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貴きものの定義・1

王宮内、貴族院議場に隣接する五家の控室は、重厚な政治の舞台にふさわしい重厚な空間だ。

室内はバロック様式を基調に、惑星工学と現地素材が融合したつくりである。

中央の楕円形会議卓には精緻な象嵌細工が施され、磨かれた木肌がやわらかく光を返していた。

安楽椅子に金糸で刺繍された各家の家紋も、五家当主らにとっては気に留めるほどのものではなく、各々が気ままに席へと身を沈めるのが常であった。


部屋の一角に小さなテーブルと椅子が用意されており、法務卿アルシド・ルペルティエ侯爵と航保卿ジークリンデ・シュレディンガー辺境伯が将棋盤を挟んで向かい合っていた。

五家当主のなかでも最年少で、いずれも二十を少し過ぎたばかり。

十八歳で家督を継いだ若さながら、彼らを侮る者はいない。

必要以上に有能で、厄介なほどに辣腕——それがこの二人だった。


一見、柔和な印象を与えるアルシドの姿は、腰まで流れる淡い金髪に繊細な三つ編みを織り込み、春の花を思わせる優雅さを湛えていた。

宮廷に咲き乱れる花々を巧みに束ね、彼は常に社交界の中心にいる。

けれど、そんなアルシドもジークリンデにとっては見慣れた日常の一部に過ぎなかった。互いの顔はあまりにも馴染み深い顔であり、いまさら胸の裡に波が立つこともない。

彼女はアルシドの外面より内面を熟知していて、それゆえに彼の笑顔には懐疑的であった。


アルシドを花にたとえるなら、ジークリンデは冴えた蒼い冬の月だ。

ゆるやかに背中まで流れる銀の髪と、凍てついた湖面を思わせる空色の瞳は、澄み渡った夜気に通じる神秘を湛え、柔らかさは無く、峻厳な印象を与えた。

「氷月の君」という綽名は、整った容貌と怜悧さへの賛辞であると同時に、感情を表に出さぬ冷徹を揶揄する意味合いも含んでいる。


盤を挟んで対峙する二人の姿は人物画よりむしろ精緻な静物画に近く、生身の人間であるという事実が現実感を遠ざけ、他の当主たちを鑑賞者へと追いやっていた。


「最近、太陽系周辺の情勢が騒がしいようですよ、ジークリンデ」


白い法服の袖を揺らして駒を進めたアルシドは、その容姿に劣らず華やかな服装をしていた。滑らかな生地には微細な光沢が走り、動きに合わせてやわらかく波打つ。袖口と裾には金糸の刺繍が施され、王国の紋章や歴史的な象徴が繊細に織り込まれている。

