳥?」
「知らないのですか? あの鶴の羽は薬効作用があり、さらに飛行魔法の力を増強する装飾に使われる鳥ですよ?」
「え……! あの鳥は、馬鹿にしたり意地悪をすると必ず仕返しをしに来るとこの辺りで言われ、子らに恐れられている鳥ですよ」
「へえ」
自分の言葉に驚いていたハルミアに気を良くしたシリウスは、得意げになって話を続けた。
「王都であの鳥は貴重な鳥です。街から少し離れていたとしても、飛べば、すぐに撃ち落とされ、我先にと羽を毟られますよ」
「なら、この辺りで子供に恐れられている方が、あの鳥にとっては幸せなのでしょうか」
「そうですね。身は特に利用価値がありませんから。捨て置かれて腐るだけでしょうし」
説明をして、シリウスから静かに目を伏せた。自分も、散々利用するだけ利用され、王家に捨て置かれた。このまま腐っていくだろうことも、自分と似ている。
さっきまで言葉を交わしていたシリウスが黙ったことで、ハルミアは彼の顔を見つめた後、気を紛らわせるため、先ほど見た洞窟を振り返った。
「今度、あの先へ行ってみませんか?」
「え……」
「実は今日は、町の学び舎の子らが森との触れ合いの為に来ているのです。木の実が欲しい人は朝と晩に集中しますし、昼はあまり人がいません。ですから、その時にでも」
本当なら、人に元気を出させるとき突然外に出すことはいいことではないと医者であるハルバートからハルミアは聞いていた。しかし今日彼女がシリウスと外出したのは、シリウスが人の目を気にするからだ。
オルディオンの屋敷では、シリウスを表立って悪く言うことはしないまでも、王女から婚約破棄をされたこと、そして飛び降りをしたことで、目立ってしまう。だから、少しでも落ち着けるようにと、ハルミアは今日シリウスを誘った。
「まぁ、別に構いませんよ」
シリウスは素っ気なくも、きちんと返事はする。ハルミアはぽつぽつと、少しずつ、シリウスと会話を交わす。彼が負担に感じないよう、答えやすい質問を選び取って。それは丁寧に砂を集めて、城を作り出すことにも似ている。柔く壊れやすいから、そっと、恐る恐る砂を盛る。壊れそうになったと感じたら、手を止める。
そんな風にハルミアがシリウスと言葉を交わしていると、目的の場所に辿り着いた。
「ここは……」
辺りは大きな湖が広がり、淡く鮮やかな花々が、己を見てと言わんばかりに咲き乱れている。柔らかな風が巻き上がって吹いており、花弁が絶えずひらひらと舞い上がっては、静かに降り落ちてくることを繰り返していた。それまで薄暗く、日差しの一つも入っていなかったのに、辺りは燦燦と光が差して、花々を祝福するように照らしている。
「綺麗ですよね。とっておきの場所なんです。よく、姉にここに連れられてました」
あまりの景色に圧倒されたシリウスを横目に、ハルミアはピクニック用の敷き布を広げる。そこにはハルミアが丁寧に刺繍した花々が咲いていた。
「どうぞ、座ってください」
「あ、ああ」
シリウスは刺繍の上に座ることが申し訳なく感じて、ひと際念入りに縫われた部分を避けて座る。ハルミアはバスケットから水筒とカップを取り出して、準備していたものを注ぎ、シリウスに渡した。
「どうぞ。レモネードです」
「……」
「私から飲みますね」
「いや、疑っているわけではなく……」
受け取ったレモネードをじっと見つめるシリウスを気遣うハルミアが、もう一つのカップにレモネードを注いで飲んでみせた。シリウスは慌てた様子でカップに口をつけ、そしてわずかに目を見開いた。
「美味しいです。このレモネードは、貴女が?」
「はい。レモンと……それとライムを輪切りにして、しばらく蜂蜜と漬けて煮込んだものを水と割っています。実はほんの少し、お塩を入れてるんです」
「それで、あまり飲んだことのない味が……」
熱心に研究する目をレモネードに向け、シリウスはカップに入ったレモネードを飲み干した。ハルミアがさりげなくおかわりをするか問うと、遠慮がちにカップを差し出す。ハルミアは追加のレモネードを注いだ後、バスケットからさらにボックスを取り出した。
「実は、お昼のお食事も作ってきたんです」
ハルミアが包みを開くと、中から出てきたのはバゲットだ。瑞々しい野菜、香草のオイルに一晩漬け込んでから焼いた肉を挟み、さらに茹でた卵を刻んで合えたソースが挟まったそれを見て、シリウスはごくりと喉を鳴らした。
「お口に合うといいのですが」
シリウスはハルミアからバゲットを受け取って、かぷりと一口、小さくかじった。バゲットは断面にもこんがりと焼き跡が付いていて、香ばしい風味が喉を抜ける。肉はしっとりとしていながら、味が濃く香辛料も強く効いているのに、野菜が一口大に千切られている為か、むしろ丁度いい具合でまた一口、また一口と食べたくなる味だとシリウスは感じた。
