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夕食会が終わり、夜も始まった頃。湯あみを終えたハルミアはオルディオン家の部屋で一人、寝台を前にただただ立ち尽くしていた。
(美しい女性に来ていただいて……。駄目だ。オルディオンに娼館はない)
夕食会の席でシリウスはハルミアに対してにこやかに、紳士的にふるまっていた。意にそぐわぬ婚姻、そして、自身の魔力の権を奪われているにも関わらずだ。
だからこそ彼も望んでいないだろう初夜は、ハルミアから引き延ばすよう働きかけなければならない。
そう考えた彼女は夕食も終わりシリウスが広間から退出する際、意を決して彼に近づいた。しかし逆に彼のほうからさらに近づいてきて「夜、お部屋に向かいますね」と囁かれてしまったのだ。
ハルミアは、シリウスに一等弱い。
シリウスでさえなければ何の問題もなく行えることが、彼を相手にしただけでその悉くが駄目になってしまう。彼女の恋心はそれほどまでに染み付いていた。
初夜の準備は、完璧だった。侍女であるアンリの手によって、湯あみは薔薇を浮かべ香油をたらされ、出た後は髪にも肌にもしっかりとクリームを塗りこまれた。寝室はほんのり色味のあるランプだけが灯り、香が焚かれている。天蓋のついた寝台は、華奢なレースが窓からの柔い風に揺られていた。
本来ならば、夜着姿のハルミアがそのレースの中に入って籠に捕らわれた鳥のように行儀よく彼を待っていなければならない。
しかし、ハルミアの浸食された恋心こそが、流されてはいけないと胸の軋みを伴い訴えかけ、彼女は天蓋レースの外に立っていた。昼間と同じ黒一色といえど、日中身にまとうものと異なり、前は開かれ滑らかな肢体は露わになっており、普段触れぬ風が触れることで、彼女をより一層弱気にさせる。
「いっそ、書き置きを残して私は自分の部屋に行ってしまおうかしら。でも、何か誤解をされ、シリウス様の評判に関わるようになってしまったら……」
ハルミアは、どうしてシリウスに囁かれたとき頷いてしまったのだろうと後悔をした。あの時頷いていなかったらもっと事態はいいほうに転がっていたはずだ、もしかしたら自分はこうなることを望んでいたのではないかと拳を握りしめる。
(いいえ、私はこんなこと望んでいない……でも、私はいつだって、浅ましい人間であった……)
寝室には、大きな竜を模った像が月灯りを反射して輝いている。
オルディオンの地では竜に対し深い信仰心を持っており、竜を模したものを身に着ける者が何かと多い。竜神教と呼ばれ、月に一度祈りを果ての海へと捧げる教会もある。
しかし、教会に入っていなくても竜というものは何かと馴染み深く、竜と花嫁の物語から寝室に竜を置くと夫婦円満であれるというのが言い伝えとしてあった。
ハルミアは、竜を恨めし気に見つめる。彼女にとって神は三人の人間であり、竜ではない。そしてその三人は永遠にハルミアが向かうことの出来ぬ場所に行ってしまったことから、すでにこの世界に彼女の神は存在しない。
ハルミアが燃えるような紅い瞳に暗闇を溶かしていると、静寂を打ち破るように寝室の扉がノックされた。
「こんばんは、シリウスです」
低く甘い菓子のような声にハルミアの心は一瞬にして現実に戻り、すぐに扉へと向かう。慌てて開くと、真っ白な寝着姿のシリウスが目を丸くしいていた。
「え……」
「え……」
本来ならば、ハルミアは寝台の上で了承を伝えればよかった。
にもかかわらず彼女は寝台を抜け、扉を開いた。シリウスは目を瞬かせていて、そんな反応を見たハルミアもまた自分の失態を理解し取り繕いながらも「えっと、お酒、とか、飲みますか……」と初夜を望むような言葉を吐いてしまい、また自己嫌悪を起こした。
「お酒は結構です。少しお話をしたいのですが……」
しかし、ハルミアの思惑は空しくも散った。「えっと」「その」を繰り返す彼女を見かねてか、社交の場をエスコートするよう、シリウスがハルミアの腰にそっと手を回した。
「まずは、座りましょう?」
「……はい」
耳元で囁かれ、ハルミアがこくりと頷く。
注ぎ込まれる声は毒だ。言いなりにされる魔法がかけられていてもおかしくはない。甘く感じるのは、自分のような愚か者を餌食にする為だ。
ハルミアが何度も心の中で唱えても、紫水晶で作られたランプの光はシリウスの瞳に映り込み、妖しく揺らめていている。
同じ寝台に並んで座り、妖艶さをまとって微笑まれ、ハルミアは夜着のフードを深く被り込んでしまいたくなった。しかし、フードを掴む手は、がっしりとした手が重ねられ、そのまま掴まれた。
