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「これ、ルヴィグラ家へのお手紙じゃないですか!」
夕食会の支度のため部屋を訪れたアンリに、着替えを終えたハルミアが受け取った手紙を渡すと、アンリは手紙の宛名を見て声を上げた。
「そうですよ」
「そうですよ。じゃないですよハルミア様! 何故手紙を出すのか聞いたのですか?」
「いいえ」
ハルミアのあっけらかんとした返事にアンリは眩暈を覚える。女が結婚し嫁ぐときも、男が婿に入るときも、わざわざその当日に手紙を家に送ることなんてない。相手の家へ印象を良くするために渡すことはあっても、自分の屋敷に手紙なんてわざわざ送らない。送る理由がない。にも関わらず送ったということは、何かがあるということだ。
アンリは、六歳年下のハルミアを妹のように思っているふしがあり、幸せになってほしいと願っている。だからこそ、国筆頭の魔法士といえど、突然王女に婚約破棄をされたシリウスを懐疑的な目で見ていた。それがいま、完全に確信へと変わった。
「危険です。中身、確認しておきますか?」
「大丈夫ですよ。心の優しい清らかなシリウス様ですから、危ないことなんてありません」
「御嬢様……」
「それに、もし私の知っているシリウス様でなかったとしても、オルディオン家は辺境を守る家。いくらこの婚姻に不本意だとしても、おかしなことはしないはずですよ」
オルディオン家は国の最西端に位置している。かといって港はなく、崖下に果てない海が広がっている。海にたどり着くまでどこまでも深い森が続き、また王都と比べかなり発展の遅れがあり、夏は猛暑冬は豪雪と極端で人の住みやすい土地ではない。王都の者は果てのオルディオン、人生の墓場、世捨て人は王都にいないでオルディオンへ行けと言うほどだ。
だが果ての海の先には大国があり、開戦の際には最前線と戦地となる。いわば国全体の砦だ。そんなオルディオンは今年の末、辺境を守る権利を腹心の家に譲ることが決まっている。
ハルミアの姉リゼッタの婿ノイルは放浪、ハルミアは死神令嬢と呼ばれ信用できないというのが王家の認識だ。血を絶やさずに結んでいくことが本来望ましかったが、無理だと判断され、辺境の管理を譲渡することが決定した。しかしオルディオン伯爵、夫人のこれまでの慈善活動や功績を称え、領地はオルディオンの名を受け継ぎ、屋敷もそのまま遺すという寛大な処遇を与えられており、オルディオンの国への影響が表れている。
シリウスの家――ルヴィグラ公爵家も、公爵は現宰相でありそれを充分知っているはずだ。そうハルミアは考え、シリウスの手紙に不信を抱くことはなかった。
「では、お手紙はお送りいたします」
アンリは渋々手紙を懐にしまう。ハルミアがお礼を言って場を後にしようとすると、アンリは呼び止めた。
「どうしたの?」
「その、本日は初夜のご支度があると思いますので、少々湯あみの時間が伸びることでしょう。なのでいつもよりお早めにお呼びしますね」
アンリの言葉に、ハルミアは目を丸くした後、ぴたりと動きを止めた。(え、え、初夜――?)
ハルミアは次は目をぱちぱちと瞬きし、「え、えっと、えっと、初夜?」と壊れたレコードのようにして繰り返す。見かねたアンリが「しっかりしてください」と窘めた。
「いいですか。ハルミア様。もし何か乱暴にされたり、恐ろしくなったらすぐに大声をあげるんですよ。うなるように出してください。その方がよく聞こえるので」
「え、は、はい」
「魔法はハルミア様なしに扱えませんが、王都の貴族は皆嗜む程度には剣術を楽しむと聞きます。念のため寝室から武器になりそうなものは撤去いたしましたが、武器がなくなってしまったのはハルミア様も同じです。どうかお気をつけてくださいませ」
「はい……」
「では、広間に向かいますよ」
アンリは淡々と護身の仕方を話し、一通り説明を終えると、部屋の扉を開く。
けれど、ハルミアは説明された護身術は、頭の中に一切入っていない。それはアンリが護身について話すきっかけとなったとある単語……初夜について頭がいっぱいだったからだ。
(シリウス様と、初夜……そんなの絶対無理。きっとシリウス様の意にそぐわないことだし……どうにかして避ける方法は……)
ハルミアは先ほど彼と衝突したことについてのお詫び、さらには初夜について頭を悩ませながら、ふらふらとした足取りで部屋を出たのだった。
(どうしよう、ここで私が体調不良であると示して、どうにか初夜を避けることはできないかしら……)
ハルミアは夕食の場である広間にたどり着くと、何とかしてシリウスに寝室を別々にすることや、今日に至るまで馬車に揺られていた彼に労いの言葉をかけつつ、それとなく今後に引き延ばせないかと考えていた。
