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リフレクション

作者: カワチ

 真っ白な部屋に差し込む暖かな光。床に浮かび上がるのは、二人の大小の影。

「これ、龍くんが書いたの?」

 病室のベッドで細い体を起こした女性が、ノートを開いている。そこに書かれていたのは、少年と猫の旅の物語。  

 女性が驚いたように目前の少年に尋ねる。

 幼さを残した少年は、力強く何度も頷く。

「お母さんが元気になれるように、書いたんだ」

 少年のまっすぐな言葉を聞いた女性は、再びノートに記された拙い文字を目で追う。

「どうかな?」

 少年が顔を曇らせる。

 女性は少年の頭を優しく撫でる。

「ありがとう。お母さん、元気になったよ」

 女性のその言葉に、少年は太陽の笑顔を浮かべた。

 女性はノートを閉じると、少年に返す。

「続きを書いたら、また見せてね」

 女性の言葉に少年は力強く頷いた。





 ーーメールなし。

 大学のベンチに座りながら、立石龍之介は携帯画面を見つめる。

 ここ数日、何度も見ているその文面を恨めしく眺めつつも、長い溜息を吐く。

「……今回も、か」

 落胆した気持ちを乗せたその言葉は、周囲の雑音にかき消された。

 ずっと見てても仕方ないので、携帯で時間を確認する。友人との待ち合わせ時間から、三十分は過ぎていた。

 いつも待ち合わせ時間に来ない友人に呆れつつも、ふと周囲を見渡す。

 真っ白な机と椅子が等間隔で並んでいる。その椅子に座っているのは学生達で、今日で大学が休みに入るからか、楽しげに喋っている。他にもお盆の上にある大盛りのカツ丼と格闘している学生も、まばらにいた。

