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膠二病  作者: 悠鬼由宇
1/4

一限目

今から十数年前の、僕が高校二年生の頃の話である。


生まれ育った東京を離れ、岩手県の海沿いにある小さな町に引っ越したのがその頃であり、都会の男子高校生というアイデンティティがガラガラと音を立て崩壊したのもその頃だ。

東京ではどちらかと言えば派手なグループ、今で言う上位カーストに属し、ファッションやグルメや女子を友と満喫していた自分が、東北の寒村での田舎生活を余儀なくされてしまうのだからたまったものではなかった。

引越しの理由は父親の転勤であった。とある造船メーカーのG P S付き魚群探知機の開発主任だった父が、仕事上何かやらかして東北に左遷させられたとばっちりを食った訳である。

それまで専業主婦だった母も寒村に居を移してからは、昔取った杵柄である漢方薬専門の薬剤師として街の薬屋で働き始めた。

小五だった弟は私立中学の受験を諦め全校生徒十八名の町立小学校に入学した。本人にしてみればそれ程進学に興味はなかったようで、それまでの悲惨な受験勉強から突如解放され生来の子供らしさが戻り、却ってそれでよかったのでは、とも当時思っていた。

研究員であった父は東京本社時代には家にいた記憶が無い、土日祝日も本社の研究棟に籠り如何にして日本近海の漁業資源を枯渇させるかに没頭してのだが、田舎の寒村の漁港の駐在員になってからは九時五時生活にどっぷりと嵌ってしまい、次第に生気が失われていったものだった。

土日には漁港の堤防に一人釣り糸を垂らし、一日中釣果も無く過ごしていた。その後ろ姿はもはや廃人の域に達していると当時の僕は背筋の寒気と共に感じていた。


そんな僕は、母や弟のように田舎に同化する訳でもなく、父の様に生気を失う訳でもなく、人生の急変を何となくに受け止め地元の公立高校に編入したものだった。

東京では中堅に位置する都立高だったし、早慶上智なんて夢のまた夢、日東駒専にでも何とか引っ掛かれば、と思っていたのでまあ気楽なものだった。

親からは東京の私立大学でも、と言われていたがそんな気も起こらず、卒業したら地元の地方公務員にでもなれたらラッキー、位の先行きの見通しなのであった。

編入先の県立高校は普通科が一クラス、水産科が一クラスのひと学年で二クラス。当然僕は普通科に入り、新学期を迎えるのであった。

二年A組は男女比はほぼ五分五分、トータルで三十名の生徒がいた。生徒は殆どが市内の中学出身であり、近隣の市町村から電車で通う生徒は稀であった。

東京から来た僕はクラスで特に目立つこともなく、又都会から来たとの軽い噂も蔓延する様子もなく、初日からやや物足りなさを感じていた。

言葉は思ったよりは方言がキツくなく、これもテレビやインターネットの影響なのかとちょっとホッとした事をよく覚えている。

それでも隣の席の女子から見た事ない顔だがどこの中学か尋ねられ、僕は東京から編入したのだと告白すると目を丸くし、東京かあ、いいなあ、と呟かれた。

髪型はおかっぱで化粧っ気のないサッパリしたその古舘と言う女子に、東京なんてそんなにいいもんじゃないぜ、と言うと、東京がら来だ人はみんなそう言うんだよね、とかなりの訛りで言い返され、閉口した。


古舘は田舎の女子らしくとても面倒見がよく、この土地を何も知らない僕に色々と教えてくれた。コンビニは夜十一時まで。自転車に乗る時は要ヘルメット。(僕は彼女の髪型を眺めながら深く頷いた。)クラスの半分ほどが原動機付き自転車、いわゆる原付の免許を保有しており、通学にも使っている。(ことに大変な衝撃を受けた。すげえな、田舎。)普通科の生徒の殆どは地元で就職し、大学に進学するのは毎年二十名ほどであること。

