第一原因
イタカ・ライケ・モシリ王国連邦は、絶対君主制を採る国家である。
現在、王国の政治は、建国五家と総称される四侯爵家および一辺境伯家によって支えられている。
内務・軍務・法務・財務・航宙――五つの領域を各家が専門的に統括し、それ以外の行政機構は、五家以外の諸貴族および王国議会が補完する。この体制は長期にわたり安定を維持してきた。
王政、宮廷、貴族――時代錯誤とも思える制度が、恒星間航行すら日常となった高度技術社会において再び定着していることは、理に背く幻想にも似ていた。
だが、それは科学技術の急速な発展を支えた基盤であり、その代償として生じた歪みであり、さらに言えば、理性と秩序を突き詰めた果ての帰結でもあった。
地球の崩壊が不可避と正式に告知されたのは、今からおよそ四百年前のことだ。
発端は、一人の天文学者による天体の発見であった。
以後、膨大な観測と精密な軌道計算が繰り返され、その天体が、恒星に囚われぬ〈浮遊惑星〉であり、太陽系に向けて、ほぼ直線に近い緩やかな曲線軌道を描いて接近していることが確認された。
かつて所属していた星系から放逐された際に与えられた運動ベクトルが、偶然にも太陽の重力井戸を目指す方向と一致していた。そして航路上に地球が居合わせていたに過ぎない。
確率が天文学的に低かろうと、現実に生起した以上、それは偶然ではなく、必然と呼ぶほかない。
天体は、地球から千五百億キロメートル、すなわち約千天文単位の距離にまで接近した時点で、反射光によって輪郭を現した。観測の結果、招かれざる訪問者は地球よりも大きな岩石惑星であり、仮に衝突を免れたとしても、接近の過程で生じる強大な潮汐力によって地球は構造的な自壊に至るという“予報”が示された。
人類に与えられた猶予期間はおよそ百年。人の身にとっては長いとも短いとも言えるこの時間内に恒星間航行を確立させ、移住先を探し出す、あるいは作り出さねばならなかった。
接近する浮遊惑星の速度は発見時で地球の平均公転速度――およそ秒速三十キロメートル――と同程度。銀河系に対する太陽系の公転速度並であったなら、人類が得られた猶予は百年どころか、わずか二十年に留まる。
そう考えれば、この百年は、破滅の中で与えられた慈悲とすら言えるかもしれない。
初期には、金星や火星を新天地とする構想も持ち上がった。
しかし磁場を欠いたそれらの惑星は、宇宙線や太陽風に無防備に晒される、いわば生命にとって致命的な〈裸の岩〉でしかなかった。
かくして人類は、移住先を地上でも太陽系でもなく、はるか宇宙の彼方に求めるという、歴史上かつてない決断を下したのである。
当時の人類は、ようやく宇宙への扉をこじ開けたばかりだった。
慣性力という物理の枷をわずかに超え、太陽系の資源に手を伸ばし始めた段階に過ぎない。
宇宙船〈地球号〉は、もはや優雅な客船ではいられなかった。
沈みゆく軍艦へと変貌せざるを得ず、乗客も同様に優秀な乗組員たることを求められた。
口先だけの慰めや建前が何の役に立つというのか。嘆願では軌道を変えられない。
人類を地球に縛りつける物理法則に抗うには、国力の総動員と、政治形態の変革が不可欠だった。
存亡の危機においては、責任の擦り付け合いや重箱の隅をつつく論戦など不要どころか害悪でしかない。
必要なのは危機と正面から向き合う力と、誰もが従う強い意志だった。
いくつもの民主主義国家が統合と分裂を繰り返し、ほんの十年のうちに、民意のもとで絶対主義へと鞍替えしていった。
これらの絶対主義体制は、厳密にはメリトクラシー(能力主義)とテクノクラシー(技術官僚制)を組み合わせたものであり、多くの国が王政を復活させ、とりわけ「王国」と名乗る国家が増えていった。
幾度かイデオロギーの衝突はあったものの、「百年以内に恒星間航行を実現する」という共通の目的のもと、紛争は最小限に抑えられた。人命も資源も浪費している場合ではなかったから。