 そんな和気あいあいな雰囲気の大学の食堂で、ぽつんと寂しく座っているのは龍之介ただ一人だけ。

 ーーこんなことなら、さっさと帰って次のコンクールのために小説を書けばよかった。

 そう思いながら、昨日の残り物を詰めただけの弁当箱をカバンの中から取り出す。

「こっちにいたのね」

 聞き慣れた声に、龍之介は振り返る。

 均整のとれた体型。女性にしては少し身長が高い。男性にしては小柄な龍之介とほとんど目線の高さが同じだったはずだ。そのせいで、からかってきたのでよく覚えている。

 端正な顔立ち。龍之介は見慣れているので思わないが、大学一の美少女との噂を聞くほどの美貌。

 中学からの友人である毒島寧々子は、茶色の長い髪をなびかせながら歩いてきた。遅れているはずなのに堂々とする彼女に、呆れを通り越して尊敬の念すら覚える。

「遅れといて、何か一声はないのかよ?」

 龍之介の言葉を聞いても、彼女は不思議そうに首をかしげるだけだった。

「あんたが間違えたのが悪いんでしょ? ちゃんと2号館の方って言ってよ」

「……まさか、6号館の食堂に行ったのか?」

「だって、食堂って言ってたじゃない」

 こいつは記憶喪失にでもなってるのかと疑いたくなる。

「お前がその前の授業が2号館であるから、こっちに来たんだろうが」

「何言ってんのよ。あたしはちゃんと6号館の授業だってーー」

 何かに気づいたように慌てて携帯の画面を確認する。

「たしかに、2号館って送ってる……でもでも、普通ちょっと遅れてたら電話とかするもんでしょ。なんで、私が文句をーー」

「わかったわかった。もういいから」

 これ以上話すと余計に遅くなりそうなので、強引に遮る。

「それで、貸してた小説は?」

「あるわよ。もちろん」

 寧々子が、肩にかけたカバンの中からブックカバーに覆われた小説を取り出す。

 龍之介が受け取った後、本の中身をパラパラと確認する。

「今度は折り目とかはついてないな」

「いちいち、うるさいのよ。あんたは」

 寧々子の悪態を無視して、龍之介が小説を自分のカバンに入れる。

 龍之介は机に置いてある弁当箱をやっと開けると、中にあるおにぎりを食べ始めた。

 寧々子もカバンの中に手を突っ込むと、次々とパンを取り出していく。

 寧々子が7個ほど取り出したところで、龍之介が口を開く。

「毎度思うが、どれだけ食べる気だよ」

 龍之介の問いに、一個目のパンを一口で食べ終えた寧々子が答える。

「授業で頭を使うんだから、当然でしょ」

「……」

 寧々子のあまりの食欲に押されつつ、龍之介がおにぎりを一口食べる。

「面白かったか、この本?」

「かなり面白かった。なんていうか、キャラクターがデレデレになるぐらいよくて、主人公たちの悩みがスパッと問題が解決するのが面白いっていうか」

 二個、三個と食べ進めながら、擬音混じりで説明する。

「……キャラクターに感情移入して好きになって、主人公たちの悩みが綺麗に解決したのが良かったって解釈で良かったか?」

 昨日の残り物である野菜炒めを食べ進めつつ、龍之介がなんとか寧々子の言葉を読み取る。

「そうそう! よくわかったわね」

「中学からの腐れ縁だからな」

「でも、あたしの友達にも言ってみたけど、全然理解してもらえなかったんだよね」

 パンを全て食べ終えた寧々子が、不思議そうに首をかしげる。

 正直、あの説明の仕方だと当然だと思うが。

「さすが、小説家志望ね」

「別に、お前のアホな感想を聞きすぎただけだ」

「誰がアホよ」

 寧々子と軽口を言い合いながら、残りのお弁当を食べ終える。

「いい加減さ、あんたの小説見せてよ」

 寧々子のからかうような言葉を聞いて、先ほどの携帯画面を思い出す。

「……また今度な」

「それ、何回も聞いてるんですけど」

「まだ、他人に見せれるほどの完成度じゃないし」

「でもでも、賞には応募してるんでしょ?」

 いつもならこのくらいで諦めるのだが、今日の寧々子はしつこかった。

「賞の人が見ても、あたしが見ても変わんないじゃん」

「応募しても、入選したことはないから」

「もしかしたら、あたしのアドバイスが役にたつかもしれないでしょ?」

 お腹の辺りが重くなったような気がして、気分が悪くなる。

 寧々子は龍之介の変化には気付かず、詰め寄ろうとする。

「この話は終わりだ。俺、この後行くところがあるから」

 話を断ち切るために、龍之介がお弁当箱を素早く片付けて席を立つ。

「そんなに怒んなくてもいいじゃん」

「別に、怒ってない」

 龍之介は寧々子の顔を見ることもなく、足早に立ち去ろうとする。

 龍之介が食堂から出る際、寧々子が不貞腐れたように口をとがらしているのが視界に入った。




「……無神経女め」

 大学を出て目的地に向けてしばらく歩いた時には、そう悪態をつくくらいには、龍之介の気持ちはなんとか落ち着いていた。

 あのまま寧々子と話を続けていると、暴言を吐いたかもしれない。

