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 オルディオンが看病の際に作る料理で有名なのは、麦パンや木の実をミルクで甘く煮込んだパン粥だ。麦は日差しをたっぷりと受け、香ばしい風味のある夕笛麦を使った歯ごたえのあるパンを焼き、主に森でとれる甘酸っぱい凪苺の実やスパイスと共にじっくりミルクと火にかける。パンはとろりとして、味も優しくまろやかになり、栄養価も高いことからオルディオンの病人を救う定番食とされている。


「シリウス様、お食事をお持ちしました」


 そんなパン粥をハルミアがシリウスに運んで行っても、寝室の扉は開かれることなく、彼女は困ったように「扉の前に置いていきますね」と声をかけ、その場を後にした。


 シリウスが、目を覚まして五日。彼がハルミアに拒絶の意を伝えてから、扉の鍵は固く閉ざされたままだった。


 オルディオンただ一人の医者、ハルバートの診立ては「出るまで食事も水も出さずに放っておけば、そのうち出てくる」というあまりに慈悲のないもので、ハルミアはシリウスに不要だと怒鳴りつけられてもなお、部屋に食事や飲み物を献身的に運んでいた。


 無駄になってしまう可能性があるからと、料理人ではなく自分が彼の食事を作り、飲み物と共に運んでいる。そして手を付けられることなく食事を下げることを三日繰り返し、今に至っていた。


「ハルミア様。もう、ベスに扉を開けさせるべきでは? どうせ相手は対抗魔法が使えないのですから」

「そうですね……。あまり強引な手段をとってもし何かあったらと思っていましたが、そろそろ考えないとシリウス様の身が……」


 ハルミアは静かにうつむいた。人間がおよそ一週間、飲まず食わずで生きられることを彼女は知っている。けれど、生きながらえていたのはそういう風に身体が慣れていたからだ。恋に身を滅ぼしかけたといえど、今は大丈夫だとしても、公爵家で育てられたシリウスの身体がこの先絶対に持つわけがない。だからどうにかして食事を、それか水だけでもとってもらいたいと彼女は考えていた。


「……明日、明日一度、扉を破ります。ベスに伝えておいてもらえますか」

「承知いたしました」

「では私はまた、西の森のほうに行きますので、シリウス様をよろしくお願いします」


 西の森、と聞いてアンリの表情が一瞬曇った。「今日は午後から風が強くなるそうですよ」と彼女の言葉に、ハルミアは「大丈夫」と頷く。


「風が強くなる前に帰ってきます」

「ハルミア様……」

「いってきますね」


 ハルミアはアンリから顔をそむけるようにフードを深くかぶり、その場を後にする。廊下から見える窓の外の景色は、分厚い雲に覆われ嵐が来ることを予兆していた。


◇◇◇


「なんだい。あんたも暇だね。婿に泣かされでもしたのかい」


 ハルミアが墓場にやってくると、丁度塀を掃除していた老婆、ヴィータが心底嫌そうに顔を向けた。辺りは春だというのに寒々しく、花芽吹く季節といえど枯れ葉が落ち、竜の鱗を象った石畳を焦げ色に染めている。


「いえ、その、彼が家からの手紙を受け取ってから……部屋から出なくなってしまって……」


「ふん。家からの手紙っていうのは、もう二度と王都に戻るなとか、どうせそんなところだろう?」


 ヴィータは傍に置いてあった金の薔薇が刻まれた如雨露を塀にかけた。


「結局泣かされたんじゃないかい。で、どうするんだ。末姫のお古なんて屋敷に置いておいても、ろくなことなんてないよ」

「……捧生の契約が解かれたら、きっと彼は屋敷を出ようとすると思います。ですから、私はその契約を解く方法がないか、調べます」

「あんたも人が良すぎるね。馬小屋にでも捨て置いちまえばいいものを。自分と境遇が似てるって思ってんのかもしれないが、あっちはお貴族様なんだよ? あんたとは育ってきた世界が決定的に違うんだ」

「わかってます」

「あと、あんたそろそろ護衛を連れてきな」

「え……」

「最近、東のほうが騒がしいって街の噂好きの馬鹿共が言っていたよ。魔物が出たとか言ってねえ。こっちだっていつ同じようなことになるか分からないんだから、愚図のベスでも頭でっかちのアンリでも引っ張ってきな。二つ返事でついていくだろうさ」

「ひ、東に新たな魔物が出たのですか?」

「街の人間はそう言ってるが、取りこぼしたってこともあろうだろうね」


 取りこぼし。もしそれが本当であるならば、筆頭魔法士のシリウスや、国一番の剣技を持つガイと、他二万の兵士の目から逃れた魔物であり、王都に危機が迫っているということだ。


「国は動いてるだろうけどね。西の変人を引っ張ってまで平和を知らしめるパーティーを開いた後に万が一魔物を逃がしたってことが明るみになったらそれこそ革命が起きちまうよ。内々に処理するはずさ。でも」

「でも?」

「人間、自分の都合の悪いもんは軽く見えるように出来てんだ。もしかしたら気のせいだとなーんにもしてないことだってあるかもしれない。だからお前も一人でのこのことこんな所に来るんじゃないよ。守ってもらった大事な命なんだろ」