約束の百年後──浮遊惑星の襲来により、地球は自壊した。
地球の崩壊から、すでに三世紀。
人類は恒星系ごとに独自の文化を育み、繁栄を続けている。
地球全体の統一政体は、強力な独裁国家の並立によって実現されなかった。
そもそも、それを積極的に望む者がほとんどいなかったのだ。
領土を奪い合うことにも、掠め取られることにも辟易していた彼らは、初めから別々の天体への移住を選んだ。
こうして、多くの居住可能惑星には一つの国家しか存在しないという、奇妙な構造が生まれた。
国家が併存する惑星は、極めてまれである。
民主主義への回帰を望む者は少なく、現在もなお、多くの国家がメリトクラシーを前提とした体制を採用している。
体制成立の経緯から、当然のように能力主義が為政者にも適用されたためであった。
地球からの移住が完了しても、イタカ・ライケ・モシリ王国連邦は王政を堅持した。
初代・二代の統治者たちが有能かつ使命感に満ちていたことも、王政定着の一因である。
彼らにとって権力とは、人類存続のための手段にすぎなかった。
また、「嫌なら他国へ行けばよい」という明快な図式は、革命的思想が芽吹くにはあまりにも不毛な土壌だった。
命と財産を賭して革命を起こすよりも、隣国へ亡命するほうが遥かに現実的で、安全でもあった。
王国の黎明期は失われた地球への哀惜と開拓の熱気の中で過ぎ去った。
三代目国王アイリング一世の即位から一年後――イタカ・ライケ・モシリ王国連邦は、制限君主制への移行を模索し始めた矢先に、侵攻を受ける。
プエルテ協商である。一国ではなく、複数の国家が集い、協商を結んだ共同体だ。
王国に最も近いチーグル共和国が中心となり、戦列を組んで宣戦布告の一時間後に侵略を開始した。
彼らは政権を守るため、敵を外部に仕立て上げた。
「自由と平等を守るには、王国という悪を討たねばならない」──この言葉は人々の不安を煽り、虚構の英雄像を与えることで、変革なき体制に正当性を装わせた。
こうして始まった“解放戦争”は、侵略者側のあっけない敗北をもって数ヶ月で終焉を迎える。
軍艦を連ね、星をまたいで侵攻してきた敵を、王国は一歩も退かずに迎え撃ち、徹底的に粉砕した。
勝敗は、始めから決していたのかもしれない。
国力に差があったのは当然だが、何より兵の素養には、埋めがたい隔たりがあった。
市民の教育と生活が意図的に抑圧されていた敵国に対し、王国の兵士は一人ひとりが知性、体力、そして誇りを備えていた。
たしかに王国は絶対君主制を採っていたが、体制は、その権威を民衆に対して振るうことなく、支配者の間で均衡を保っていた。
政治の澱を厭わず掬い上げる五つの家門が王家を支え、統治者たちは国民から深く敬愛されていた──侵略者たちとは違って。
王国軍は敵国の首都星にまで進軍し、抵抗らしい抵抗が起こる間もなく、軍事独裁政権の首魁たちを拘束した。
この迅速な制圧は、内応した解放軍との綿密な連携の賜物だった。
同時に、それは「敵国の民も使い捨ての兵器ではない」という、王国側の古風な道義の顕れでもある。
三代国王は、引き出された戦争責任者らを前に、一切の逡巡なく公開処刑を宣告する。
その対象には軍人のみならず、軍需産業を私物化していた財閥の一族、そして長年にわたり癒着と汚職を繰り返してきた政界の重鎮たちも含まれていた。
被告の一部は、自らだけが断罪されるのは理不尽であると訴えた。選び、支えてきた民衆にも等しく責任があるのではないかと。
だが王は、極めて事務的に問いかけた。
お前たちの公約に、軍需産業に対する厚遇の記述はあったのか。公金の私的流用を明記した政策案が存在したのか。
国民に向かって、侵略戦争の開戦を掲げて選挙に臨んだとでも言うつもりか。
