四限目
初めての冬。
東京しか知らなかった僕が迎えた岩手の冬は、想像を軽々と超えたものであった。雪がこれ程ウザく面倒なものであるとは思ってもみなかった。東京にいた頃は雪が降るのは一冬で数回、ちゃんと積もるのは年に一、二回なので完全に積雪を舐めていた。
だが彼らに言わせれば、この辺りの積雪は大したものではないらしい。ここは太平洋岸なので内陸部に比べれば屁でも無い、と。
それでも僕は、歩けない。雪道をまともに歩けなかった。その僕のへっぴり腰で歩く姿は広田や古舘から大笑いされた。
だが人間は成長する、二週間もすれば普通の東北人として闊歩出来るようになった。
だが都会住み時代には想像も出来なかった困難に直面し、大いに戸惑う。その困難とは、『除雪作業』であった。
除雪は家の玄関から始まる。玄関から門、そして自宅前の歩道。それを全て除雪しなければならない。
降雪後の父と僕は毎朝この作業に忙殺される。そして夕方帰宅するとまた同じ作業の繰り返しである。
最初の一週間は毎日父に愚痴をこぼし、頼むから早く本社に復帰して欲しいと告げていた。
だが人間は慣れる、二週間も経つと普通の東北人らしく朝夕の除雪が苦で無くなってきた。いや寧ろ除雪しないと一日が始まらず終わらない気持ちになっていた。
この心境の変化を父と論ずるも、結局自分らは歯車の一つに過ぎない。どんな環境でも諦めと慣れで何とでもなってしまう悲しい性なのさ、と言うことで落ち着くのであった。
師走に入り、かなえの妄想癖はほぼ見られなくなった。
唯一、夢のお告げだけは継続されていた。
この頃には彼女はクラスの、いや学年の、否学園の人気者となっており、昼休みのランチタイムも放課後も色々なグループから誘われるようになり、従って四人で帰宅することは極端に減っていた。
即ち、二人で帰宅する事もかなり減った。必然、彼女のアパートに行く機会も激減し、精神的にも物理的にも僕とかなえの距離は徐々に開いていった。
週一程度で、
「翔ぐん、お告げがあっだよ」
と囁かれ、その内容を聞く僅かな時間が二人一緒の時間、となっていた。
僕とかなえが付き合っている説はすっかりと影を顰め、東京臭がすっかり薄くなった僕は誰からも注目も見向きもされなくなっている。
僕自身もこの雪景色と寒さの片田舎生活にどっぷりと浸かってしまい、自分が東京の高校の陽キャグループに属していた過去の栄光を思い出す暇もなく日々の除雪をロボットの如くこなしていた。
それでも冬の最大のイベントであるクリスマスが容赦無く近付いてくる。
去年は友人宅で朝までパーティーだった気がする。いやそうに違いない。携帯に収められた写真を眺め、大きな溜息をついてからスコップを握る手に力を入れる。
今年は、俺、クリスマス、何してるんだろ。
広田は本家筋で集まると言うし、古舘も漁協の集まりに家族で参加すると言う。何故かその集いに僕の父もメーカー代表として参加するらしい。
母は薬局のスタッフとパーティーをすると言うし、弟は同級生宅でお泊まりで集うそうだ。
まさかのボッチクリスマス?