アルシドのサッシュは、侯爵位を示す深紅だ。

王国では爵位ごとに色が定められ、そのサッシュを着けることで、身分が一目で伝わるよう制度化されていた。


かつては「フォン」や「ド」といったノビリアリー・パーティクルが苗字に用いられていたが、初代国王によってすべて廃止された。

そのため名乗りだけでは貴族か否かが判別できず、家名を知らぬ者同士で気まずさが生じる場面も少なくない。

それを一枚の布で回避できる、安上がりな対策となるはずだった。


本来この措置は、「爵位家の当主のみを貴族と見なす」という明確な線引きを意図していたが、目論見は見事に外れた。

伯爵の又従兄弟、男爵の再従兄弟などと恥ずかしげもなく高らかに名乗り、貴族として振る舞うなど、誰が想定できたというのか。

一般的にほとんど他人でしかない細い糸ですら、誇示する者が跡を絶たなかったのである。


結局、ノビリアリー・パーティクルが消えたかわりに、視覚的に爵位家当主を見分けやすくなったというだけだった。

今ではどの接頭辞を使うべきかという不毛な議論に国王が辟易し、思い切って全廃を決めたという俗説すら残っている。

このサッシュを単なる身分識別の符号と見るか、貴族の威厳を象徴する標と捉えるか、見解は分かれるが、建国五家の当主たちは、いずれも前者の立場を取っていた。


「帝国の報告では、亡き地球を巡って飽きもせず揉めているそうですよ」


アルシドがぱちり、と木製の駒を盤に置く音が響く。


「ふむ、そこに置くのか?」


軍務卿ユルゲン・ウィトゲンシュタイン侯爵が盤面を覗き込んで髭を撫でた。

青藍の軍装に包まれた老躯はなお重厚で、鍛え抜かれた肉体の輪郭をその下に宿していた。


「えぇ…?地球が崩壊したのは三百年以上昔の話でしょう?今更何に執着しているのかしら。今は小惑星帯でしかなくて、資源価値もないところなのに」


紅茶を一口含むと、熱すぎたのか、ジークリンデは小さく顔をしかめた。

ジークリンデの服装はグレーを基調とした航宙保安庁の軍制服で、胸元に縫い付けられた徽章が彼女の地位と功績を物語る。

右肩から掛けられた紫のサッシュは辺境伯位を示すものだ。


この日彼女にしては珍しく、将棋の駒を動かすたび、小さな笑みを浮かべていた。

ジークリンデの好むアールグレイの香気が、室内にほのかに漂っている。


「第一、太陽系には資源らしい資源なんて残っていないじゃない」


合理主義を旨とするジークリンデにとって、太陽系などは出がらしに過ぎず、そこに執着する者たちは理解の埒外にある。


「我々とは異なる価値観をお持ちなのでしょう」


アルシドの声は柔らかいが、同情とも軽蔑ともつかぬ冷たさを含んでいた。


「執着、神聖視、権威の象徴。いろいろあるのでしょうね。乳離れ出来ぬ幼子が駄々をこねているようで、見方によっては哀れに思えますよ」


財務卿オットー・ハイゼンベルク侯爵が給仕に何かを言付ける間に、アルシドの駒がジークリンデの駒を捕らえた。

あら、とジークリンデが小さく声を漏らす。

意外そうな声音に促され、アルシドは盤面を見直して自らの失策を悟った。


「初代のご判断は、まことに賢明だったということだろう。太陽系から最も離れた場所をお選びになった」


内務卿フェレンツ・パウリ侯爵が芝居めいた仕草で両腕を広げ、壁にかけられた時計を見上げた。貴族院議会がまもなく始まる。


「戦争をしたい理由があるんじゃないかしら。知ったことではないけれど」


宇宙戦闘は地上戦と本質を異にし、標的は資源衛星や艦隊拠点に限られる。居住惑星の喪失を憂慮せずに済む分、戦火は無機質で、被害は局所的だ。

彼らがどれほど激しく火花を散らそうとも、難民の発生は限定的にとどまるだろう。

地球を象徴とする国家群は今だに地球圏に集い、小惑星帯の巨大ステーションに居を構えている。

日常的に小競り合いが絶えず、死者が出ることもあるというが、彼らにとって死とは、殉教としての名誉を伴うものなのかもしれなかった。

しかし、王国のある恒星系から見れば、それはあまりにも遠い次元の話である。

王国民に影すら落とさぬほど遠い戦争が、国防を担うジークリンデとユルゲンの関心を引くはずもなかった。


「戦争とは、いつの時代も人の業に他なりません。私たちにできることは、せめて愚行を繰り返さぬよう、他山の石とすることくらいでしょう」

「反面教師にしては、遠すぎますね……あ、王手」


