鹿島立ち
冷たく長い夜は、しかしあっけなく明けていった。
丑満時に振り始めた雪は朝を迎えても止まず、降り積もった白い結晶が音を吸い込み、聖ブランダン宮殿には憂鬱なほどの森閑が満ちていた。
朝七時。第一側室カリーナと第二王子ベオルトウィンの死亡が、典医と近衛兵によって確認された。
二人の死は服毒によるものと見られた。
ベオルトウィンは、王弟に刺された傷が手当の甲斐なく悪化し死亡したと発表され、国民は勇敢な第二王子の死を悼んだ。
一方、第一側室カリーナの死因は心臓発作とされた。
王族の死因として心臓発作はありがちな言い訳であり、自裁の代名詞とさえ言われていた。
祖父の反逆の罪を背負うべく、第一王女イーディスは自ら臣籍を離れることを決意する。
辺境の地で、彼女はひたすらに犠牲者の冥福を祈る道を選んだのだ。
この発表の直前に執行された、王弟と公爵たちの見苦しい公開処刑。
彼らの醜態との対比によって、悲劇的な美しさはより鮮烈に際立った。
イーディスの崇高な決断に民は涙し、その誠心を深く称えた。
国葬の翌日――
第一王女イーディスが戦艦〈ローレライ〉に乗って旅立つ日、マイヒ・メル宇宙港は別れを惜しむ多くの民衆で溢れた。
彼女の出立が王室専用の聖ブランダン宇宙港からでなかったのは、市民が見送りやすいようにとの王室の配慮によるものだった。
「お父さま、王妃さま、エド兄さま、ミルティーユさま、エセルレッドさま、フィオナさま。
どうか、いつまでもお健やかであられますように」
涙をこらえ、イーディスは誇り高く毅然とした振る舞いを崩さなかった。
〈ローレライ〉の貴賓室――王家の者だけで惜別のひとときを過ごす場に、ジークリンデは一人の青年を伴って現れた。
「さあ、ご挨拶なさい。本日より私の秘書官のひとりとなった、カナギです」
髪の色も髪型も変わっていたが、その顔立ちは紛れもなくベオルトウィン第二王子のものであった。
彼はジークリンデの言葉に従い、恭しく頭を下げる。
「べオルト・カナギと申します。辺境伯に仕官いたしました」
「ベオルト……?」
国王セオルリック二世の目が大きく見開かれた。
「私はしばらく席を外します。カナギ秘書官、後は任せましたよ」
そう言い残し、ジークリンデは部屋を辞した。
「ベオ兄さま……」
エセルレッドが震える声で、その顔を見上げた。
「死んだのだ。第二王子ベオルトウィンは死んだ。
私は、ベオルトだ」
「嘘つき。兄さまは嘘つきだ。いつも嘘ばかりついて……だから罰が当たったんだ」
「……そうだな。私は嘘つきだ」
ベオルトウィンは悲しげに笑い、視線をエドウォルドへ移した。
「兄上……もう一度だけ、兄上と語らいたいと辺境伯に願ったのです」
彼はエドウォルドの両手を握りしめ、その手を額に押し当てた。
「ベオルトウィン、よくぞ……生きていてくれた」
「兄上は、私の死を悼んでくださった……。それだけで、私は……」
言葉は嗚咽に塞がれた。
「私の罪は深い。陛下を欺き、王位簒奪を企んだ大逆の徒。許される道はない。
せめて辺境伯のもとで命を削り、贖いに励む覚悟です」
「ベオルトウィン……」
「兄上、どうかいつまでもお健やかに」
兄弟は抱き合い、互いの背を力強く叩いた。
やがて第一王子エドウォルドは弟を解き放ち、涙を拭った。
「ベオルトウィン、達者でな」
「兄上も」
ベオルトウィンは微笑んだ。その笑みには、寂寥と清々しさが同居していた。
王妃の視線を感じ、彼はひざまずいて母へ向き直る。
「ベオルトウィン」
王妃は嗚咽とともにその身を抱きしめた。
「命尽きるその日まで、母上のご慶福を祈念し奉る」