 例え、遅刻しても謝らない大食いわがまま女でも、龍之介の事情を詳しく知らない相手に怒るのはお門違いだ。

 しばらく目的地の近くにあるコンビニまで歩いた頃には、次に書く小説を考えれるくらいには、なんとか落ち着いていた。

 コンビニでお弁当を買った後、目的地である一軒家へと向かう。

 見慣れた瓦の屋根の一軒家に着くと、インターホンを押さずに入る。

 中は明かりがついておらず、物音も聞こえなかった。既に昼をだいぶ過ぎていたが、家主は寝ているのだろう。毎週来ているが、だいだい起きている時はなかった。

 散らばっているサンダルや革靴を避けながら、靴を脱いで玄関に上がる。埃が舞う廊下を抜けてリビングへとたどり着く。

 電灯のスイッチを押して周囲を照らし、机にコンビニのお弁当を置くと、家主が寝ているであろう部屋へと向かう。

 部屋の扉を開けると、そこにはパソコンが置かれた机の近くで布団を丸くかぶっている何かがいた。

 もごもごと動く布団に手をかけると、龍之介は躊躇なく布団を剥がす。

「起きろ、オジさん」

 中から現れたのは、体を胎児のように丸くしている男性。

「うーん」

 力なく唸り声を上げ、眠気まなこで龍之介を見上げる。

「……今、何時?」

「一時過ぎ」

 男性が体を大きく伸ばすと、のっそりと立ち上がる。

「買って来た弁当は机に置いてるから、早く顔を洗ってきて」

「ありがとう、龍之介。ただ、オジさんじゃなくて徉平って呼んでくれ」

 そう言い残して千鳥足のまま、部屋を出た。

 一人残された龍之介は、部屋に戻ると隅に置いてある透明の箱から薄いビニールの手袋を取り出して、部屋に散らかった物を整理し始めた。手慣れた作業だ。

 しばらくして、しっかりとした足取りの徉平が戻ってきた。

「いつも悪いな。買って来てもらってるうえに、部屋の掃除まで」

「別に。お金はいただいてるから」

 徉平は机に置いてあるお弁当をかき込むように食べ始める。

「また、夜遅くまで執筆してたの」

 龍之介の問いに、徉平は一度箸を止める。

「締め切りが近いからな。売れない作家にとっては、どんな仕事でも大切だから、落とすわけにはいかねえんだよ」

「ふーん」

 徉平へ背を向けながら、龍之介が淡々と答える。

 徉平が一気に食べ終わると、爪楊枝を咥えながらお弁当をゴミ箱に捨てる。

「そういえば、コンクールはどうだったんだ?」

 今一番聞かれたくないことに、龍之介の手が一瞬止まる。

「……さあ、結果はまだ来てないから、落ちたんじゃないか?」

「悪いな。俺が少しでも時間があれば読んでアドバイスとかしてやれるんだが」

「別にいいよ」

 龍之介が散らかった部屋のゴミをまとめると、ゴミ箱から膨らんでいる袋を取り出す。

「それに、何度落ちても俺は諦める気はないから」

「……福子と約束したからって、無理して目指さなくていいんだぞ」

 へらへらと薄い笑いを浮かべながら、徉平が着ているジャージをひらひらと動かす。

「俺を見たらわかるだろう。小説家だって、売れるかわからねえ職業なんだからな」

 龍之介がまとめた部屋のゴミを袋に入れて、きっちりと締める。

「母さんとの約束とか、そういうのは関係なくて。俺には、これしかないから」

「……そっか。ま、俺にはそんなこと言う資格はねえしな」

 徉平が頭の後ろで手を組んで、天井を見上げる。

「そういえば、大学生活はどうだ。友達とかはいるんだろ?」

 そう言われて、龍之介が思い浮かぶのは寧々子の顔だ。だが、素直に言うのもなぜか癪だった。

「一人くらいは」

「おいおい。華の大学生なんだから、もっと青春しねえと」

「余計なお世話だ」

 龍之介、ゴミが詰まった袋を徉平の前に突き出す。

「一人じゃ何にもできないあんたには言われたくない」

「痛いところつくなよ」

 袋を受け取った徉平がどこかに持って行こうとする。

「きちんと、ゴミの日に捨てるんだぞ」

「わかってるわかってる」

 徉平が適当な返事をした。




「じゃあ、俺帰るから」

 一通りの掃除を終えた龍之介が、玄関に座って靴を履く。

「ああ。敏蔵さんによろしく言っといてくれ」

「ほとんど、仕事で帰ってきてないけどな」

 龍之介が靴を履くと、綺麗になった玄関を後にした。




 龍之介が家に着く頃には、すっかり空が暗くなっていた。

 今日は家に帰ると父は言っていたが、案の定家には誰もいなかった。手早く作った晩ご飯を食べた後、シャワーを浴びに浴室へと入る。

 程よい強さの水圧を頭に受けながら、徉平の言葉を思い出していた。

 ーー福子と約束したからって、無理して目指さなくていいんだぞ

 母親との約束だけではないのは事実だが、きっかけではあった。

 龍之介が物心ついた頃には病気がちで入院していた母親に、国語の宿題で書いた小説を見せて喜んでもらったのがきっかけだ。それ以来、母親が笑顔になるためにと書き始めて、その時に小説家になりたいと深く考えずに約束してしまったのだ。

