貴きものの定義・5
元カレンバッハ伯爵一味の護送ついでに民間船の旅団を護衛し、王都に戻ったジークリンデは、間を置かず法務省へと向かった。
有無を言わせず執務室に押しかけると、一冊の古びたノートをアルシドの机に置き、その表情を窺う。
ページの角は擦り切れ、鈍く光る表紙が時の重みを物語っていた。
ムラサメが冗談めかして「呪われた書物」と呼んでいたそれは、実のところ、ただのノートにすぎない。
中身は、かのカレンバッハが若かりし頃に書き連ねた妄想の数々――青春の黒歴史がぎっしり詰まった遺物だった。
「ねぇ。“狂気に飲まれた者、装飾曲の絶滅”って、カレンバッハのペンネームなのかしら?」
紅茶を口に含む前だったのは幸いだった。アルシドは、あやうく吹き出すところだった。
「ジークリンデ……声に出さないでください」
アルシドはノートを手に取り、慎重にページをめくる。
乾いた紙のきしむ音が、静寂に溶けた。
「……これはまた、随分と丁寧に書き込まれていますね。
筆跡の癖も一定している。癇癪持ちではない。
少なくとも、執筆中は理性的だったようだ」
「感想、そこから?」
アルシドはジークリンデの反応に苦笑しながらページを繰る。
文字の隙間には、いくつもの図面、架空の兵器や要塞のスケッチが挟まれていた。異常なまでに精緻で、それゆえに現実離れしていた。夢と妄執が紙の上で奇妙に融合している。
「……この人、本気で要塞を造る気だったんですね。
“漆黒の要塞”の設計図、気圧計から給水パイプの材質、通風孔の死角まで……戦争ごっこを現実にしようとしていた」
ジークリンデも肩越しに覗き込み、扇で要塞地図を指し示す。
「カレンバッハ城、と自称してたおうちにそっくりですよね。
制圧するとき、とても参考になりました。
隠し通路も合致していたそうよ。
……壊して侵入したから、あまり意味は無かったけれど」
この妄想を実現するために、カレンバッハ伯爵は手段を選ばなかったのだろうか。
もし彼の人身売買や密輸がこの“要塞計画”に起因するのだとしたら――アルシドはなんとも言えない気分になる。
「人身売買って、そんなに儲かるのかしら?」
唐突な問いに、アルシドは軽く目を瞬いた。
ジークリンデは真剣というより、どこか面倒そうな顔をしている。
「手間の割に、効率が悪そうに思えるのよ。臓器も美人も、作った方が早いでしょう?」
ジークリンデの感性は、しばしば核心を突くと同時に、人間の闇をさらりと斬ってくる。
今のアルシドには、ページを捲ることさえ億劫だった。
「美人ですか……?」
アルシドはわずかに考える素振りを見せた。
「それなら人工の脳を埋め込んで……いえ、それではただの娼婦です。人身売買は、もっと別の需要を満たしているんです」
「どんな需要?」
「薬物研究、人体実験です。被験者は多いほどいい。
違法薬物の検出装置の開発にも試験対象が必要になります。……クローンを作るより、人を買う方がコストも罪も軽く、露見しにくい。倫理を除けば、合理的な手段ですよ」
「……死刑囚を使うやつですね」
ジークリンデはつまらなそうに答え、視線を手元に落とした。
売れるほどに使い道があるのかとぼんやり考え込む。
「じゃあ、これからは――なるべく壊さず、持ち帰るようにしますね」
その一言に、アルシドはノートから顔を上げた。
「今までは艦ごと吹き飛ばしてましたけど。……まあ、少しは気をつけます」
ジークリンデは淡々とした口調のまま、卓に置かれたアイスティーのグラスに手を伸ばした。ミカエリスが無言で置いていったそれは、ガラス越しに冷気を伝えてくる。
彼女なりの“協力”なのだろうが、それは敵を「壊さずに持ち帰る」という程度であって、司法制度への理解や配慮とは別物だった。
アルシドは返答を一瞬ためらった。冗談とも、本気とも取れないその言葉に、背筋がわずかに冷えた。
「ねぇ、アルシド。
正式な処刑と即時の射殺、どちらなら被害者や遺族は納得できると思う?」
不意を突かれ、アルシドは言葉を失った。
ジークリンデの瞳には、燻った怒りが宿っている。
「カレンバッハを、量刑で済ませたりはしませんよね?」
「……わかっていますよ。ただ、法から逸脱した扱いは、私の主義に反します」
アルシドの本心か建前か――ジークリンデには判別できなかった。
「それにしても……貴女が“呪われた書物”なんて言うから、どれだけの怪文書かと思いましたよ。
まさか、思春期の妄想を詰め込んだ“黒歴史帳”だったとは」
「呪われてるでしょ、実際。……絶対に法廷で読み上げてくださいね。
カウロがそれを手に入れるのに、相当苦労したらしいですから」
ジークリンデの皮肉に、アルシドは肩をすくめ、曖昧な笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。笑わないように、誠心誠意努力しますよ。
でも、これがあれば裁判資料としては十分です。
……動機に病的妄想がある場合、“衝動性”や“責任能力の不確かさ”を逆手に取られがちですが、ここまで計画的なら話は別です。たとえ殺人が目的でなかったとしてもね」
「あら、ノートなんて無くてもカレンバッハの正気は証明済よ?
何のために参考人を用意したと思ってるんです」
法廷での争点は、“正気と狂気の境界”――すなわち、心神喪失あるいは心神耗弱による責任能力の有無だ。
被告側は、妄想や精神異常を理由に責任能力の欠如を訴えるはずだ。
だが、その論拠を打ち砕くための布石を、ジークリンデはすでに打っていた。
カレンバッハの愛人たちを、最大限に活用して。
まず日常的に二重……いや、三重生活すら継続していた事実は、それ自体が綿密な計画性と、状況に応じて振る舞いを調整する判断力の証明となる。
決定的なのは、装甲兵が記録していた映像だ。
――嫉妬に駆られた正妻が突如として襲いかかってきた際、カレンバッハは一切反撃せず、ただ受け流した。
激情に流されることなく感情を抑え、状況を見極めていたその姿は、明確に「正常な判断能力」を示している。
つまり彼には「理性があった」。
ゆえに「狂気を免罪符にはできない」という動かぬ反証となる。
どこまで読んでいたかは分からない。
だが彼女は早い段階で裁判の構図を見抜き、反論の芽を摘みにかかっていたのだ。
ノートは法廷の場で、カレンバッハを合法的に嘲笑するための小道具にすぎない。
強い非難や糾弾より、ずっと深くカレンバッハを傷つけるだろう。
どうせ罪悪感など抱いてはいないのだから。
「ジークリンデ。……君は」
グラスの中で氷の塊がからりと音を立てた。
窓辺から射す午後の陽が、淡く彼女の横顔を照らしている。
「死刑台以外に繋がる道を、全部塞いでやろうと思いました。
命だけで贖える罪状ではないのだから、名誉も、自尊心も、一欠片たりとも残してやるものですか。妄想の中になど、逃がしてやらない。羞恥に悶え苦しむのがお似合いだわ。
ねぇ、アルシド。
カレンバッハの墓碑銘に彼のペンネームを刻んであげたら、犠牲者も笑ってくれるかしら」
「……ええ、きっと」