有り得ない、信じられない。こんなこと東京の仲間に告げられない。そう言えば最近あいつらと連絡していない。
生まれて初めて、生きているのが辛くなる。
こんな辺鄙な土地に来ても割と楽しくやって来た、だが今、死にたくなる程辛い。
その理由。
かなえが離れていったから。かなえとの繋がりが細く薄くなったから。
陰キャで妄想癖を孕んでいた彼女は誰も相手にしなかった、故に僕が独占状態だった。だが妄想癖をやめ、即ち『厨二病』もとい『膠二病』を克服してからは陽キャかつ皆の人気者となり、すっかりかなえとの時間が無くなってしまった。
こんな事なら、元のかなえのままの方が良かった。
膠二病のままのかなえの方が良かった。
時間を元に戻したい、もう一度あの田沢湖に戻りたい。
そんな非現実的な事を考えるようになる、これでは俺が膠二病じゃねえか……
それ位十二月半ばの僕は追い詰められていた、冬の東北の暗さと重さに。
そんな或る日。
下校後、自宅前の道路の雪掻きを無我の心で行っていた夕刻。不意に背中を叩かれた。
機械的に振り返ると、かなえだった。
久しぶりの二人きりであるが、凍てついた僕の心は容易に溶け出しはしない。無表情のままどうかしたのかと問うと、古舘から最近僕の様子がおかしいと聞いたので、様子を見に来たと言う。
別におかしくなんてないさ、と言うと眉を顰め、最近どうして私と距離を置くのかと言われる。
距離を置いてなんかないさ、距離が開いているだけだと呟くとかなえは驚愕の表情で
「何それ、ねえ、翔ぐん、大丈夫?」
と心配し始める様子に苛立ち始める。
皆にチヤホヤされ俺なんか相手しなくなったのはお前だろう、と叫ぶ。
東京から来た、薄っぺらな俺なんて相手にする価値はないんだろう、どうなんだと叫ぶ。
今思うとあの頃の僕は本当に壊れかけていたのだろう。
呆然と僕を眺めていたかなえの大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
涙の雫がかなえの真っ白な頬を伝う。
その瞬間、目がハッと覚めた感覚となり、慌ててごめん、悪かったと謝る。
それでも涙は止まらず、鼻を啜る音が僕の心に爪痕を残していく。
かなえの肩を掴み、本当にごめん、俺最近どうかしてるんだ、と言い訳をする。すると不思議そうな涙顔のかなえが顔をちょっと横に倒す。
俺さ、ずっとかなえと一緒だったじゃん、だけどこないだからお前みんなと一緒に飯食ったり下校したりしてんじゃん、それが気になって…、いや。寂しいんだよ。
ええ? 何それ? 寂しいって?
多分さ、嫉妬してるんだ。お前の周りの奴らに。ずっと一緒だったお前をさ、取られちゃったみたいな気持ち。
そんな事ないよ、私別にあの人達と好きで一緒にいるんじゃないよ、私だって、
私だって?
「翔ぐんと一緒に、ずっど一緒にいたいよ」
場所、時刻、周りの人を一切気にせず。
かなえを抱きしめた。込み上げるマグマを堪えきれず、強く激しくかなえを抱きしめた。
「痛いよ、痛いよ」
と小さく叫ぶ声を無視し、抱擁を続けた。
チラチラ舞う雪片がかなえの頭上に落ちては瞬時に消えていく。その度にかなえの香りが鼻腔を刺激し心臓を拍動させる。
僕は目を瞑りかなえの髪に顔を埋める。
ふと目を上げると、弟が呆然と僕達を眺めていた。
翌日から必ず僕とかなえは一緒に登校し下校した。
雪道に慣れないからと言い訳をし、ずっと手を繋いで登下校した。
或る日。クリスマスはどうするのかと僕が問うと、不思議そうな顔をしながら
「あれ? 一緒にするんじゃないの?」
と当たり前のように言われ、あの十二月前半の鬱状態は何だったのだろうかと自問してみる。
まさか、宇宙に聖夜の儀式を捧げたりしないよな、と揶揄うと顔を真っ赤にして、本当にやめて頂戴と泣き声で言われ慌てて執りなしたりする。
心の半分くらいかなえの全裸が見られなくて残念と思うも、普通の彼氏彼女として祝えると喜ぶ。
あれ?
俺たちって、付き合っているのか?
僕はすっかりその気持ちだったのだが、考えてみると一度もきちんとその話をした記憶が無い。一緒にいたいとかいて欲しい、へっぺはもう少し待って欲しい、と言うのはあったが、付き合おうそうしましょう、と言う類の話は思い出せない。
クリスマスまで数日に迫ったある夕刻。かなえのアパートで不意に尋ねてみる。なあ俺たちって付き合っているんだよな?
かなえは眉を顰めつつ、付き合うって一体何? と逆に僕に問う。だから、一緒に登下校したりデートしたり、イベント事を一緒に楽しんだりする男女、と僕が答える。
かなえは更に眉を顰め、それなら別に本当に好きでなくても人って付き合えるのじゃなくて?