 それから母親が死んでからも、小説を書くことが趣味になった龍之介は、自然と小説家を目指すようになっていた。だが、それは呪いでもあったのだ。

 暗くなる気持ちを振り払うように、一度冷水を浴びる。

 今はそんなことより、次のコンクールに送る小説を考えないと。

 しばらくしてシャワーを止めた後、浴室の近くに置いたバスタオルで、細い体についている水滴を拭く。

 浴室を出て、すぐに寝巻きに着替えると、母親の部屋へと向かう。

 真っ暗な中、記憶を頼りに電灯のスイッチを押す。周囲が明るくなると、天井まで届く本棚の前まで移動する。

 母親が大切にしたいた本棚の一番下の段にある古びたノートを取り出す。

 ノートを開くと、そこには過去に書いた小説があった。それらを何度も見直し、小説に使えるネタはないかと思い、読み続ける。

 すると、少年と猫の旅の物語のページがあった。

 懐かしい思いを感じながら読み進めていくと、旅の途中で少年が母親に手紙を書いているシーンでめくる手を止める。

 当時は面白いと思っていたが、今読んでみると単純でつまんないように思えてくる。

 なんで、母さんは面白いと思っていたんだろう。

 ーーピンポーン。

 龍之介は玄関から聞こえた音で、ノートを閉じる。

 こんな夜中に誰か来たんだろうと思って、立ち上がる。

 ーーピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。

 こんなに嫌がらせのように何度も押してくる相手は、龍之介の知り合いの中では一人しか思いつかない。

 ノートを元の位置に直してから、足音を鳴らして玄関の扉を開く。

「お前、何時だと思ってーー」

 予想通りだった寧々子の姿を目視した瞬間、固まってしまった。

 今にも弾けそうなキャリーケースを脇に置きながら、寧々子が立っていた。いつものお洒落な靴ではなく、質素なサンダルを履いていた。

 化粧もほとんどしておらず、大きなマスクをしていた。

 いつものお洒落な姿しか知らない龍之介は、異様な姿に驚いていた。

 そんな龍之介にお構いなく、寧々子がキャリケースを引きずって玄関に入っていく。

「ちょ、ちょっと待て」

 慌てて寧々子の肩を掴むが、睨まれてしまう。

「今日、家泊めて」

 寧々子がマスク越しに、そう一言だけ言った。




「ひとまず、タオルは置いとくから」

 固く閉ざされた風呂場からは、寧々子の返事はなく、水が当たる音だけが反響していた。

 龍之介はリビングに戻って、椅子に座る。

 結局、玄関先にいつまでもいると、近所に注目されると考えた龍之介は、ひとまず寧々子を家に入れた。寧々子はただシャワーに入りたいと言っていたので、その通りにしている。