誰も答えることはできなかった。
なおも食い下がる者もあった。長年、誠実に職務を果たしてきたのだと、自らの勤勉を盾に弁明を試みる。
王はただ、一言だけを与えた。
まこと、綿密な“準備”だったな――と。
自称民主主義国家は、資源の供出による賠償、戦犯の処分、そして幾つかの内政への介入を条件として、かろうじて国家としての存続を許された。
介入とはいえ、王国の要求は苛烈なものではなかった。政治の自浄機能を強化するための法改正──言い換えれば、腐敗を容認しない制度の再構築が求められただけである。
王国は、プエルテ協商を征服することを選ばなかった。
だが同時に、友好を結ぶことも拒んだ。
停戦条約一つだけが、交わされた。
アイリング一世が、あのような国に同胞も友人も見出す気はないと明言し、王国民の大半もその姿勢に異を唱えなかったからである。
王家を支える五つの家門は、やがて建国五家と呼ばれるようになった。
その名を掲げたのは彼ら自身ではなく、
いつしか人々の口にのぼり、気づけば定着していたにすぎない。
そもそもこの五家は、建国に際し、初代国王と王権を互いに押し付け合った家門である。
その過程については諸説ある。
籤に敗れたとも、賭卓で一手誤ったとも伝えられているが、記録は曖昧で、民間伝承にすぎないとする説も根強い。
いずれにせよ王権を引き受ける羽目になったのが、現在の王家だ。
残された五家は以後、それぞれの専門分野を担い、王家の統治を実務の側面から支えることとなった。
五家はいずれも広大な領地を有し、その権勢は王家と並ぶか、時に凌ぐ。
イタカ・ライケ・モシリ王国連邦が「連邦王国」ではなく「王国連邦」と称される理由も、まさにここにある。
王国とは、王家と五家によって構成された緩やかな連合体に他ならず、王家はあくまでそのうちの一家門に過ぎない。
たまたま国王位を世襲しているだけの代表家門──王家はそう主張している。
イタカ・ライケ・モシリとは、王国を構成したとある単一民族国家における二つ目の民族の言葉で『美しき我が大地』という意味である。
王家と五家のじゃれ合いはさておき、協商との戦争で王国が失ったものは大きかった。戦没者の命、そして制限君主制への道である。
民のあいだに根づいた愛国心は、そのまま三代国王への絶対的な忠誠へと転化し、王室への敬意と崇拝の念は、かつてないほど高まっていった。
絶対主義からの脱却を掲げた改革派に対し、王国全土で激しい反発が巻き起こった。「敬愛する陛下の権限を、腐敗した議会が奪おうとしている」と憤る群衆が議場に押しかけ、事態は暴動へと発展した。
騒乱を鎮めるべく、国王は自ら姿を現し、国民投票の実施を宣言した。
民意に委ねたことで、混乱はようやく収束を見た。
だがその投票結果は、圧倒的多数による『否』──王政維持を望む声だった。
「完全に民主的な手続きによって、絶対君主制が支持される」という皮肉な事態に、国王も五家当主たちも、そして王国議会も困惑した。
だが、この期に及んでは憲法改正を断念するほかない。
選挙制度は確立され、国民投票すら定期的に実施されている。
制度上の「民主主義」は、すでに整備されていた。
にもかかわらず、民は完全な民主政治への移行を避けた。
敵国における制度の腐敗と混迷を記憶しており、同じ轍を踏むことを本能的に忌避したのである。
そもそも、なぜ体制を変革せねばならぬのか。
王国民の疑問に明確な解答を提示できる者はいなかった。
彼らにとって、王と五家による統治は清廉さを保ち得る唯一の手段であり、堅牢な秩序の象徴でもあった。
以後、王位継承のたびに国民投票が行われてきたが、絶対君主制の廃止が可決されたことは一度としてない。
かくして王政は存続し続け、十六代に至る今日においても、王国は法の上において絶対君主制を維持する国家として在り続けている。