そんな事はないと思うが、それもあるかも知れないと答えると、それは付き合いとは言えない。付き合うとは、お互いの全裸を眺め合える関係なのだ、と叫んだ。
僕は呆然とし、それから、あ、それなら俺たちとっくに付き合ってんじゃん、と言うと、当たり前のことを言わないで欲しい、と強く睨まれてしまった。
喜びよりも圧倒的な怖さに平伏しそうになる、かなえの彼氏である僕であった。
それからも週一の『夢のお告げ』だけは止まることを知らず。
月の裏側で異星人同士の戦いが起きた、真冬でも活動する藪蚊が来年東北を襲う、東北楽天イーグルスが日本一になる、世界一周鉄道が十年後に開通する、等々。
結局我が家族と過ごすことになったクリスマスには、父、母、弟の前で、
「来年は地震と津波が来るわ。大勢亡くなるの、みんな気をつけて頂戴」
と言ってのけ、後で
「あの娘大丈夫か?」
と心配される始末。多分来年か再来年には完治するから放っておくと言うと、
「あんた、ちょっと変わったよねえ」
と感心されてしまう始末。付き合っている彼女を変人扱いされ少し腹が立ったので、以後家族の前には連れて行かなくなった。
かなえはそれを不満がりもっと親交を深めたいと訴えるも、お前があんなお告げを披露するからだと言うと、呆気に取られた顔をしつつ、何故? これであなたの家族は助かると言うのに何が不満なの? と真顔で言われ、これ以上拗らせたくなかったので俺が悪かった、来年はいっぱい合わせるからと言って抱きしめた。
かなえは実家で年末年始を過ごすといい故郷の山奥に帰って行った。僕達家族も祖父母のいる東京でのんべんだらりと過ごしている最中。祖母が弟にあんただけ東京の中学に通った方が良いのではと問題提起し、暫し家族会議の議論は白熱し、結論として来月から弟は祖父母の家から近所の公立小学校に通うこととなる。弟はまたもや中学受験戦争に参戦することとなり嘆き慄いているのだが、やはり都会が恋しくなっていたのであろう、案外素直に新しい進路に納得した様子であった。
そんなに早急に決断しなくてもとも思ったが、東京の受験戦争の雰囲気に少しでも早く慣れた方が良いと言う父の意見がなるほどとも思えると同時に、かつて家族の事に全く興味を示さなかった父がこんな事を言い出したことに驚きを覚えた。
去年の人事異動が父にとって、我が家にとって良い風を吹かせたのだと改めて実感させられると共に、父と会話をする機会が俄然増えていった。
当然僕の進路の話にも発展し、四月からは予備校に通うべきだと言い始めたのには少なからず驚愕すると共に、今の父の意見には素直に従える自分に心が温まる思いであった。
三ヶ日を終えて岩手に戻る飛行機の中で、我が家にとってそして自分にとって新たな道が開ける年となろうと予感せざるを得ない気分であった。
かなえは携帯電話を持っていない。
故に帰郷を報告しようにも、その手段が無い。
だが、岩手に戻った翌日には僕はかなえと会っていた。朝の雪掻きを終え、散歩がてらにかなえのアパートを覗きに行ったら、カーテンが開かれていたのでかなえの帰宅が分かったからだ。
呼び鈴を押し、ドアが開かれる。
僕は驚愕する。
かなえの黒く美しい長い髪は、肩までのショートボブになっていたからだ。
部屋に上がりその経緯を聞く。
元旦に神の啓示を受け、昨日昼に街に戻り美容院で切ったのだという。
あれ、そういうのやめたのでは、と言うと実は何となく切りたくなっただけ、と白状する。
長い髪には神性力があるのでは、と揶揄うと
「もう、やめでけろ、翔ぐんのバカ」
と真っ赤になって照れるのが堪らなく可愛い。
だが暫く互いの近況を伝え終わる頃。
「あのね、らずもねぐおっかねえ夢見だの、それも何度も」
それはどんな内容か問うと、俯きながら