 ひとまず事情は聞けてはいないが、それはシャワーを終わった後に聞こうと考えていた。

 しばらくして、バタンという音とともに寧々子が現れる。

 バスタオルで頭を拭きながら、歩いてくる。黒のジャージを着ている。寝巻きに使っているのだろう。

「さっぱりしたわ。ありがと」

 寧々子が龍之介の向かいに座る。

「それで、事情は話してもらえるんだろうな」

 寧々子がバツの悪そうな顔をして、下を向く。

「母親と喧嘩した」

 龍之介が寧々子の母親の顔を思い浮かべる。

 寧々子とは違ったおっとりとした美人だった気がする。

「あの優しそうなお母さんと?」

「普段は優しいけど、今回は事情が違うのよ」

 背中に届くような長い髪を丁寧に拭きながら、寧々子は言う。

「あたし、実は保育士になりたいのよ」

「……お前が?」

「何よ。なんか文句あるの」

 寧々子が睨む。

 正直、普段の態度と保育士の姿が全く一致しない。

 フンと鼻を鳴らして、寧々子が続ける。

「お母さんは元々普通の会社員になってほしかったみたいだから、それで大ゲンカよ」

「なるほどな」

「だからさ、あんたの家に泊めてよ」

「お断りだよ。なんで、俺の家なんだよ」

 龍之介の言葉に、寧々子が首をかしげる。

「だって、友達の家だと迷惑になるじゃない」

「俺だったらいいのかよ。一応、男なんだが」

 寧々子が、ふっと嘲るように笑う。

「あんたが私を襲う可能性なんてゼロでしょ。万が一襲われてもボコボコにできるし」

 寧々子の発言に腹は立つが、否定ができないので言い返せなかった。

「家のこととか手伝うから、一ヶ月ぐらい泊めてよ」

「絶対しないだろ。というか、ちゃっかり長めに要求するな」

「あたし、出て行けって言われても、絶対に出て行かないからね」

 龍之介はこんなことなら家に入れるんじゃなかったと後悔する。だが、今更追い出すこともできない。

「一つ、約束しろ。俺の部屋には絶対に入るな」

「……あんた、いかがわしい本でもあるの?」

「今すぐ出たいなら、別に構わないが」

「わかりました、わかりました! もう、ほんと冗談の通じないヤツ」

 いちいち反応するのも癪なので、龍之介は無視して指を一本立てる。

「一ヶ月だけだからな。それまでには家に帰れよ」

「わかってるわよ」

 龍之介はこれ以上話すと疲れるので、母親の部屋を指差す。

「あそこの部屋を使ってくれたらいいから」

 それだけ言い残すと、龍之介は自分の部屋へと戻った。




 自分の髪を乾かしてから、寧々子が龍之介に指定された部屋へと移動する。

 大きなキャリーケースを細腕で必死に持ち上げる。

「あいつ、荷物くらい部屋に入れてよね」

 そう悪態をつきながらも、なんとか部屋まで移動する。

 天井まで届く本棚が壁にある以外、特徴がない殺風景な部屋だった。

 机にある写真立てが目に入る。そこには夫婦と思われる二人の男女と、間に映る龍之介の少年の姿。

 そういえば、龍之介の母親は数年前に亡くなっていると聞いたことがある。ここが、その母親の部屋なのだろうかと疑問に思う。その割には埃も一つない。

 父親は仕事でほとんど家に帰ってこないはずだから、龍之介が掃除しているのだろう。

 普段は減らず口が目立つ龍之介だが、意外に優しいんだなと柄にもなく思った。

 その時、不意に本棚の下にある何冊かのノートに気づいた。




「ーーきゃっ!」

 誰かの悲鳴が聞こえた気がして、龍之介が重い瞼を開ける。

 カーテンがない窓から差し込む光に照らされた部屋。

 ぼんやりとした頭のまま、携帯で時間を確認すると、六時五十分。いつもなら、まだ寝ている時間だ。

「やば、ちょっと焦げたけど、いっか」

 扉の向こうから聞こえるのは女性の声。

 一瞬、誰だと思ったが、寧々子が泊まっていることを思い出す。

 重い体をひきずりながら部屋を出ると、リビングへと向かう。

 そこにはキッチンでフライパンを握る寧々子の後ろ姿だった。

「……何してるの?」

 腰まである茶色の髪を後ろで一つにまとめた寧々子が振り返る。

「いつも、こんな早くに起きるの?」

「あんなでかい声で叫んでたら、起きるわ」

「今、ご飯作ってるから」

 昨日、言われたことを実行していることに驚いていた。

 龍之介は普段は料理をしないので、おとなしく善意に甘えようと、机に座る。

 目の前を見ると、そこには、

 ーー黒ずんだトーストと、マヨネーズで覆われたサラダがあった。

「……」

 龍之介の頭が目の前の物体に混乱していると、

「はい、あんたの朝ごはん、置いていくから」

 寧々子がフライパンの卵を机に置いた皿に盛る。

 黄色いスクランブルエッグのようだが、なぜか所々に殻のようなものがある。

「なんか、たまごの殻があるんだが」

「ごめん。ちょっと失敗したみたい」

「これが、ちょっと?」

 寝起きの頭のせいか、龍之介はさらに混乱する。

 そんな龍之介をよそに、寧々子はカバンを手に持って玄関へと向かう。

「あたし、朝からバイトだから、もう行くね」

 龍之介が何かを言う前に、寧々子は出て行った。

 龍之介がひとまず目の前のスクランブルエッグを食べてみる。

 ガリっとした音が口の中から響いた。

「……最悪だ」




「え? 今なんて?」

「だから、友達が家に泊まってるんだよ」

 徉平の部屋のゴミを集めながら、龍之介が説明する。