「……はい」


 ハルミアは自分の胸に手をあてて、鼓動を確かめた。この心臓は、自分のものではない。三人のものだ。目を閉じて三人の笑顔を思い浮かべてから、彼女はまた前を向いた。


「では、挨拶をしてきますね」

「ああ。さっさと済ませな。雲行きがどんどん悪くなってきてるよ」


 急かすようにヴィータがしっしと手を振っていく。ハルミアは促されるまま、墓地の中へと向かっていった。


 墓場を後にしたハルミアは、しっかりとした足取りで屋敷に向かって歩いていた。


 オルディオンは土地柄、日中でも薄暗い。よってせめて視界に入る建物は明るい色でいようと、この地方の屋敷の外装は皆明るい色味だ。


 上部に竜の彫刻が置かれた街灯を幾度も通り抜け、色彩豊かな煉瓦で出来た屋敷を過ぎていくと、壁は濃紺で、屋根だけは淡い極彩石が用いられたオルディオンの屋敷が見えてくる。


 オルディン伯爵は、その物の来歴について厭わない人柄で、見目や能力さえ伴っていればどんな物でも扱った。


 今屋根として使われている石は、魔力で加工したものではなくここから南の海街で取れたものだ。道はなく、海の中に屋敷が立ち並び人々は船で移動する場所で、いわば何も手が加えられていないもの。来歴を聞けば手抜きであると人々は避けてしまう。しかし伯爵は来歴の価値観なんて時代とともに薄れてしまい、いつかこの極彩石も日の目を見る日が来るはずだとハルミアに話した。


 かつての記憶を思い出しながらハルミアが歩いていると、丁度オルディオンの門の中へと入ったところでアンリが血相を変え走ってきた。反射的にシリウスに何かあったのだと察知して、ハルミアは駆け寄る。


「どうしましたか、アンリ」

「大変です、旦那様が、ま、窓に、とにかく来てください!」


 顔色が真っ青になっているアンリを見て、ただ事ではないと感じ取ったハルミアは屋敷へと足を速める。しかしアンリを追って辿り着いたのは、オルディオンの屋敷の中央に位置する中庭だ。屋敷に囲われているこの場所は花壇が並び、屋敷の中から人々の目を愉しませられるよう職人が設計した。しかし中庭に集まっている使用人たちは、皆足元にある花々ではなく皆天を仰ぎ愕然としている。


「一体、何がー……っ!?」


 ハルミアが、顔を上げる。するとそこには、三階の窓――寝室の窓から身を乗り出し、外壁の縁に足をかけ、今にも飛び降りようとするシリウスの姿があった。


「し、シリウス様!」


 ハルミアは全身から一気に血の気が引いていくのを感じながら、シリウスが今落ちようとする真下へと駆け寄ろうとした。しかし「来るな!」とすぐさまシリウスに制され、足を止める。


 後ろについていたアンリが「庭師が、血相変えて走ってきて……、申し訳ございません」と謝りハルミアは首を横に振った。


「いいえ、こんなことになるのなら、今日扉を開いてしまえば良かったんです……私の判断の誤りです……シリウス様! 今すぐお部屋に戻ってください! 落ちたら死んでしまいます」

「うるさい死神め! 少しでも邪魔をするそぶりをしてみろ。この魔力石の欠片を使って、屋敷を燃やしてやる!」


 シリウスの言葉に、屋敷の者たちが皆息をのんだ。屋敷の使用人たちは皆ハルミアほどではないものの、魔力は高くない。シリウスを浮かせ部屋の中へ押し戻したり、落ちてきた彼を受け止めるほどの魔法は使えず、だからこそ彼の暴挙を許してしまった。


 屋敷の中で唯一高い魔力を持つべスも、こればかりは手の尽くしようがない。人を早く歩かせることは、早く向かいたいというハルミアの想いが根底にあったからこそ作用した。しかし、今のシリウスは部屋の中へ戻ることを望んでおらず、その手足に戻るよう命じることは出来ないのだ。


「どうして……」

「どうして? 当然じゃないか。国で一番の魔法士になれた! 将来は宰相の席だってあったんだ。聖女と結婚して、その地位は完璧だったはずだ。父上だって母上だって、兄上たちだって、僕のことをこれで無視できなくなった! なのに! 全部壊れた! 挙句の果てに、死神に魔力を奪われて、一生お前の傀儡として……俺は、俺は男娼として生きろと? 冗談じゃない! 魔物に食われた方がまだましだ!」


 シリウスは叫びながらも、縁からつま先を少しずつ出し始める。


「ま、待ってください。私は貴方を自分の言いなりになんて絶対にしません!」

「嘘だ! 僕に復讐する気か? 僕を生かして、苦しめようとしているんだろう!」

「私はそんなことするつもりもありませんし、魔力が、殆どないんです! 貴方が私を恐れる必要なんてない!」

「僕が、お前を恐ろしいと……?」


 ハルミアが叫んだ瞬間、シリウスの目の色が変わった。先ほどまで窓枠にかけていた手を離し、ハルミアを真っすぐと見た。


「いいか、僕はお前なんてちっとも恐ろしくない! たかが辺境伯の娘を何故恐れる必要がある! お前が捧生の腕輪を身に着けようと、僕は僕のものだ! お前のものになんてなってたまるか!」


 シリウスが怒鳴り、飛び込むようにして身を投げた。ハルミアは咄嗟に彼を受け止めようとアンリを振りほどき駆けていく。屋敷の者達は声を上げ、咄嗟にハルミアを戻そうとするが、誰一人その手は届かない。


 やがてハルミアとシリウスがぶつかった瞬間、橙、桃、そして深緑色の粒子が瞬いて、二人を包みながら眩い閃光を放った。


 周りにいた使用人たちは反射的に目を塞ぐ。眩い光が収まり、皆二人の元に駆け寄ると、ハルミアもシリウスも傷を受けることなく、ただ二人とも固く目を閉じたままそこに倒れていたのだった。

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