序 まつほの浦の夕なぎに
数字表記は漢字がいいのかアラビア数字がいいのか
陽は海平線に沈みゆき、光は入江の水面をゆるゆると渡りて、黄金の道をなす。
静かに打ち寄す波に、濡れたる砂は銀箔のごとく輝きぬ。
潮騒、四方を満たし、岬の彼方に黒ずみ渡る影、まさに古の城郭にも似けむ。
岩に映りし――
「何なのそれは」
呆れた声とともに、ジークリンデは足元の黒い狐を抱き上げた。
鏡のような銀髪には、空の青紫がかすかに映っていた。
「今、俺様たちの間で文豪ごっこが流行ってるんでぃ」
「文語?文豪?まーた妙なことを始めて……」
呆れた声に溜息を添えて、彼女は狐を抱いたまま歩き出す。
「なぁご当主よぅ。ご当主は一体誰を待っていなさるん?」
問われてもまるで心当たりがなかった彼女は、ふと足を止め、首を傾げた。
「言葉の意味はわかるけれど、意味がわからないというのは……こういう時に使う表現なのね」
緊急性のある問いでもなければ、関心事でもない。
あっという間に頭から追いやり、毛皮に頬を寄せた。
しばし感触を楽しんだ後――
「太った?」
耳をぴたりと立てた狐の尻尾が左右に振られる。
「……」
沈黙は時に雄弁だ。
あまり追求しても哀れであろうと、代わりに柔らかな毛並みを撫で付けた。
「私は誰も、何も待ってはいません。用があるならこちらから出向きます。
私はせっかちだから、待つことは嫌いなの。知っているでしょう?」
入り江にはただ日没を眺めるために足を運んだだけで、深い意味は無かった。
十八才で当主を継いでからというもの、艦隊の再編やら新たな企業の設立やらで忙しなく、やっと一息つけるほどの余裕ができた頃には二十二才になっていた。
「ご当主、ご当主、大変でさぁ!大事件をご注進申し上げる!ほんとうに、大変なんでさぁ!」
慌てた声と共に銀色の毛並みを持つ狐が海面を割って姿を現した。
全身ずぶ濡れのまま、海藻をまとわりつかせて甲高い声とともに跳ね回る。
周囲の静寂をものの見事に引き裂きながら、勢いのままに水滴を撒き散らす。
やがて、動作の締めくくりとして、体を一度大きく震わせた。
海水が放射状に飛び散り、湿気を含んだ潮風が空気を鈍く変質させる。
「ご当主!」
「通信を使いなさいな。機器は渡してあるでしょうに」
ジークリンデは、軍服の上からでも感じる潮の粘り気に顔をしかめた。この星の海水は生理的食塩水とほぼ同じ塩分濃度で、含有成分に有害物質は含まれていない。しかし、不快感がないわけではなかった。
「――と――がまた密航して帰ってきたんでさぁ!得意顔でおやつをかっ喰らっていやがる!
ご当主に報告せにゃと思った次第で。ああ、いけねぇ、ご当主には“名前”が聞き取れないんでした!」
狐のような彼らの固有名詞は、人の耳に音として届かない。
「また、って……?ねぇ、ハハキギ。
あなたたちに見張ってもらっていて、それでも再犯を許すとは……説明なさい」
ハハキギと呼ばれた黒狐は、露骨に目を逸らした。気まずさを隠す素振りすらない。
「子狐どもは、ちょっとした隙を見つければすぐに宇宙へ飛び出してしまいやす。
監視網を敷こうにも、人手が足りやせん。
……それに、船がでかすぎるんでさぁ」
上目遣いでハハキギが一瞥を送ったのは、つい先ほど自らが「古い城塞」と喩えた巨影──全長八百メートルの宇宙戦艦〈ローレライ〉だった。
「舷門以外に侵入口はありません。宇宙船ですからね。見張りがさぼっていたと正直におっしゃい」
「へぇ……まったくその通りでござんす」
「さぼった者には罰として、十日間おやつ抜き。
他の子たちには、次からは抜かりなきよう伝えておいて。
どうせ昼寝の隙を突かれたんでしょう」
「へぇっ、合点承知の助!」
ジークリンデ・シュレディンガー辺境伯は抱えていたハハキギを砂の上に降ろすと、くるりと踵を返し、停泊中の〈ローレライ〉に向かって歩み始めた。




