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マクスウェルの青春の夢

空を飛びたい。

風になりたい。

鳥のように、翼を広げて――どこまでも。


空を飛ぶこと。それは、いつの時代も人類の願いだった。

文字すら存在しなかった太古から、空への憧れだけは、確かに受け継がれてきたのだ。


神話や伝説に登場する神々や精霊たちは、鳥となり、獣となり、風を巻き起こして空を駆けた。それが幻想であれ、寓話であれ、「飛ぶ」という行為に、人はつねに特別な意味を託してきた。


だが――空は本当に自由なのだろうか。

鳥でさえ、風向きや気圧、天候や体力に縛られて飛ぶ。

飛行機も、宇宙船も、あらゆる制限と計算の上でしか飛べない。


自由な飛行など、きっと最初から存在しなかった。

それでも人は、空を目指す。

その先にある星々へと、手を伸ばして。




自由と飛行は、きっと似ている。


ナイジェル・マクスウェルが、そう思った最初の記憶は――

父に手を引かれ、初めて宇宙港を訪れた日のことだった。

大きなお腹の母にわがままを言った彼を、久しぶりの休暇で帰宅していた父が外へ連れ出してくれたのだ。

展望デッキから、離発着する貨客船や飛行機を眺めながら、父は言った。


「たくさんの約束事を守って、ようやく飛び立てるんだよ」


整然と並ぶランプや滑走路。誘導灯が瞬き、管制塔が機体を次々に呼び出していく。

まるで滑り台の順番待ちをする子どもたちのように、すべての航空機が規則正しく、空への道筋を待っていた。


「そのルールは、飛行機でも宇宙船でも、大勢を乗せる旅客機でも、一人乗りの小型艇でも変わらない。飛ぶってことは、実はたくさんの決まりに従ってるんだ」


父はふと口をつぐみ、広大な宇宙港を見渡した。

遠くで、飛び去った機体のエンジン音がかすかに響いた。


「自由っていうのは、何でもできることじゃない。選ぶことなんだよ」

「じゃあ、あの飛行機たちは、みんな不自由なの?」


ナイジェルは、滑走路の先に広がる空と海の境界に目を凝らした。

不自由とは、彼にとって籠の鳥であり、水槽の魚だった。


「飛ぶことを、自分で選んだから、自由なんだよ」


十に満たぬナイジェルのために、わかる言葉を選んでくれていたのだろう。

けれど、父の言葉は、遠くに浮かぶ雲の形よりも、なお捉えどころのないものだった。

それよりも、窓の向こうに広がる光景のほうが、ずっと鮮やかだった。

蒼穹に描かれる飛行機雲。蒼溟を飛沫で切り裂く宇宙船。

ナイジェルは、その光景にただ見入っていた。

けれど、うっすらとは分かった。

自由とは、わがまま放題とは正反対のものだ。

だから、自由と飛行は、きっと似ている。


ナイジェルは、小さな手を空に伸ばした。鮮やかな憧憬と共に。


「ぼくも飛ぶよ」


幼い宣誓に応えたのは、傍らで微笑む父だった。


――ああ。きっと、いつか。

自分も、あの空へ向かって飛び立つ日が来る。




それから六年の時が過ぎた――。

キッチンから漂うベーコンの香りが、ナイジェルを目覚めさせた。

今日から中等学校。旧友も校舎も同じだけど、それでも、ほんの少し気が引き締まる。


「おはよう、ナイジェル。カティを起こして、着替えさせてくれる?」

「今行くよ、母さん」


宇宙船が主に海上から離発着するからなのか、宇宙船を操る者は航宙士とか操縦士ではなく、航海士と呼ばれる。

父は宇宙船の航海士だった。

カティが生まれた翌年、父は事故で消息を絶った。

ワープ航法中に重力異常領域に迷い込んだのではないかと、航宙保安官たちは推測した。残骸は発見されず、事故の原因は今も不明のままだ。遺体も、とうとう戻ってこなかった。