涙は止めようもなく流れた。
喪ったはずの息子が目の前にいる。
もう会えぬと思っていた彼が、ここにいる。
だが彼は、もはや王子でも息子でもない。
再会の喜びと別離の痛みがないまぜとなり、王妃の胸を揺さぶった。
刻は迫る。
ベオルトウィンは母の腕をそっと離れ、立ち上がった。
父王へ深く頭を垂れる。
「これにて、失礼いたします」
涙を拭い、踵を返すと、彼は静かに部屋を去った。
そろそろ頃合いかと戻ったジークリンデは、貴賓室の前で足を止めた。
中へ入る勇気が出ず、傍らのムラサメに小声で囁く。
「どうしましょう……。
秘書官としてこき使いますから、会おうと思えば会えますよ――なんて、とても言える雰囲気じゃありません」
ベオルトウィンの死の偽装、その後の搬出にはかなりの金がかかっている。
必ず元は取る。ジークリンデは固く心に決めていた。
「いやぁ……これは暫く放置しましょう。陛下や王妃様のお気持ちもありますし」
ムラサメが囁き返す。
「ですよねぇ……」
二人は足音を忍ばせ、貴賓室を離れた。
やがて艦橋にたどり着くと、仁王立ちしたフレミングが待ち構えていた。
「今回の仕掛けは、これか」
何故ばれた?とジークリンデは怯む。
その疑問が言葉になる前に、ムラサメがあっさりと答えを示した。
「搬出の方を手伝っていただいたので。
全く、閣下が急に一つ増やすからどうしたものかと」
「他の人に頼みなさい!!
どうしてフレミング少将に手伝わせてるんですかー!」
「運搬要員ですね。棺桶は重いので」
「ああ。体力には自信がある」
ジークリンデはじりじりと後ずさり、反転して艦橋から逃げ出そうとした。
だが首根っこを掴まれ、あっけなく阻まれる。
「後で死ぬほど後悔するのは嫌なんです!悲劇なんかくそくらえです!」
「子供かお前は!」
フレミングの怒声にも臆することなく、ジークリンデはまっすぐに彼の目を見返した。
「国民には恩赦があります。
でも王族は?誰が赦してくれるんですか?
毎日毎日、国民にこき使われて!
五家は全員が王なんです。だから私が、王家に恩赦を出した!
何か文句がありますか?」
フレミングの顔に、一瞬だけ困惑が走った。
反論というよりは、あまりに悲痛な叫びだった。
赦しを求められるのに、与えられることは無い理不尽は、彼女を含めた五家当主にも等しく刻まれていた。
「五家の傲慢です!諦めてください!」
確かに、それは傲慢極まりない。
だがジークリンデはウィトゲンシュタイン侯の提案を利用し、なおも横車を押し通した。
フレミングは思う。
これほど優しく、これほど悲しい傲慢を、ほかに知らぬと。
「俺は咎めているわけでは無い。なぜ――」
「あら、あまり叱らないであげてくださいね」
声の主に振り向くと、秘書官の装いをしたカリーナが立っていた。
元・第一側室の彼女は、イーディスの手を引いている。
青く染めた髪は短く切りそろえられ、地味な色合いのスーツに身を包んでいた。
かつての執着の影は微塵もなく、まるで別人のように穏やかな面持ちであった。
目を赤くしたままのベオルトウィンもまた、苦笑を浮かべて寄り添っていた。
ジークリンデは昨夜、イーディスの元を辞した後、もう一度カリーナの貴人牢を訪っていた。
そして滾々と説いたのだ。
三股男(国王)のどこがいいのかと。
付き従っていたムラサメが、うっかり吹き出しそうになるほどに、けちょんけちょんに国王をこき下ろした。
――本当に今のままでいいんですか?
『愛してやれなくて、済まぬ……』なんて、絶対自己陶酔のネタにされますよ?
