幕間 マクスウェルの廻り道
宇宙を目指すというナイジェル・マクスウェルの夢は、十八才になった今も、色褪せることなく胸の奥に強く根を張っていた。
幼い日に父に連れられた宇宙港。
その場所に、自らの意思で“乗客”として立つ日がついに訪れた。
ナイジェルはこれまでの道のりを思い返す――
ナイジェルは十五歳のとき、空──いや、宇宙を駆け巡りたいという夢を叶えるべく、王国士官学校と航宙保安学校を受験した。
結果は案の定、不合格だった。だが、それは無謀ゆえではない。
受験料だって、安くはないのだ。
合格を阻んだのは、意外な落とし穴だった。
たった一つの教科──王国史である。
教科書に記載のない事件、聞いたこともない人物。
問いの意味すら掴めぬ設問が並んでいた。
「これはどういうことだ」と憤ったナイジェルは、試験終了のベルが鳴ると同時に会場を飛び出した。
向かったのは、なじみの本屋。歴史書を片っ端から漁った。
ところが改めて見渡してみれば、王国史の本そのものが数冊しか置かれていない。
どれほど探しても、試験に出題された事柄の影も形も見当たらなかった。
(何かがおかしい。これは……異常事態だ)
そう思ったナイジェルは冷静さを取り戻し、翌日すぐに中等学校の歴史教員を訪ねた。
「王国史の問題が、まったく解けなかったんです」
初老の歴史教師は一瞬だけ驚いた顔をし、目元に手をやって眼鏡を押し上げた。
「ああ……そうか。君は塾に通わなかったんだね」
ナイジェルの家庭は、母が体を悪くして以来、経済的にあまり余裕がなかった。
だが塾など通わずとも、彼は優等生だったから、学校の授業だけで十分だと思っていた。
教師は声をひそめ、一冊の本をナイジェルに差し出した。
書店に置かれた歴史書よりもずっと重く、分厚い『王国史』。
見たことのない教科書だった。
「このことは、他人には話さないほうがいい。
この公爵領では、“王国の歴史をきちんと教えること”を禁じられているからね」
教師は声と視線を床に落とした。
「これはね、公爵なんか偉くもなんともないという歴史だ。
領外に出れば、誰でも知っているよ」
その日のうちに本を読み終えたナイジェルは、教師の言葉の真意を理解した。
──この公爵領では、王国の歴史を「教えていない」のではない。
教えるべきことを意図的に隠し、都合の良い“嘘を教えている”のだ。
教師の話によれば、塾で“正しい歴史”を教えることは、公然の秘密として黙認されてはいても、それを学校の授業で語ることは、決して許されない。
公爵の薄っぺらな自尊心のために、ナイジェルのように“本当の歴史”を知らずに育つ者は、きっと他にも大勢いるのだろう。
わざわざ専用の歴史書と教科書を用意して、必死で取り繕っているのかと思うと、その滑稽さに、怒りの裏から妙な可笑しさがこみ上げてきた。
誰一人として、領主のことなど尊敬していないのに。
「大学の宇宙工学部を目指してみてはどうかな。
王国史は出題されないし、君の学力なら、奨学金も現実的だろう」
幸いにも、地元の高等学校には特待生として合格していた。
つまり、三年間みっちり勉強して、ようやく出発点に立てるわけだ。
(士官学校や航宙保安学校なら、全寮制で、しかも給料まで出たのに……)
一抹の未練を胸の片隅に残しながらも、ナイジェルは覚悟を決め「自由への代償」を払い続けた。
そして三年後。ナイジェルは王立大学宇宙工学部への入学許可と奨学金──いわば“代替案としては最高の結果”──を、自らの力で勝ち取った。
素晴らしい成果だ。
領主さまの見栄に足を取られても、たった数年のまわり道で済んだのだから。