「それがよぐ覚えでねぁーの。でもほんにおっかねぁー夢なの」
僕に又馬鹿にされるからだろう、本当は覚えているくせに言おうとしない。百年に一度の台風や学校の襲撃だのとこれまで散々僕は痛い目に会ってきているのだから、それはそれで彼女は良い方向に向かっている、即ち病気からの回復して来ていると捉え、そっかそれは辛かったであろう、今日からは俺が一緒だから不安に思ったら俺と一緒にいれば良い、と言うと、
「もー。ほんに翔ぐんは優しいんだがら」
と言ってまた赤くなる。
その愛おしさに、僕の雄の本能が刺激され、遠からず彼女と結ばれたいと切に願い始めるのだった。
新学期が始まり、学校の皆はかなえの変貌に驚愕する。
古舘はニヤニヤしながら、とうとう水沢と一線越えたのか、いい女になったじゃない、と勝手に歓喜し、広田はいや違う、水沢よりももっといい男と付き合い出したのだと見当違いな言いがかりを放つ。
他の生徒達もそれぞれに勝手な憶測を膨らませてはさりげなく僕に聞いて来たりするのだが、僕が自分も長い髪が好きだったのに溜息をつくと何となく同情してくれるのだった。
かなえはかなえで、問いかけてくる生徒には大学は東京か関西に行きたいからその願掛けであると吹聴し、更なる噂と誤解を招いたものであった。
この高校から大学進学者はあまり多くなく、また県外に出る者も非常に少ないのでこの話はあっという間に全校生徒に知れ渡り、校内では常に注目を浴びてしまう結果となったのだった。
それでもかなえはそんな雰囲気を全く気にせずに飄々と高校生活を僕達と送っていた。
二月に入り、弟が東京の祖父母の家に引っ越しをした。
あれ程ウザがっていた受験勉強だったが、東京から戻ってからは毎日課題をこなし、それなりの準備を進めていたのが驚きだった。
去年の今頃は嫌々勉強していたのに、そして岩手に引っ越してからは伸び伸び生き生きとしていたのだが。まもなく小六となり人生の岐路に差し掛かり、自分なりに将来を考えた末の東京行きであろう、上野行きの新幹線に乗り込むその顔の凛々しさに感慨深いものを感じるのだった。
かなえも弟の中学受験には大賛成であり、そんな環境にある弟を少し羨ましそうに思っている様子である。
自分も大学は東京か関西に行きたいのだと呟き、それが仲間への方便でないことを知り少し驚く。てっきり高校卒業後は実家の神社を継ぐものと思っていたのだが、彼女曰くそれは自分の弟に任せるのだ、私は私の道を進みたいと正月に親族と話し合ったと言う。
初めは母親が抵抗したのだが、マタギの父親が自分のしたい事をすればいい、そしてダメなら戻ってくればいいと言ってくれたと言う。
そんなかなえが、
「翔ぐんは進路どうするの?」
僕はまだ考えていない、大学に進むかも決めていないと答えると、
「一緒さ東京の大学さえぐベーよ、関西でもいいわ。とにがぐおめはんと一緒さ過ごして行ぎでの」
と恥じらいながら溢す。僕も耳まで真っ赤になるのを感じながら、それもいいな、と答える。
父にそのことを話す。父は是非東京の大学に進んで欲しいと言う。弟の事もあるし、祖父母の面倒も見てくれると大いに助かると言う。
自分は当分本社に戻れまい、東京に残してきた両親が心配なのだ、と呟く。
父のこんな本心を聞くのは初めてで、大いに戸惑いながらも自分に任せて欲しいと言うと、目を細めながら僕の肩を叩いた。
私立でも構わない、四月から盛岡の予備校に通うといいと言ってくれる。翌日学校で調べると、JR宮古駅前に大手の予備校のサテライト校があると知り、かなえを誘って下校後見学に行く。
その場で簡単な入校テストを受け、二人とも即日入校を許可される。かなえは満点近い成績であったので、特待生扱いとなり入学費や授業料が大幅に免除された。