カティにとって、父は顔も知らぬ存在だ。

彼女が父を求めたことは一度もない。

何度か父を恋しがって泣いた兄の姿から、何かを悟ったのかもしれない。

近所でも評判の利発な子だ。小さな肩に、どれだけの気遣いを載せていたのだろう。

妹は、ずっとしっかりしていた。


母もまた、夫の話題を避けるようになった。

笑顔の絶えなかった母が、食卓で言葉少なになり、スプーンを止める時間が増えた。


あの頃の自分は、母の寂しさを埋めたくて、がむしゃらだった。

父の代わりに家族を守るのだと、勉強も運動も懸命に励んだ。

強くなりたくて、早く大人に追いつきたくて――気づけば、周りからは「優等生」と呼ばれていた。



けれど、今の母はもう違う。

カティが大きくなるにつれ、母も明るさを取り戻し、いまや二人の子どもを誇らしげに語るまでになっていた。

時間にしか癒せぬ傷もある。


「ナイジェル? 早くカティを起こしてあげて!」

「あ、うん。ごめん」


ナイジェルは、慌てて隣室のドアを開けた。

ブランケットを蹴飛ばし、ベッドの隅で丸まっている妹。

ふわりと広がる黒髪、パジャマの裾からのぞく白いお腹。愛らしい眠り姫――と呼ぶにはいささか元気すぎた。


「カティ、時間だよ」


……返ってくるのは、小さな寝息だけ。

ナイジェルが肩に触れると、カティは顔を枕に埋め、ふるふると首を振った。


カティが年相応の聞き分けのなさを発揮するのは、朝のこの時間くらいだ。

甘やかしたい気持ちは山々だが、なかなか悩ましい。


もう少しこの可愛い抵抗を味わっていたい気持ちと、起こさねばという義務感とのせめぎ合い。毎朝のこの葛藤も――まあ、悪くはない。

悪くはないのだが、残念なことに時間も迫っている。

カティの大好きなママのパンケーキも冷めてしまう。

ナイジェルは、とっておきの呪文を唱えた。


「カティー! 議会中継、始まるよ!」


あの英雄の姿をリアルタイムで見られる、たったひとつの時間。

録画でもいいのに、カティはどうしても「今」を見たがった。


「……むにゃ……。おうこくぎかい……」


ほんの少しの間を置いて、閉じていた目蓋がぱちりと開いた。

大きな青い瞳が兄を捉える。一気に覚醒したらしい。


「おにいちゃん! はやく!」


弾けるように身を起こしたカティは、兄の手を取って強く引っ張った。


「慌てなくても大丈夫。ほら、まずは着替えよう」

「じゃあ手伝って!」


兄妹の騒がしいやりとりに、リビングからは母親の笑い声が聞こえてきた。

カティが朝の支度を済ませると、テーブルにはママ特製のパンケーキが湯気を立てて並んでいた。

その向こうで、壁のホロディスプレイには俯瞰視点からの議場が映っている。

ナイジェルとカティの分にはバターと蜂蜜。大人である母の皿には、ジャムとメープルシロップだ。

兄妹が椅子に駆け寄ると、ちょうど中継が始まった。

ナイジェルたちが住む惑星ストライサンドは首都星と自転周期が異なるため、中継の時間帯はまちまちだ。早朝だったり、夜更けだったりする。

ネネヤキルラ公爵領では、国営放送こそが唯一、心おきなく観られる番組だった。

母曰く――王様から国民への大事なお知らせだから、公爵さまのわがままで邪魔できないのよ――とのことだ。

他局では、公爵の機嫌を損ねれば即打ち切り。

母の好きだった番組も、途中で画面が真っ暗になったきり、続きは二度と見られなかった。

理由はわからない。母は「また公爵さまの“おかげ”ね」と諦めた顔で、すぐにテレビを消してしまった。

そんな公爵領において議会中継とは、勧善懲悪の痛快ドラマでもあり、知的バラエティでもあった。


人語を話せ。伝わらぬ美辞麗句は鶏の鳴き声以下だ――ナイジェルが好きな英雄の言葉の一つだ。

子供にも判るほどに中身が無く、大声で何度も繰り返し、他の発言の邪魔をする――

反っくり返って顎を引いた姿勢も相まって、指摘されていた議員は朝の雄鶏にそっくりだった。


「ママ、おはよう!」

「おはよう、カティ。ちょうど五家の当主さま方が入場されたところよ」


テーブルからよく見える壁面に浮かび上がったホロディスプレイには、王国貴族の頂点――五家の当主たちが、順に映し出されていく。

首席の法務卿ルペルティエ侯爵を先頭に、次席の内務卿パウリ侯爵、三席の軍務卿ウィトゲンシュタイン侯爵、四席の財務卿ハイゼンベルク侯爵。

最後に五家末席の航保卿デッカー・シュレディンガー辺境伯が大写しになると、ナイジェルたちは深く頭を下げた。


体の弱い母一人が幼い子を二人抱えて暮らしてゆけたのは、ひとえに彼のおかげだった。

当時、遺体も残骸も痕跡も見つからぬ事故では、保険も年金もすぐには下りなかった。

正規航路を辿ってさえいれば、手がかりが無いなどということはあり得ないとされていたから。

だが、航保卿は立て替えという形で支援してくれたのだ。

保険が下りたら返してくれればよい。生きて戻ったなら、そのときは祝い金としてくれてやれ――。

もちろん法に則った手続きではなかった。

だがシュレディンガー家の私財から出すのに何の文句があるのかと、航保卿は法改正の臨時議会で啖呵を切った。

現在では亡命や詐欺の可能性が低ければ、即座に審査が下りるよう法が改められている。


「今日もお元気そうで、よかったわ。控えていらっしゃるのはお孫さまかしら」