 パソコンの前で座る徉平が振り返る。

「前に言ってた友達か」

「そうだよ。あいつが来たせいで最悪だ」

 龍之介が昨日のことを思い出す。

「毎朝ごはんとか作るけど食べれるもんじゃないし、脱いだ服は脱ぎっぱなしだし」

「ははは。まるで母親みたいだな」

「全然嬉しくない」

 龍之介の言葉を聞いて、徉平が笑っている。

「部屋に入るなって言ったのに、昨日は部屋に入ろうとするから、ただでさえアイデア浮かばないから小説に集中できないのに」

「でも、かなり仲がいいんだな。その子と」

 ゴミ袋の口を縛る手が一瞬止まる。

「そんなわけない。ただの友達で、それ以上でも以下でもない」

「そうでもないだろ。だって、そんだけ言ってる割には、一ヶ月も泊めるんだから、お前がそいつのことを心配だからだろ」

 徉平の笑いを含んだ言葉を聞きながら、龍之介がゴミ袋の口をきつく締める。

 寧々子を泊めているのは、徉平が言ったような友達だからではない。寧々子のことに、少し同情しているのだ。

 父親が放任主義のおかげか、龍之介の夢を反対はしなかった。だから、龍之介は自由に小説を書く時間を確保できていたのだ。

 だが、寧々子の場合は違う。どういうわけがあるのかは知らないが、反対されているのなら、勉強する時間も確保できていないのだろう。

 もしかしたら、一週間のほとんどをバイトしているのは、保育士の勉強に使うためなのかもしれない。

 そういう気持ちも相まってか、龍之介は寧々子を泊めているのだ。

「でも、男でよかったよな。もし女の子なら、流石にやばいだろうけど」

 その言葉に、龍之介の手が止まる。

「女の子なら?」

「それはそうだろ。仮にもいい歳した男女が一つ屋根の下に暮らしてるのは」

 薄々感じていたことだが、徉平の言葉で改めて認識した。

「漫画とかなら、よくある題材だけどな」

 徉平が何かを思いついたように、ぽんと手を叩く。

「同居を題材にした恋愛ものとかどうだ?」

「……恋愛もの?」

 ピンとこない龍之介がおうむ返しをする。

「今の状況を恋愛もので書けばいいんじゃねえの?」

 実際に男女で暮らしているので、別に邪な気持ちがなくても、龍之介にとってはかなり書きにくい。

「いや、でも」

「まあ、お試しで書いてみたらどうだ? もう期限が迫ってるんだろ?」

 そう言われると、否定しにくい。

 ひとまず考えとくと言いつつ、龍之介は作業を続けた。




 龍之介は自室のパソコンを前に、机に突っ伏していた。

 コンクールまでの期限が一日一日と近づく中、なかなかいいアイデアが浮かばなかった。

 このままだと、今回のコンクールは見送って別のコンクールに出すことも考えなければならない。一度だけならまだいいが、何度も繰り返してしまうと、賞に送ること自体が億劫になってくる。

 それに、ここで書けないようでは小説家になってもやってはいけない気がする。

 龍之介が頭の後ろで両手を組んで、上を見る。見えるのは、白い天井のみ。

 このままだと暗いことしか考えないと思い、龍之介は立ち上がって、部屋の扉に手をかける。

「あたしは保育士になりたいの!」

 寧々子の声が扉越しに聞こえて、ゆっくりと扉を開ける。

 龍之介が覗くと、寧々子が携帯電話の人物と口論しているようだった。

「だから、なんでダメなのよ!」

 寧々子は普段は見ない形相で叫んでいた。龍之介は見てはいけないものを見た気分で、扉を閉める。

 その後もしばらく口論は続き、聞こえなくなった後に扉が閉まる音だけが聞こえた。

 寧々子の奮闘している姿に、龍之介は自分と近しいものを感じた。いや、もしかしたら、寧々子は自分以上に夢にかける思いが強いのかもしれない。

 ふと、徉平の言葉を思い出す。

 ーー同居を題材にした恋愛ものとかどうだ?

 恋愛ものだと龍之介は一度も書いたことがない。そんな付け焼き刃では、賞に入賞することもできないと思っている。

 でも、やってみるだけの価値はあるのかもしれない。

 龍之介はパソコンの前に座ると、キーボードを叩き始めた。




「ねえ、あんた大丈夫?」

 寧々子には珍しい心配したような声を聞きながら、龍之介は黒いトーストにかぶりついた。

「何が?」

「何がって、あんた目のクマがすごいんだけど」

「ちょっと、やることがあってな」

 そう言いながら、ぼんやりとした頭で口内に広がる炭の味を感じていた。

 寧々子の電話を聞いてしまった日から、龍之介は一心不乱に小説を書いていた。日にちまで後一週間を切ったので、最近はほとんど徹夜で作業をしていることが多い。

「そう。なら、別にいいけど」

 寧々子はそれ以上興味がないのか、スクランブルエッグを食べる。

「言うの忘れてたんだけど、あたし、明日には出て行くから」

「……マジ?」

 突然の爆弾発言に、ぼんやりしていた龍之介の頭が冴えていく。

 寧々子は静かに頷く。

「お母さんとの喧嘩は大丈夫なのか?」

「別に解決したわけじゃないんだけど、一旦距離おいたから、落ち着いて話し合いできるでしょ」

 龍之介は、寧々子の意外な発言に素直に驚く。

「お前、そこまで考えてたのかよ」

「当然でしょ。あたしは夢を夢のままにしとく気はないんだから」

 寧々子が以外と考えていることに驚きながらも、龍之介はスクランブルエッグを口の中に入れる。瞬間、ガリっと小石をかじった感触。確認しなくても、正体はこの一ヶ月でわかっている。