ジークリンデが駒をひとつ進めるのとほぼ同時に扉がノックされ、執事服の老人が顔を覗かせた。


「失礼いたします。貴族院議会の準備が整っております」


盤面を見つめていたアルシドが、観念したように両手を上げる。


「降参です。ジークリンデ、随分と腕を上げましたね」

「アルシドが悪手を打っただけです。……実力で勝ったとは言えないわ。悔しいけれど、駒落ちでもしないと歯が立たない」

「ご謙遜を。──さて、参りましょうか。王国の未来のために」


アルシドの言葉に、控室にいた一同が立ち上がる。


首席、法務のルペルティエ侯爵家。

次席、内務のパウリ侯爵家。

三席、軍務のウィトゲンシュタイン侯爵家。

四席、財務のハイゼンベルク侯爵家。

末席、航宙のシュレディンガー辺境伯家。


マホガニー製の重い扉が開き、当主たちは議場へと歩みを進めた。



その日の貴族院議会は、穏やかな空模様とは裏腹に、怒声と罵声が渦巻く修羅場と化していた。

議題は免税特権の廃止――貴族特権の制限に大きく踏み込む法案である。

多くの貴族が猛反発し、議場の秩序は雲散霧消していた。

議長は必死に場を収めようとしたが、その声すら喧噪に掻き消されていく。

ガベルの音にも、誰ひとり耳を貸さなかった。


「猿でももう少し理があろうて」


悠然とマイクを奪い取ったのは、軍務卿ウィトゲンシュタイン侯爵である。

議長が制止に入るも、彼は片手を無造作に振り、議長の制止を一蹴した。


「税金ぐらい払え。国家への最大の貢献ぞ。

けちくさい貴族など、見苦しいだけじゃ。

――金に困っておるのか?それとも惜しいのか?ならば爵位など返上するがよい。

領地の一つも満足に治められぬ者に、高貴の称号など無用だ」


ウィトゲンシュタイン侯にとって、領地からの税収は私腹を肥やすための資金ではなく、国家に還元されるべき当然の義務であった。

実際、彼は領地の税収を一カウリたりとも私的に用いていない。


「五家だからといって、他の貴族に対しあまりにも無礼ではないか!」


叫んだ男の声は上擦り、内容よりも先に臆病が顔を支配していた。

彼の視線は、本能的な恐れからウィトゲンシュタイン侯を避け、 穏やかな微笑を浮かべた財務卿ハイゼンベルク侯爵へと逃げた。

おや、私ですか。構いませんよ――ハイゼンベルク侯は和やかな表情のまま、隣席のジークリンデにのみ届く声で囁いた。


「我々は五家の当主です。法により貴族の最上位と定められております。

下位者が上位者に対し、対等の礼を要求するとは、いささか心得違いではありませんか」


ハイゼンベルク侯爵は、温厚さを損なわぬまま言葉を返した。内容はともかく。


「平民に無礼を受けたならば、どうなさいますか?

我々も、その基準を貴族に適用するまでのこと。

平民であれ、あなた方であれ――我々にとっては、ただの“下位者”に過ぎません」


貴族が平民に求めてきた振る舞いを、五家は貴族に対して求める。

なぜなら、我々は、君たちよりも上位の存在――そう言われてしまえば、誰ひとりとして反駁できる者はいなかった。


思い出してしまったのだ。

貴族として振る舞っていたとしても、本来五家の当主はそれぞれが国王と同格であることを。

対等以上の礼を求めることが許されるのは、国王と他の五家当主のみ。

つまりはただの貴族が国王に対するのと同じ扱いをせよと要求したことになる。

無礼どころか、不敬であった。


「礼儀を知るお方ならば、その模範を我々にお示しください。

――さあ、お手本をどうぞ」


場が静まり返ったのを見計らい、ジークリンデは白手袋をはめた手を、すっと掲げた。

その手袋を、公の場で外すことは決してない。

傷か、義手か――憶測は飛び交えど、誰も真実を知らない。


「議長。私からも一言、述べてよろしいでしょうか」

「航保卿がおっしゃるなら、ぜひに」


議長は彼女の名ではなく、『航保卿』という官職名で応じた。

これは貴族社会における慣例であり、階級序列を示す儀礼的形式である。


「ありがとうございます」


ジークリンデは一礼し、議場に視線を巡らせた。


「五家は代々、免税特権を自発的に放棄してまいりました。

領地の税収を私的に使うこともなく、税率は他領の半分以下――

それでも、経営に困ったことは一度もありません。

では皆さま、なぜお金に困っていらっしゃるのですか?