「緊張していますね。私が恐ろしいですか?」
シリウスに顔を覗き込まれ、ハルミアは息を呑む。逃れるように身を縮めると、すかさず彼はハルミアの掴んだ手を自分の胸へ導いた。
「私も、同じように緊張しています。でも、魔力の回路も、あなたのもの、私の全ては今、あなたのものなのですよ……?」
「う、えっと……私は、その、今日の初夜は……っ」
ハルミアは何とか今日を引き延ばす文言を伝えるべく口を開くと、紡がれるはずの言葉はシリウスの唇に全て飲み込まれてしまった。
氷漬けにされたように、ハルミアは固まってしまう。シリウスは彼女に口づけを落とし、幾度となく繰り返すと唇を離した。
「お嫌ですか? 私に触れられるのは」
ハルミアは心の中で悲鳴を上げる。けれど、このままシリウスと共に夜を過ごしてはいけないことも痛いほどに分かっていた。
彼は、王命により仕方なく自分と添い遂げようとしている。そして、酷く優しい彼だから、八つ当たりしたくなってもおかしくない存在の自分に甘く接してくれるのだ。
だからこそ、甘えてはいけない。ハルミアがシリウスの存在を否定したと受け取られないよう、必死に言葉を考える間に、ハルミアの身体は寝台へと縫い付けられた。
「初めて見た時から、美しいと思っておりました。どうか私に身を委ねては頂けませんか?」
「わ、私は――」
「愛しておりますよ、ハルミア嬢」
衝撃でハルミアは目を閉じると、シリウスの手がハルミアのフードにかけられた。暴こうとする手にただただ動けずにいると、彼が不自然に呻き、ハルミアは魔法が解けたように目を開く。それと同時に、彼はハルミアへとぐったりと倒れ込んだ。
「え、シリウス様……シリウス様?」
ハルミアが恐る恐る体を揺らしても、シリウスの瞳は固く閉ざされ開くことはない。その姿に、ハルミアはざっと血の気が引いた。
「あ、ああああ、だれか、誰か来て、シリウス様が、シリウス様が!」
震える手足を懸命に動かし、ハルミアは寝台をおり、何とか扉のもとへたどり着く。
助けを求める叫びによって屋敷の者たちが駆け付けるまでの間、彼女は狂ったように「シリウス様が」と繰り返したのだった。
「重度の睡眠不足、そして栄養失調。あと、ここ数週間前まともなものを口にしていないにも関わらず、常人と同じものを食べた、というのもあるでしょう。おおよそ貧しい者が貴族に引き取られた時と同じ症状が出ていますね」
老齢であり、古くからオルディウスの民を診ている医者、ハルバートは寝台に横たわり一向に目を覚まさぬシリウスを見て、ため息を吐く。
シリウスが倒れ使用人が駆けつけると、ハルミアはすぐさま医者を呼んだ。どこが重い病にかかっていると不安に思っていた彼女は、医者の診立てに目を丸くする。
「なぜ、こ、公爵でもあるシリウス様にそんな症状が……」
「本当のところはわかりませんが、婚約破棄により眠れなくなり、食事が喉を通らなくなった、と考えるのが妥当でしょう。これからしばらくの間は病人の食事をさせ、眠らせていればある程度は良くなりますよ。念の為、薬も出しておきましょうか」
「お願いします」
人を癒す能力は、聖女しか持ちえない。どんなに魔力があろうとも、人を殺すことはできても殺さぬようには出来ない。薬や治療に頼り、究極的に言えば医者でなければ当人の回復を待つことしかできない。ハルミアは歯がゆい気持ちでシリウスを見つめた。そんな彼女にハルバートは薬を渡しながら冷たい目を向ける。
「恋心で身を亡ぼすとは、人間とは何年経っても変わらぬものですな」
「え……」
「どうかお気を付けください。眠れぬ、食事が取れぬまで追い詰められた人間が最後の最後にすることといえば、牙を向けることです。自分でも、他人でも。なるべく目を離さぬように。では私はこれで」
念を押すようにしてハルバートはハルミアに翡翠色の目を向ける。鋭く淡々としているが腕のいい医者は、時折全てを見透かすようで、ハルミアは相対することを苦手としていた。自分の思惑を全て悟られ、最も見られたくない裏側を暴かれてしまう気がして彼女はうつむきがちに頭を下げる。
「ありがとうございます。ハルバート先生」
「仕事ですからね。それと、ハルミア様」
「はい」
「先ほど私が気を付けるよう伝えたのは、あなたの旦那様に対してだけではありませんよ。あと一月もすれば雨期が来るでしょう。それまで一度往診に呼んでいただけないのであれば、勝手にお伺いしますからね」
刺すようなハルバートの視線が、ハルミアを貫く。そしてハルバートは返事を待たずに部屋を出て行った。