「お前、今度家に来るまでには料理は覚えたほうがいいぞ」

「はあ!! 毎朝食べてるくせに文句言わないでよ」

「お前が食べないと怒るからだろ」

 いつものような言い合いをしながら、龍之介たちは最後の食事を終えた。




「やっと、終わった」

 朝日が差し込む部屋で、枯れそうな声をやっと出して、龍之介が床へと背中から倒れた。

 なんとかコンクールへの応募は間に合った。正直、面白いかは分からないが、全力を出せたはずだ。

 床に寝転んだことで、一気に疲労と眠気が龍之介を襲う。

 最後にパソコンだけを閉じようと手を伸ばすが、力が入らなくて上がらない。

 誰かが見るわけじゃないし別にいいやと思い、眠気に身を委ねた。




 荷物が片付いている部屋で、寧々子がノートを読み終わり、余韻を感じながら閉じる。

「あいつ、こんな小説書けたんだ」

 思わず、寧々子は漏らした。

 小説を書いていることは知っていたが、今まで読ませてくれなかったので、正直半信半疑だった。だが、龍之介の家のノートに書かれている小説を勝手に読んでからは、本当に目指していたんだと改めてわかった。

 小説を読み終えた感動を伝えたいと感じ、寧々子は部屋を出て龍之介の部屋へ向かう。

 龍之介の部屋の扉を三回叩く。しばらくしても反応がない。

 もしかしたら寝ているかもしれないと思い、龍之介の部屋に入る。

 そこには床で倒れている龍之介。その近くには電源がついたままのパソコンがあった。




 ーーカタ、カタ、カタ。

 暗闇の意識の外側から、定期的に聞こえる音が聞こえて、龍之介は重いまぶたを開ける。

 寝不足のせいで軋む身体をなんとか起こす。

 窓から差し込む光で、いつの間にか朝になったと遅れて気がついた時、目前には何かを覗き込む寧々子の後ろ姿。

 寧々子が龍之介が起きたことに気づいて、振り返る。

「お前、かなりひどい顔してるぞ」

「昨日、ちょっと作業しててーー」

 ぼんやりとした頭で昨日のことを思い出し、ここが自分の部屋だと気づく。そして、寧々子が何を覗いているのかも。

「お前、何してるんだよ!」

 寝起きで大きな声を出したせいで、喉が痛くなる。だが、今の龍之介にはそんなことは関係なかった。

 寧々子とパソコンの間に自分の身体を強引に入れる。

「うるさい」

 間に入られた寧々子が、不満そうに唇を尖らす。

 パソコンの画面を見ると、最後のページまでカーソルが移動していた。急いでパソコンを閉じる。

「お前、勝手に部屋に入るなって言ったろ!」

「だって、ドアをノックしてもお前が起きなかったからだろ」

 寧々子が当然だと言いたげに、フンと鼻を鳴らす。

「お前の小説、初めて読んだよ。あたしとの同居をパクったんだろ?」

「パクったんじゃない。参考にしたんだよ」

 寝不足のせいもあってか、龍之介は寧々子の発言すべてが腹立たしく感じる。

「だからかもしれないけど、全然面白くなかったわ」

「……はあ?」

 龍之介の怒りに気付かずに、寧々子は続ける。

「なんていうか、泥水をすすったようなラブコメだったわ」

 いつもなら、わかりづらい例えだと軽口を言えるのだが、今の龍之介にはそんな余裕はなかった。

 寝不足での疲労や勝手に小説を読まれたこと、そして自分が全力でやった作品を汚されたことで、溜まっていた怒りが爆発した。

「お前に、何がわかるんだよ」

「え? 何の話?」

「俺は精一杯やってるんだよ」

 突然の怒号に固まる寧々子をよそに、龍之介は続ける。

「全力で書いた作品でも、何回も落ちるんだよ」

 支離滅裂な言葉だとわかっていても、龍之介には止められなかった。

「何回も何回も、これは面白いって思ってても、落ちるんだよ。その度にもう書きたくないと思っても、俺にはこれしかないから、続けるしかないんだよ! なのに、なんだよ。面白くないって。お前みたいにーー」