こう、ウィスキーを片手にため息なんかついて。
きっと、意識していい感じに俯くんです。わぁ、気持ち悪……。
ちょっと顔がいいだけのくせに。
私なら、絶対絶対、あんな男なんかいらないです。見てくださいこの鳥肌――
罵詈雑言の奔流は、ものの見事にカリーナの恋心を消し飛ばした。
恋を消して愛も消して、残ったのは冷静な判断力であった。
ジークリンデの罵倒はどれもいちいち的確で、カリーナは段々可笑しくなってきて、しまいには笑いすぎて息ができなくなってしまったほどだ。
呼吸困難になるほど笑うなど人生初の体験だった。
国王に愛してもらうことを諦めたというよりは、もういらないと思ってしまった。
恋心が消えたことを恋が醒めたと表現するのなら、まさにカリーナは恋に冷めていた。
『今更詮無きことですが、もっと早く貴女に出会いたかったわ』
自裁を決意したカリーナに、ジークリンデは軽い口調で問いかける。
――母として、生き直してみる気はありますか。
『死んだ』ことにしてイーディスの世話係となる提案であった。
腹を痛めて産んだ娘ではあったが、愛する人の子ではなかったから、愛情を注いで育てたとは言い難かった。
しかし心からカリーナを愛してくれたのはイーディスだけであった。
贖罪にもならないだろうけれど、母親として娘と共に生きてみたい。
カリーナはそう願い、ジークリンデはそれに応えた。
「いやぁ、カリーナ様の搬出が急に追加されたせいで、人手が足らなくなったんですよねー」
だからその辺にいたフレミングに頼んだ、とムラサメがしれっと言い放つ。
ジークリンデはがっくりと項垂れるしかなかった。
「さあ、フレミング少将。さっさと自艦にお戻りください。
そろそろ出立です。護衛艦隊指揮の仕事が待っていますよ」
にこやかに退出を促すムラサメに、フレミングは一瞬だけ逡巡した。
だが振り返り、ジークリンデに短く言い放つ。
「最初から俺に相談しろ」
フレミングが気に入らぬのは、部外者扱いされたことだった。
自分ばかりが信を置いているようで、むかっ腹が立ったのだ。
その一言にジークリンデの瞳がわずかに揺らぐ。
空色の揺らぎを確と見て取ったフレミングは満足げに踵を返し、〈モントブレチア〉へと去っていった。
「貴女様にはお世話になりました。本当に感謝しております」
「私からも、お礼申し上げます」
カリーナとイーディスの母子は、深々と頭を垂れてジークリンデに礼を尽くした。
「働かざる者食うべからず。よろしいですね?――ばりばり働いていただきますから、お覚悟を」
どうせ監視が必要なら、閉じ込めておくより連れ回す方が無駄がない。
優秀な人材を籠の鳥にするくらいなら、手縄を付けて使役する方が遥かに有用である。
そしてイーディスに常時見張りをつけるならば、カリーナ以上の適任者はいない。
よってこれが最適解となる。
Q.E.D.
だから――五家の傲慢を、甘受せよ。
声高に放たれた宣言に、ベオルトウィン――いまはベオルト・カナギは、つい笑みをこぼす。
そこに、絶望の影はなかった。
「他人事ではありませんよ。
べオルトには近い将来、何かの事業を任せるつもりです。
社長は王のようなもの。小さく貧しい国にするか、大きく豊かな国にするかは、才覚次第ですね。
大きな企業になれば、参内も叶いましょう」
挑発するような言葉を選んだジークリンデだったが、彼女の思惑とは裏腹に、べオルトの胸には希望の火が宿った。
希望と気力が彼の頬を紅潮させていく様子に、ジークリンデは眉間に皺を寄せた。
「何を浮かれているんですか。
自力で王宮まで会いに行け、と申しております。
ベオルト・カナギ秘書官、理解しましたか?
今生の別れなんぞお呼びではございません」
「……わかりました。がんばります」
ベオルトは心から頭を下げた。
これまで嫌悪し、屈辱と感じてきたその動作が、今はなぜだか心地よい。
誇らしささえ胸に満ちた。
「皆……また会おう」
彼だけの王国を手に、必ずここに帰って来る――
それはたった一人で見上げる遠い星を、いつの日か手にするための誓いであった。