帰りの電車の中で、付き合わせてしまい申し訳なかった、あの予備校でよかったのか聞くと、
「何処の予備校でもいいの、おめはんと一緒さ勉強出来るんだら」
と言ってくれ、思わず手を握ってしまう。彼女をそれを振り解こうとせず、結局電車を降りるまで手を繋ぎっぱなしであった。
一緒に登校、下校後に宮古の予備校、帰宅という他の誰よりも密接な二人の日々が穏やかに過ぎていく。
相変わらず週に一回程、膠二病の名残の謎の夢のお告げを聞かされるが、馬耳東風だ。
一緒にいる時間が長くなればなる程、雄の本能が本性を隠しきれなくなる。帰宅後の彼女のアパート前での接吻は日に日に長く濃密になっていく。予備校の無い日のアパートでの自習時の密度も濃厚になってくる。
それでも彼女は決して一線を越えようとはしない、いやさせてくれない。
「もうちょっと、もうちょっとだがら、お願い待ってで」
そう言われ拒まれると、スッと萎えてしまう。
そんな事が続くと、ひょっとしていい大人になるまでこの娘とは出来ないのでは、と不安になってしまう。
東京の悪友に相談するも、そんなの押し倒せだの無理矢理やっちまえばこっちのもん、などと無責任な答えしか得られず。
悶々とした僕の精神状態は更に深みに嵌って行きそうである。
三月に入り、期末試験を終えると昼過ぎからの予備校へ行くだけの生活となる。
成績はかなえがダントツの一位。僕は三十点差で二位につける。
週末に模擬試験が予定されており、その結果で大まかな志望校の目安をつけることとなる。
だがその頃の僕は欲望に心を乱され、血走った目で日々を送っていた。
かなえを抱きたい。
その思いはかなえにも十分過ぎるほど伝わっており、毎日別れ際には済まなそうな顔で
「ごめんなさい。おしずがに」
と頭を下げられてしまう始末であった。
こんな自分を情けないと蔑むも、抑えきれない衝動と欲望に悩む日々であった。
そんなある日。
朝から冬型の気圧配置で寒さが厳しく、明日の予備校の模試は雪模様かとうんざりとしていた。
昼食を終え予備校へ向かうべくかなえのアパートに迎えに行く。
ドアを開けると、何故か喜びと困惑と躊躇いを混ぜた表情で僕を迎える。部屋に僕を入れ、顔を真っ赤にし俯きながら、
「いいよ」
と一言呟いた。
僕は一瞬目が点になるも、彼女の意をすぐに感じ取り、呆然とする。
本当にいいのか? 彼女に近づきながらそっと囁く。かなえは小さく頷き、その小さく美しい顔を上げ僕を見つめる。
ただ、ここじゃ嫌。特別な儀式なのだから神聖な場所で行いたい、と言うのでそれは何処だと問うと、父の知り合いの神社で行いたいと言った。
すぐに調べると、駅前からバスで四十分程の山間部にある小さな無名の神社であった。
その神社の宮司が父の知り合いなのだが、病気で盛岡の病院に入院しており、かなえはたまに出掛けて掃除をしているそうだ。
僕はゴクリと唾を飲み込む。
今日、俺は漢になれる!
何度も僕は頷いて、彼女の手を取り駅前のバスロータリーへ駆け出した。
バスは十五分ほどで発車し、市内を抜けて険しい山道をゆっくりと登っていく。乗客は僕らの他に湯治客らしき老夫婦が一組。終点の小さな温泉街へ向かうのだろうか。
かなえの手を握る僕の掌はずっと汗をかきっぱなしだ。時折ジーンズで汗を拭うのだが興奮は抑えきれず、かなえの掌は常に僕の手汗で濡れている。
目的のバス停を降りると、チラチラと雪が舞い始めている。山間部なので天気の崩れは早いのかもしれない。
バス停からその神社は十分ほどだったが、聳り立つ山の中腹に位置するその神社までの道のりは険しく、急な石段を何度も滑りそうになりながら息を切らせて登っていく。
ようやく辿り着いて後ろを振り返るも、雪雲が辺りを覆っており下界を見渡すことは叶わなかった。