「どうですか?」
「……いい味だと思います」
がっついているのだと思われないよう、シリウスはそっけなく返す。しかしハルミアは安堵した様子で、途端に申し訳ない気持ちになった。一方ハルミアはシリウスの返事に安心して、自分のバゲットに手を伸ばす。食べながら湖に小鳥が止まり、水を少しずつ吸い上げていく姿を眺めていると、ぼそりと呟く声が聞こえてきた。
「……あ、貴女は、食事を作られたり、するのですね」
近年令嬢たちの間では、意中の相手に対して焼き菓子を贈ることが流行っている。しかし今だ貴族が料理をすることは否定的に見られており、ハルミアはそれとなく注意をされているのかとも思ったが、シリウスの声色からはそういったことを感じず、静かに頷いた。
「ええ。でも町やオルディオンの屋敷の料理人の方たちのようにはいきませんけどね」
ハルミアが、シリウスではなく湖に目を止めたまま答える。フードから覗くその横顔は憂いを帯びていて、シリウスは時が止まったように感じた。
「……よく、姉様や、伯爵、夫人にお作りしていたので、菓子なども焼けますよ。もしよろしければ、今度一緒に作ってみませんか?」
「……そ、そうですね」
今にも溶け消えそうなハルミアの雰囲気が、ぱっといつもと同じに戻る。シリウスは戸惑いながらも返事をした。
「バゲット、もう一つ食べてもいいですか?」
「ぜひ」
ハルミアの表情は安らかで、いつもの彼女の表情だ。しかし、どこか仄昏い静けさを感じて、狼狽えていることを隠すように、シリウスはバゲットに手を伸ばしたのだった。◇◇◇
湖の前で昼食を終えたハルミアとシリウスは、その後何かするでもなく、ひと並びに座り、レモネードを飲んだり、彼女が予め一口大に切っていた果物を口にしたり、ただのんびりと過ごしていた。湖では現鳥の群れが湖を縁取りながら悠々と羽を休めている。七色の羽は湖の水に沈み込み、七色の粒子は溶けこみ、彩は水の中へ閉じ込められ、静かに底へと舞い落ちている。一方で遠方の鳥たちは一羽、また一羽と湖を飛び立ち、飛沫を挙げて天へ向かっていて、ハルミアはただ見送りながら午後の時を過ごしていた。
「あの」
丁度湖の中央にいた現鳥が飛び立ったとき、シリウスがハルミアへ顔を向けた。ゆっくりと振り返ると、シリウスはフードは被っているものの真っすぐその天色の瞳をハルミアに向けていて、彼女は何事かと心臓が強く収縮したのを感じた。
「ど、どうしましたか」
「……」
呼びかけたにもかかわらず、シリウスは次の言葉を紡ごうとしない。口を開き、ぱくぱくと動かして、俯く。また顔をあげて、今度は口を動かすことなく俯いた。辛抱強くハルミアが待つと、ようやくシリウスは「私が、倒れていたとき……」と呟く。
「食事は、貴女が作っていたと聞きました……」
「ええ。そうですよ」
「……無駄にして、申し訳、ございません」
ぎゅっとフードの裾を掴みながら、震える声で話すシリウスを見て、ハルミアは驚き固まって、すぐに首を横に振った。
「そんな、私に謝る必要なんてありませんよ。それに、体調が悪い中で無理に食べてしまったら、身体に響きます。気にしないでください」
「でも……」
「それに、私はシリウス様が元気になっていただけたらと用意したのです。食べてもらいたくて作ったわけではありません。今こうして、食事はとれているのですからそれだけで十分です」
屈託なくハルミアは笑う。よりシリウスは申し訳ない気持ちになって「何か」と俯きがちに彼女を見た。
「貴女の手伝いになるようなことがあれば、したいと思っています……」
「手伝い……」
「何か、ありませんか?」
シリウスの言葉に、ハルミアは考え込む。そして一つ思い至ると、彼に真剣な表情を向けた。
「あります。していただきたいことが一つ」
「なんですか?」
「それは……」
ハルミアは言いかけて、ぴたりと止まる。そして空を見上げ、その後少し視線を落としてきょろきょろ周りを確認すると、晴れやかだった青い空は彩度も明度も低く分厚い空に代わり、わずかであるが遠くからは雷鳴が響いている。
「少し、天気が悪くなってしまいそうですね……まだ来たばかりですけど、撤収の準備はしておきましょう」
てきぱきと撤収を始めるハルミアに、シリウスは手伝いの内容が何か問うことが出来なくなる。せめて撤収の支度はできないかと恐る恐るシリウスは敷布を畳もうとするハルミアへ手を伸ばした。彼の意思を汲むように、ハルミアは反対側を渡した。そのまま、折りたたんで、離れてしわを伸ばして長くある面を折っていくと、運びやすい大きさへと変わっていく。二人はそうして敷布を小さくして、ピクニックの品物を片付けバスケットに詰めると、足早にその場を後にしたのだった。