寝室に取り残されたハルミアは、端正なシリウスの横顔をじっと見つめる。――初めて見た時から、美しいと思っておりました。――愛しておりますよ、ハルミア嬢
耳に残るのは、毒を孕んだ言葉だ。ハルミアは、自分の容姿が人と異なることを知っている。そして、自分を愛する人間が、もう世界にいないことも。(だって、私を愛してくれる人は、もう、会えないところに行ってしまった)
そしてシリウスは、シンディーに焦がれ、眠ることすら出来なくなり、食事をとることまでやめてしまった。
愛している人間に会えない辛さをハルミアは痛いほどに理解している。愛する人を失った虚ろを共有するのが好きな人だとしても、自分の恋が叶っても、彼女はただ、シリウスに傷付いてほしくなかった。
末姫に暴力を振るったなんて、間違いだ。きっと何らかの思惑に巻き込まれている。そうでなければ、シリウスは死刑になっているはずなのだ。末姫に暴力を振るった罪は重い。いくら姫が望まないといえど、不敬は許されない。だからこれは、何者かが仕組んだ謀りだとハルミアは考えていた。
そして、シリウスを黒い渦の中へと落とすため、その背中に手を伸ばしたのはシンディーの可能性がある。愚かな自分でも想像に容易いのだから、聡明なシリウスが気付かないはずもない。それでもなお恋心を捨てることは出来なかった彼を、ハルミアは憂いた。
(もし、シリウス様が悪い人だとしても、私はきっと愛してしまう。あの日、助けてくれた優しさを思い出して、胸が痛む。きっとシリウス様も、同じようにシンディー姫を愛しているのだわ)
どうか彼が幸せでいてくれますようにと、ハルミアは祈りを込める。けれど決してシリウスの手には触れない。だらりと伸びたその手に触れ、握ることは許されないと思っているからだ。彼女はそっと立ち上がると、寝室を後にしたのだった。
◇◇◇
初夜にシリウスが眠りについて、とうとう丸二日が経過した。「少なくとも三日は目覚めることはないでしょうから、水滴で少しずつ水分を取らせるように」というのがハルバートの診立てであったが、ハルミアは気が気ではない。毎日絞った果汁とスパイスを加え温めた葡萄酒、パンを香草とミルクで煮たスープなどを用意しては、不安な気持ちで彼の目覚めを待っていた。
疲れに効く文織草と虹浮木を調合した香を焚いてみたり、カーテンを白から安らぎを感じさせるといわれている新緑色に変えるなど、出来ることは全て行っている。けれどその成果が表れることはなく、長く繊細なまつげに縁どられた瞼は閉じたまま、毒によって眠りに落ちた姫のようにシリウスは眠り続けていた。
そしてハルミアは、温度の調節が出来るよう、額によく水で冷やした布をのせることもしていて、今日もまた冷たい水を桶へと入れるため、オルディオンの廊下を往復していた。
「御嬢様、また旦那様のもとへ行ったんすか?」
ハルミアが振り返ると、べスが立っていた。彼女が持つ桶を見て、「行ったんすね」と、不安げな目を向ける。
「旦那様がお目覚めになられる前に、このままだとハルミア様が倒れてしまうっす。看病は俺たちに任せて休んでほしいっす!」
「でも……」
「旦那様が起きたとき、ハルミア様は旦那様の看病してて倒れたって説明しなきゃいけなくなるっすよ? それでもいいっすか? 嫌なら俺、嘘ついて旦那様の前で吐いちゃうっすよ?」
べスは、自分の癖についてよく思っていない。にもかかわらず口に出したということは、よほど思いが強いということである。彼の言葉にハルミアはゆっくり頷いた。
「分かりました。でも、水を汲んで、シリウス様の寝室に飾る花瓶の花を庭園で摘むことはさせてください。それが終われば、きちんと休みますから」
「仕方ないっすねえ。なら俺も郵便の確認が出来てないっすから、お供するっすよ」
べスがはぁ、と溜息を吐きながら歩き出す。べスの使用人らしくない振る舞いは、気質だった。元は騎士の家系ではなく公爵家に勤める使用人の家系であったが、性格上働けないとのことで騎士団に入った結果、武功を上げたものの癖により退団を余儀なくされてしまった。そして巡り巡ってオルディオンの屋敷に勤めることとなったのである。
この状態で招待客などの接待を頻繁に行うのであれば問題であるが、幸か不幸か今現在オルディオンの屋敷に訪れ中に入ることが出来るものはごく僅かな家の関係者のみで、ベスの悪癖も承知している。よってベスは奇跡的に仕事が続けられる状況を手にできていた。
「あれ? なんかぴっかぴかのお手紙が入ってるっす!」