小さく古ぼけた社で二礼二拝一礼する。見渡す限り、この数日参拝客が来た気配がない。
社からちょっと離れた所に小さな住居がある。木造の古い造りで意外に趣のある建物だ。
かなえがバッグから鍵を取り出し、扉を開けると中から冷たい冷気が押し寄せて来る。中に入ると綺麗に整頓されており、かなえの部屋を思い返し人間やれば出来るものだとつくづく思ってしまう。
客間には炬燵と旧式の石油ストーブがあり、かなえが火を付けると瞬く間に部屋はポカポカとしてくる。
かなえが僕の隣に腰を下ろし、炬燵に入ってくる。
「ちょっと暑ぐなってぎだね」
と言いながらセーターを脱いだ。静電気が弾ける音と脱いだ時に僕を襲った彼女の匂いが僕の本能スイッチをオンにする。
終わって仕舞えば、呆気ないの一言に尽きた。
無我夢中でかなえにむしゃぶりつき、イメージトレーニング通りにモノを押し当て腰を動かし、ほんの数秒で昂まりそして果てた。
壁にかかっている古時計を見るとまだ二時半過ぎ、全過程を七〜八分で済ませたようだ。
かなえは顔を両手で覆い、身体は少し震えているみたいだ。
今この歳だと考えられない事だが、その時の僕は再度かなえに挑みかかったのだった。
仕方なく僕を迎え入れるかなえの苦しげな表情も気にする事なく僕は腰を振り続け、それも長くは続かずに果てそうになった時。
グラリと身体が揺れた気がした。
障子戸がカタカタ動き、部屋の柱がギシギシ音を立てている。
「ねえ、地震でねぁー?」
我に返った声でかなえが叫ぶが僕の腰は止まらない。
「ねえ、ちょっ、やめで、終わりにして!」
壁にかかっている古時計が左右に大きく動いている。炬燵が畳の上で前後左右に動いている。これはかなり大きな地震だ、と思いつつも僕の腰は止まらない。
「結構大ぎいよ、ねえもう終わってくなんしぇ!」
と言いつつ僕にしがみつくものだから、僕の興奮は更に大きくなり彼女の望みとは逆の方向に事は進んでしまう。
石油ストーブが緊急停止したらしく、石油の生々しい匂いが部屋を満たしていく。障子戸は半分開かれ、外からは丸見え状態となる。
やめて、やめてと叫ぶ彼女の声音がじきに何かに耐えるトーンに変わっていき、やがてAVで聴き慣れたセリフを大声で叫ぶと同時に、僕も力一杯全てを彼女に撃ち放った。
それから余震に身を任せ、僕たちは息を荒くしながらしっかりと抱き合っていた。
そのまま眠ってしまっていたようだ。
目を覚ますと目を閉じたかなえが小さな寝息を立てていた。
石油ストーブが止まってしまったため、部屋の温度は急激に寒くなっており、畳の上に脱ぎ捨ててあったセーターを取り敢えず背中にかけてみる。
僕の動きでかなえも目を覚まし、どうして止めてくれなかったのか恨めしげに呟くものだから、その唇を塞いでやった。
愛しいかなえ
僕はその瞬間、あまりの幸福にこのまま世界が終わっても良い、と真剣に思った。
やがて、それがほぼ現実になるとも知らずに……
いつもと何かが違うと感じたのは、停電となっていたことから始まる。テレビも炬燵もつかない。僕らは慌ただしく服を着て神社を出た。
神社の石段を降りると、入り口の脇にあった石の灯籠が倒れている。
県道に出てバス停まで歩くも、車が通る気配が全くない。チラチラ舞う雪を払いのけ、バス停の時刻表を見る。時間になってもバスは来ず、車どころかトラック一台通らない。
待っていても凍えるだけだと、僕らは街に向けて歩き出す。
やがて、土砂崩れによって道路が完全に塞がっている場所にでくわし、これは只事ではないと実感する。
山を下るにつれ雪は収まり遠くを見渡せるようになる。街一面を見下ろせる山の中腹に至り、僕らは愕然としその場に立ち尽くした。
街が、溺れている!