 本当はそんなこと思っていないのに。

「お前みたいな、ちゃらんぽらんな奴に、面白くないって言われたくねえよ」

 その言葉に、寧々子の瞳に炎が宿った。

「何よ。面白くないから、面白くないって言っただけでしょ!」

 寧々子も負けずと言い返す。

「それに、あたしだって本気で保育士になろうとしてるのよ! なんで、あんたにそれを否定されなきゃならないのよ!」

「お前だって、面白くないって否定しただろうが!」

「面白くないから、面白くないって言ったのよ!」

 もう止められなかった。

 感情だけが先走り、声が枯れそうなくらい罵詈雑言が飛び交っていた。

 お互いが息を切らし始める頃には、既に亀裂が走っていた。

 寧々子が踵を返し、ただぽつりと。

「バカ」

 扉を静かに閉めて、出て行く寧々子。

 龍之介が呆然としていると、玄関の元へ向かう気配を扉越しに感じた。

 しばらくして、なんとか移動する力を取り戻した龍之介が母親の部屋へ向かうと、そこには寧々子の荷物はなかった。

 元々は今日出て行く予定だったのだ。仕方がないと諦めたが、本棚のノートが移動していたことに気づく。

 寧々子が触れたのかもしれないと思い、ノートを取ると、中から紙切れが落ちた。

 そこには何度も消したような跡があり、ただ一言。


『面白かった』

 

 誰が書いたのかは明確だった。

 龍之介は後悔の念が湧き上がるが、追いかける力はもう既になかった。




 カーテンも閉めきった自室の部屋で、床に倒れている龍之介は携帯画面をじっと見つめていた。

 寧々子と喧嘩してから、二ヶ月がたった。寧々子に何度もメッセージを送るが、返信はなく、大学でも避けられているようで、会うこともできない状態だった。

 後から思い返すと、寧々子のいうとおりだと思っていた。寧々子はただ感想を述べただけで、言い方もいつもと同じだ。ただ違うのは、龍之介の状態だけ。

「……そういえば、コンクールの結果がそろそろか」

 正直、コンクールの結果も、今の龍之介にとってはどうでもよかった。

 どうしたらよかったのかあの時の後悔をしたまま、床で横になっていると、玄関の扉が開く音がする。

「おーい、生きてるか?」

 声の主は慣れた足取りで、龍之介の部屋の前まで来ると、扉を開けて入ってくる。

「元気そうだな」

 コンビニの袋を持った徉平だった。

 コンビニの袋の中を見ると、コンビニ弁当だった。

「腹減っただろ。これでも食えよ」

 徉平にそう言われて、思い出したかのように龍之介の腹の音が鳴った。だが、食べようとする気力はない。

「後で食べる」

「今食わねえと、死んじまうぞ」

「人間は一週間だけなら、食べなくても生きていける」

 徉平が苦笑する。

「屁理屈言うんじゃねえよ。ま、コンクールで落ちると結構落ち込むよな」

 徉平はコンクールに落ちたから落ち込んでいると勘違いしているようだ。

「苦しくてもいつの間にか書くのが小説家だ」

 かっこいい表情を作って徉平がそう言う。

「ま、俺はもう帰るわ。これ、置いとくから」

 そう言うと、徉平はすぐに部屋を出て帰った。

 しばらくの間は床を横になっていたが、空腹が限界に近づき、仕方なく重い体を起こして弁当を食べる。

 龍之介が書き込むように全て食べ終わると、パソコンの前に座ると、キーボードを叩き始める。

 パソコンの画面に照らされた顔は、まるで何かを決意したような顔だった。




 携帯の画面を見た寧々子が、自室のベッドで横になっている。

 龍之介から何度かメッセージが送られていたが、返信する気はなかった。

 あの時は龍之介の理不尽な怒りに腹を立てていたが、冷静になると、自分にも非があると理解していたが、素直に謝るには寧々子の性格が許さなかった。

 その上、大学で龍之介とばったり会いそうな時は思わず避けてしまっていた。それも相まって、なかなか普段通りの関係に戻れなかった。

 かといって、このまま喧嘩別れは寧々子も嫌だった。

 どうしたらいいのかわからず、ため息を吐く。

 そんな時、寧々子の携帯にメッセージが来た。龍之介からだ。

 だが、そこにあるのは文字ではなく、英語の羅列だった。

「これって、URL?」

 寧々子が携帯のURLをクリックした。




 龍之介が重い体を起こす。

 携帯で時間を確認すると、昼の時間を示していた。寧々子からのメッセージも確認するが、返信はない。

 龍之介はため息を吐いて、自室から出て玄関に出る。最近は徉平が買ってくる弁当しか食べていないので、冷蔵庫の中には何もないのだ。

 今日の昼ご飯は何にするかを考えながら、玄関を出ると、寧々子が玄関先で立っていた。それだけで、龍之介が送った物を読んでくれたことがわかった。

「どうだった?」

 思わず、龍之介が呟く。

「面白かったよ。今度は」

「今度とか言うな。馬鹿」

「馬鹿って言うな。アホ」

 二人がいつものような掛け合いをしながら、日が昇った道を歩いて行った。

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