一方のシリウスはといえば、まだ訪れる気配がない。ハルミアはシリウスを待たせるなんて絶対してはならないと、予定より早く広間に着いていたからだ。よってテーブルにはただただ純白のクロスによく磨かれたカトラリーが並べられ、天井から吊るされたシャンデリアの光を反射するばかりだった。
ハルミアは、銀食器たちに自分の影がどす黒く映る姿をじっと見つめる。今日が想い人との初めての夕食でありながら、彼女は変わらず深淵を彷彿とさせる黒の装いだ。たとえ、それが好きな人の前であってもだ。ハルミアは暖炉の上部にある、硝子の額にはめられた肖像画に視線を移す。
(私は、絶対に、この黒から逃れてはいけない)
「お待たせいたしました。ハルミア嬢」
肖像画を眺めていると、投げかけられた声にハルミアはあっと声を上げそうになった。シリウスが、来ている。慌ててハルミアが扉のほうに目を向けると、彼は真っ白な正装に身を包み、穏やかに微笑んでいた。(この輝きに、私はきっと殺されるのかもしれない)
どう見ても質のいい白の上掛けには、体のラインに沿うように曲線を帯びた金と青の刺繍がされ、職人が長い時間をかけて針を入れたのがよく分かる。埋め込まれた蒼玉と藍昌石がルヴィグラの家紋である鷲を模していて、黄金のタッセルが垂らされその存在を強く主張していた。
表情にも、祝賀会で見たうろたえた様子はない。涼やかな瞳はまっすぐハルミアに向けられ、彼女はどう視線を向けていいか分からなくなり、息を呑んだ。
「こちらになります! 旦那様」
ベスの案内のもと、シリウスがハルミアと向かい合うように座った。失礼があってはならないとハルミアは意を決する。
「王都からオルディオンまでの旅路、崖を下り山を越えとさぞ過酷だったことでしょう。食事は、果てのオルディオンといえど料理人が食材を取りそろえ腕を振るったものです。どうぞごゆるりと、そしてお楽しみいただければ……」
「ええ。オルディオンの魚は王都で高級品とされていますからね。とても楽しみです」
「はい。本日はラアル沖の魚を料理に使っていて……」
「ラアル沖ですか? だとすると、もしかして夜宵の魚ですか?」
「ええ」
「まさか、夜宵の魚が食べられるとは。王族でも中々食すことが出来ないものを頂けるとは光栄です」(大丈夫、私はきちんと話ができている。大丈夫……)
以前から頭に叩き込んでいたオルディオンの知識をハルミアはひとつひとつ思い出しながら声に出していく。シリウスは興味深そうにハルミアの目を見つめていて、彼女は黒いドレスの裾を握りしめた。
「それで、あの……」
「前菜をお持ちいたしました!」
ベスが前菜を持ってやってくる。今日の前菜は、オルディオンの山で採れた山菜と、そのふもとにある牧場のチーズで和えたものだ。特に山の香草は婦人たちが夜会のドレスをさらに彩る香水にも用いられ、オルディオンの名産といっても過言ではない。
「常月草ですか? これまた貴重な品を……」
「ええ。夜にならないと採取出来ないとされていますが、この辺りは山々の影によって太陽が昇っていても夜と同じ場所が多いですから」
「なるほど……なら日を求める植物は育ちにくいのですか?」
「そうなのです。日の当たる場所も確かにあるのですが、王都と比べると少ないですね。そういうこともあって日没から開かれる祭りは盛大に行われます。灯りを海へと送る祭りがあって……」
「ほう、どんな趣旨で開かれるのですか?」
「昔からここに伝わっているお話が起源と言われています。竜に見初められた花嫁が、戦いを終わらせようと海の先へ旅立った竜に恋を綴った灯りを送るという……」
「恋の祭り、なのですね。祭りが開かれる時には案内して頂けますか?」
シリウスの突然の誘いに、ハルミアは言葉に詰まった。今季節は春を迎えたばかりで、雪解けで白く濡れている部分もまだ残っている。祭りが開かれるのは夏の終わりだ。遠い日のことといえど、シリウスと祭りに行く、そして彼に誘われたという事実はハルミアの頭を大いに混乱させた。
「えっと、私に案内が務まるのかは、分かりませんが、尽力させていただきます……!」
「はは。ありがとうございます。うれしいです」
ハルミアは何とか言葉を絞り出す。すると途端にシリウスのまとう空気が冷たいものに変わった気がして、慌てて顔を上げた。しかし、彼は柔らかな笑みを浮かべるばかりで、その瞳も穏やかなものだ。
「では、えっと、お食事を……」
「そうですね」
シリウスがハルミアに促され、フォークへと手を伸ばす。ハルミアは彼の様子を窺いながらほっと息を漏らしたのだった。