まさか……領地経営に失策でも?」


言い訳の余地を与えることもなく、言いたいことだけ言って退いた彼女は、もう用は済んだとばかりに、窓の外に広がる曇天へと無言で目を向けた。


こと「税」に関して、ジークリンデ・シュレディンガーに口を挟める者など王国には存在しない。

なにせ、辺境艦隊――航宙保安省所属艦隊は、形式こそ公的機関に属するが、実態は彼女の家に連なる完全な私兵組織である。

全ての艦船には、シュレディンガー家の家紋――猫に扇の意匠が描かれていた。

それは単なる象徴ではない。正真正銘、「私物」である印だ。

艦船も、人員も、維持費も、すべてシュレディンガー家が個人資産で賄っている。

この私有艦隊は「有償貸与」という建前で航宙保安省に提供されているが、実際には家が納める巨額の税と相殺されており、実質的には無償に等しい。

加えて、私物であるからこそ、改修・改装も自由自在。

新兵器の運用実験から戦術試行に至るまで、柔軟な運用を可能としており、その成果は宇宙軍へとフィードバックされている。

財政・軍事両面における王国への貢献は、もはや疑いの余地がない。


他の五家当主たちの反応といえば、法務卿ルペルティエ侯と財務卿ハイゼンベルク侯は肩を震わせてくすくす笑い、内務卿パウリ侯と軍務卿ウィトゲンシュタイン侯は遠慮なく声を上げて笑っていた。

このとき、軍務卿・財務卿・航保卿の三名は、議論の構図そのものを巧みに塗り替えていた。

だが、その変化に気づいた議員はほとんどいなかった。


感情論に訴えて議論を不透明にしたのは、反対派の議員たち自身だったが、五家の当主たちも何食わぬ顔で、しかし容赦なく切り返したのだ。

既得権益にしがみつけば、「ろくに領地も経営できぬ無能者」として扱われ、

感情論にすり替えれば、「下位者としての振る舞いを求められる」――

彼らに残された道は、どちらに進んでも袋小路だった。

さらにジークリンデの問いかけが、議論の土俵を体面の問題へとずらし、 “特権を守る=貧しさの告白”という構図を、聴衆の心にすり込んでいく。

五家当主たちの嗤いが、嘲笑されるべきもの、と感情を誘導する。

加えて、軍務卿からの「爵位返上の勧め」を添えれば、こうなる。

すなわち――


『免税特権を必要とするほどに無能であるならば、その爵位にふさわしくない』


このやり取りの一部始終は、中継を通じて全国民に公開されている。

日頃、自らの発言に責任を取らぬどころかろくに記憶すら出来ぬ面々も、衆目の中での貧困の告白は恥ずかしいと見え、一斉に口を噤んだ。


「というより、面倒なのですよ。爵位も持たぬ自称貴族まで、免税特権を主張なさるのが」


法務卿ルペルティエ侯爵アルシドの声は相変わらず甘やかで投げやりで、彼の感じている退屈さをまるで隠していなかった。


「いっそ、どこまでを『貴族』と見なすか、法に明記しておくべきかもしれませんね。

定義が明確になるのであれば、免税特権自体は、個人的には――ええ、あくまでも私個人としては――存続しても構わないとすら考えています」


アルシドは頬杖をついた。指で空中に家系図をなぞる。


「二親等ですね。せいぜい、孫や兄弟まででしょう。

再従兄弟だの又従兄弟だのに至っては、貴族を自称すること自体がおこがましい。

そんなものまで図々しく特権を求めてくるから、話がややこしくなるのです。

――貴族を騙る“他人”が、特権を欲しがるから」


本来、貴族特権は爵位と直系血縁を根拠とするものである。

しかし、その適用範囲が曖昧なまま放置された結果、「貴族の名を借りて特権のみを享受する者」が大量に発生し、制度そのものの信頼性を蝕んでいるのだ。

アルシドの提言は、明確に制度の濫用を切り捨てた。


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