花を摘み終え水も汲み終わり、二人がポストへ向かうとベスは郵便受けに入っていた手紙を掲げた。手紙は白の粒子を纏ってくるくると踊るように円を描き、ハルミアの手元に収まる。宛名はシリウス・ルヴィグラ。封蝋を見るとルヴィグラ家の家紋を押されており、彼の色味を模した深海の蝋が垂らされていた。
「シリウス様宛だわ。すぐにお渡ししなきゃ」
「待ってくださいっす。置いていかないでほしいっす!」
ハルミアはすぐさま屋敷へと駆けていく。オルディオンの庭は広い。いくつもの深紅の外灯を潜り抜け黒煉瓦で出来た屋敷の中へと戻っていくと、ちょうど大階段のところでアンリがぱたぱたと走ってくるところであった。
「ハルミア様! 旦那様がお目覚めになられました!」
「本当ですか!」
アンリの声に、ハルミアは驚きと喜びで目を開く。飛ぶように階段を駆け上り、一目散にシリウスのいる寝室の扉を開くと、彼は半身を起こし、ややぼんやりした目つきでこちらを見ていた。
「あ……ハルミア様……」
「お目覚めになられたのですね。喉の渇きはありませんか? どこか痛いところは……。医者をお呼びしますね。えっと、あとまずは……食事の用意は……」
「ハルミア様落ち着いてくださいっす。旦那様がびっくりしてるっす!」
自分を追いかけてきたベスに窘められ、「ああ! 申し訳ございません」とハルミアは落ち着きを取り戻す。
「あの、ハルミア様、私は……」
「丸二日、眠っていたのです。医者は睡眠をとっていなかったことや、食事をとっていないことが原因だと言っておりました」
「そうですか……」
ハルミアの言葉に、シリウスは驚く様子もなく、そっと天色の目を伏せた。いつもならばその姿にときめくハルミアだが、今のシリウスはどこか泡と共にふわりと消えてしまいそうで、彼女の心を不安にさせた。
「えっと、それと、ルヴィグラ家からお手紙が届きました。シリウス様宛です」
「本当ですか!!」
ハルミアが手紙を差し出すと、シリウスはそれまで終末を迎えるかのような雰囲気を一変させ、手紙に飛びついた。手紙を乱雑に開くと、朝日を受けた波を彷彿とさせるほどきらきらした瞳で、便箋に綴られる文字を嬉々として読み上げ始めた。
「……拝啓シリウス、先日送ってきた手紙についての返答と、今後についての話をしよう。なに、会って話すことでもない、お前はオルディオンへ婿に入れられたと考えているのかもしれないが、……我が家にお前の帰ってくる場所などない。代々築き上げてきた、我ら、ルグヴィラ家の名を汚す……面、汚しめ……、二度と、顔も、見たくない……」
その内容は、間違いなく絶縁状であった。徐々に読み上げるシリウスの声から覇気がなくなり、瞳も徐々に光を失っていく。
「お前の名前は、ルヴィグラ家から永遠に抹消する……。今までのお前の些細な栄誉など、お前の犯した罪に比べれば霞程度。王都に戻れるなんて……考えないことだ。果てのオルディオンで、せいぜい国に尽くし詫びながら苦しんで……死ね……」
あまりの内容に、騎士団を追われ家を追われたベスも言葉を失う。ハルミアは手紙を滑り落とし、愕然として瞬きひとつしないシリウスに声をかけようと近づいた。しかし、
「近付くな死神!」
シリウスは、手を振り払いそれを制する。手を伸ばしかけていたハルミアの手に音を立てて当たった。手を叩かれたハルミアは、ただただ愕然と立ち尽くした。
「シリウス様……」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
「え……」
シリウスの態度の急変に、ハルミアは言葉を止める。するとシリウスは畳みかけるように叫びだした。
「死神なんて好きになるわけがないだろ! 捧生の腕輪を使えるようにして、王都へ戻るつもりだったのに! ルヴィグラ家に僕の居場所がないのなら、お前の利用価値なんてない!」
シリウスは、ベッドサイドに置かれた花瓶を手に取ると、壁に向かって叩き付けた。ハルミアが片付けようとすると、枕やクッションを取り、投げつけ威嚇していく。
「くそ、くそ。俺は筆頭魔法士だ。東の魔物だって倒したじゃないか。それなのに皆魔力魔力と……」
「シリウス様……」
「出ていけ! そんな辛気臭い黒色なんて! 縁起でもない! お前の顔なんて見たくない! 出ていけ!」
「でも……」
「出て行けと言っているだろう!」
シリウスはうんざりだと言わんばかりに叫ぶ。あまりの様子にハルミアはどうすることも出来なくなり、ベスやアンリがハルミアを無理やり退出させる。そして扉が閉まってもなお、シリウスは叫び続け、怒りを露わにしていたのだった。