港から街にかけて、大きな建物以外が全て水面下だった。道路だった筋に数えきれないほどの車が浮いており、港にあったであろう小さな漁船が民家の屋根に乗り上げている。
水面には一面流されてきたゴミが浮かんでおり、その合間に人が浮かんでいるのが見えて僕は激しく嘔吐する。
その光景はまさに地獄絵そのものであり、ショッピングセンター、学校の屋上、団地の屋上に退避した人々が蠢いている様子を涙まじりに俯瞰し戦慄した。
携帯電話は全く通じず、凍える指が虚しく仲間や家族の呼び出しを続けたが、誰一人応答する者はいなかった。
「これは…… 私のせい… ああ、なんていう事を私はしてしまった……」
その場にしゃがみ込み、頭を抱えるかなえ。
「私が、宇宙神の信頼を損なったから…… 処女でなくなってしまったから、こんなことに… これは私に下された全知全能の宇宙神、ディオ・コスミコの怒りの鉄槌なの… なんて愚かな私… 己の肉欲に溺れた結果が、この有様…… ああ、取り返しのつかない事をしてしまった…」
僕は何も言わず、ただただ眼下の地獄絵を見下ろし続ける。
恐らく父も母も水面下だろう。弟が東京に引っ越していたのだけが幸いだった。
古舘、広田らはどうしているだろうか。うまく逃げ仰せてくれていれば良いのだが……
鉛色の空からヘリコプターの音が聞こえてくる。この地獄絵を取材しているのだろうか。
これ以上立っていることが出来ず、僕もしゃがみ込んでしまう。
隣で苦悶するかなえを眺める。
俺のせいだ。
俺が欲望を抑えることが出来ず、かなえに手を出してしまった。
俺が我慢することが出来ていたなら、こんな事にはならなかったであろう。
俺がかなえを信じ、かなえの貞節を守っていたなら、こんな事には……
ふと、クリスマスの日のかなえの言葉を思い出し愕然とするーー
『来年は地震と津波が来るわ。大勢亡くなるの、みんな気をつけて頂戴』
彼女は正しかったのだ。
彼女は病気でも何でもない、真の宇宙神の使徒だったのだ。
彼女はゼロポイントフィールドから全ての出来事を知ることの出来る、本物のエハッド・ナヴィだったのだ!
街の高台にあった小学校の体育館に収用されてからの彼女のその後を僕は知らない。
両親を亡くしたショックとこの災害をもたらしてしまった自責の念から僕は精神状態が思わしくなく、半年程心療内科のある病院で過ごしていた。
何とか正気を取り戻し、祖父母のいる東京に戻り普通の生活が再開された。
翌年、弟は国立中学に合格、僕は中堅の私大に合格した。
四年後に卒業し大手物流会社に就職すると同時に祖父母の家を出た。
時々かなえがどうしているか気にはなったが、敢えて詮索することもなく日々は過ぎていく。
やがて会社の同期である東北出身の女性とつき合い、結婚した。翌年長男が誕生し、二年後に長女が生まれた。
徐々にかなえの事が遠い過去となっていき、その姿や顔を思い出すことも稀であった。
あったのだが。
もうすぐ七歳になる私立小学校に通う長男が
「あのね父さん。僕の友達がね、変な事を言っているんだ」
近くの地下鉄の駅まで送る途中に不意に喋り出す。
「もうすぐね、光がこの世を包んで焼き尽くしちゃうんだって。だから私を大事にしてねって言うんだ。変でしょ?」
その友達って女の子なのかい、と応じると、顔を真っ赤にしながら
「うん。毎日一緒の電車で行く子。クラスも一緒なんだ」
そうか。妻が言っていた、こいつの彼女のことか。
僕は笑みを抑えきれずに思わず肩を揺らせてしまう。
ふと、かなえの事を数年ぶりに思い出す。
その子はいつもそんなことをお前に話すのかい? それともみんなにも話しているのかい?
「僕にだけ。だって誰も信じてくれないからって」
僕は立ち止まり、長男の頭を撫でながら、お前だけは信じてあげなさい。その子のいう事を、そしてその子自身の事を信じてあげなさい、と言うと
「うんわかった。じゃね、行ってきます」
と言って満面の笑みで駅に降りて行った。
そう言えばかなえは今頃どうしているだろうか。
ダメもとでスマホで紫波かなえと検索してみるが、何も無し。
古舘に聞いてみるかと思うも、妻から頼まれていた駅前のパン屋の用事を思い出し、その行列に並ぶ。
あれから十二年。あの辺りはすっかり復興が為されたと聞く。一度訪ねて見たいと思う反面、二度と行きたくないという思いも強く、あと数年は向かうことは無いであろう。
かなえは恐らく実家に戻っているのではないだろうか。本気で調べればきっと見つけ出せようが、かなえと再会する勇気が僕には無い。
あの時僕がかなえの言を信じていれば、あの悲劇は起きなかっただろうと未だに僕は思い込んでいる。彼女の純潔を僕が守ってさえいたなら、父母を亡くすことは無かったであろうと本気で信じ込んでいる。
パン屋の行列は中々進まない。
ポケットのスマホが、いや僕だけでなく周囲の人々のスマホが緊急警報を発する。
僕も、彼らもああまたか、という顔でスマホを取り出す。
ああ、またいつものJアラートってやt……