70歳近い老貴族は、若い頃にはさぞ眉目秀麗だったに違いない。

今もなお清秀とした美しさを保ち、威厳は少しも揺らいでいなかった。

母が指した先には、航保卿に付き従って歩く若い女性が一人。

長い銀髪が歩みに合わせて揺れる様は、水面の波紋にも似た風情である。

年の頃は十代後半、航保卿の面影が確かにある。絶世の美女といってよいだろう。

だが彼女から漂うのは、凍えた静謐さだった。華よりも刃の印象が優る。

空色の瞳に宿る意志の光は、どこまでも冷たく、それでいて、炎の烈しさを秘めていた。


「お名前は……確かジークリンデさまだったかしら」


母が記憶の中から、その人の名を探り当てた。

シュレディンガー卿の孫娘にして、次期当主。

昨年、五家首席のルペルティエ家を継いだアルシド・ルペルティエ法務卿と共に、天才の名を恣にしている。

法務卿同様に、王立大学を飛び級で卒業したとニュースキャスターが興奮混じりに伝えたのは、先週のことだった。

航宙保安省大臣を継ぐのに、なぜ経済学部なのか。

凡人には理解できない天才の所以――解説者のそんなコメントを、ナイジェルは聞いた覚えがあった。


「援助金の支給を進言なさったのが、実はジークリンデさまだって……本当なのかな」


航宙保安省とは、簡潔に言えば宇宙警察に相当する組織だ。本来、福利厚生は所掌外のはずだった。

にも関わらず、デッカー・シュレディンガー航保卿は私財を投じて法改正まで繋ぎの支援策を作り上げたのである。

しかもそれを立案したのが、当時12歳になるかどうかの少女だったというのだから、にわかには信じがたい。

さらには宇宙船乗員の福利厚生に関する政策が、ここ数年で急速に改善されていた。

それらを一手に牽引したのが、彼女なのだという。


「ハイゼンベルク侯爵さまが面白おかしく話していらしたわね。航保卿の孫娘が執務室まで怒鳴り込んできた、と」


貴族院で牛歩戦術や議場の混乱で審議が止まった際、オットー・ハイゼンベルク財務卿は、その様子を背景にして五家の裏話や政治家秘話を軽妙に語り、時に鋭く批判することで知られている。

議会中継屈指の人気コーナーだった。

往生際の悪い牛歩戦術に付き合わされる側の議員にとっては、迷惑千万だろうが。


「あんなきれいなおひめさまが怒鳴るの?」


カティはパンケーキを頬張りながら不思議そうに首を傾げた。


「お姫様といっても、二大武門の一つ、シュレディンガー辺境伯家のご令嬢よ。おとなしくはないわね」


そんな話をしている間に、画面の中でシュレディンガー航保卿がジークリンデを連れて登壇した。

辺境伯家当主として挨拶の時間を与えられたのだろう。

航保卿は軽く咳払いすると議場を見渡し、朗々とした声を響かせる。


『諸君』


議場全体を張り詰めた静寂が支配した。

航保卿の一挙手一投足に、全員が注目しているのが分かった。


『儂は一年後に隠居し、シュレディンガー家当主の座をジークリンデに譲る。知る者もあろうが、既に当主の職務の大半はこやつが担っておる』


ざわりと議場の空気がとまどいで揺れる。


『故に、ジークリンデから直接、諸君に伝えておきたいことがある』


航保卿が一歩下がり、ジークリンデに場を譲った。


五家の当主が代替わりする際には、王国民に向けて必ず新当主が宣誓を行うことになっている。

宣誓内容に決まりはない。

慣例として国政に関する方針を述べるものとされているが、先代までのそれを踏襲したり、あるいは大きく異なる思想を示したり、さまざまな形式があった。


壇上に立つ彼女の顔に、緊張の色はなかった。

十三歳の初陣以来、辺境艦隊を率い、いくつもの犯罪集団を壊滅させた――それが事実であれば、この程度の注視など取るに足らぬのだろう。

ジークリンデの淡い桜の唇がゆるやかに動いた。

『皆さま方には初にお目にかかります。辺境伯デッカー・シュレディンガーの孫娘、ジークリンデです』

澄み切っていながら、芯のある声。

その一言で、あの声が戦場を制するのだと知れた。

議場のざわめきが収まる。


『我がシュレディンガーが担うは航宙と王国民の平和と安寧である。

与えられた権能に基づき、法の名の下、万民を等しく取り扱う所存――つまりは』


ジークリンデは手にした扇を掌に打ち鳴らした。

議場を包む凍てつくような静けさは、貴族たちの恐れと警戒心が作り出した結晶そのものであった。

腰に帯びた軍刀は、若くして積み上げた実績と、国王からの揺るぎない信頼の証だ。

議場の中に帯剣を許された者は、ほとんどいない。五家当主と、他数人。


(……なんて強い人なんだろう……)


ナイジェルは、画面の中で堂々と立つ彼女の姿に釘付けになった。


『王国と王国民に仇為す者は、全て我が敵である。

貴賤も種族も問わぬ。

皆さま方の潔白を疑うつもりはないが、王国の法に、“貴族だけは例外”などという文言はない。

くれぐれも、お忘れなきよう、お願い申し上げる』


身中の虫とならば容赦せぬ。守護者としての通告だった。


ナイジェルの胸にあった漠然とした憧れが、確かな意志へと形を変えていった。

「宇宙を目指す」――その決意がナイジェルの中に芽吹いた瞬間だった。


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