部活動はそれ程盛んではなく、県大会に進む実力もないこと。僕は東京で部活を忌避していたので、これには少しホッとした。

その代わり、季節ごとの行事、即ち春の大漁祈願祭、夏祭り、秋の収穫祭と文化祭には全校生徒が全力で挑み妥協は決して許されない、と聞きドン引きした。

「もしサボったり手抜いだりしたら、村八分になるがら気つけでね」

僕が青褪めながら首を小刻みに振っていると、前の席に座っていた広田という大柄な男子が

「そったなこどねぁーがらさ。大丈夫だよ」

と訛り全開で話しかけてくれ、以降この三人組で行動することが多くなった。


古舘の父親は漁師で最近船を買い替えたそうだ。魚群探知機の話を振るとよく知っており、最新式のG P S付き魚群探知機の性能を褒めちぎってくれ、少し照れる。

広田の親は農家で米を作っていると言う。自分も卒業したら跡を継ぐのだが、出来れば東京にある農業大学に進学したい、と明るく言い放つ。

古舘に比して広田の方は東京にかなりの憧憬を持っており、僕が東京から来た事を知ると渋谷はどんな感じなのか、新宿は外人しかいないと言うのは本当なのかとあれこれ執拗に聞いてきて、多少げんなりとしたものだ。

広田は僕の茶色に染めた前髪を触りながら、こんな田舎に越してきて辛いだろう、と言う。

そんなことはない、むしろ気が楽だよと言うと首を傾げ、

「すぐに東京が恋しくなるんでねぁーが?」

僕は首を振り、都会の高校で上位グループに属することの気苦労を色々語ると、

「マジが、めぢゃ大変だな」

と同情してくれる。

古舘はこのやりとりを冷笑しながら眺めている。

気楽な高二生活はこうして緩やかに始まった。


四月の半ばになり、僕の左横の席がずっと空席なのが気になりだす。

「ああ、紫波さんね。一年生の頃からあまり学校さ来ねぁーんだよ。」

この頃には彼らは僕に対し遠慮なく方言をかましてくるものだから、まあ少しは受け入れられているのかなとも思ったりしていた。それにしても彼らの本気の方言は堪らない。イントネーションが標準語とは隔絶しており、日本語とは思えない全く別の言語を聞いているかのようだ。

その紫波と言う女子は、広田曰く絶世の美少女であり学業も抜きん出ているそうだ。彼女がたまに登校した日には学校中の男子生徒が彼女を眺めに来るらしい。

東京の高校時代、僕のグループには読モをやっている子や芸能プロダクションに所属する子もいたので、この寒村に咲く一輪の花には全く期待する気はなかった。

だが、寒村に来てひと月経ち、いい加減女子とデートやそれ以上の事を望む気持ちは否定出来なくなって来ており。

クラス半分の女子は古舘を含め、僕の価値観から見て並以下。全校女子生徒を見回しても僕の心の吟線に触れる女子は皆無であった。

流石にこの頃から都会が懐かしくなって来て、精神的にやや不安定になって来ていた。

読モやっている美嘉に会いたい。莉奈はドラマのオーディション通ったのかな? ネットのニュースで彼女達の活躍に触れる度に、徐々に都会への帰巣本能が耐え難きものとなっていく。

こんな様子の僕を広田は心配してくれ、

「やっぱ東京恋しいよな、高校出だら一緒さ東京の大学行ごうぜ」

と慰めてくれる。

「その丸刈り頭で何が東京よ。片腹痛えわ」

古舘が呆れ果てて突き放す。

広田と一緒に東京は確かに勘弁だな、少し笑えた。


翌週の火曜日。

突如、紫波かなえが登校した。

僕が授業開始ギリギリに教室に入ると、クラスの雰囲気が異様に感じた。皆の視線をたぐるとそこに、彼女が座っていたのだ。

僕の左側の席に。

彼女を一目見て、絶句する。

東京の僕のグループにも、周りのグループにも居なかった、超絶的な美貌。

長い漆黒の髪はまるで日本人形のようである。真っ白で小さな顔は流行りの3Dを思わせる程の完成度だ。細く尖った顎、切れ長の大きな目。欧米人のような細く気高い鼻筋。座っているのでスタイルは分からないが、もう顔の雰囲気だけでアイドル顔負けのオーラを醸し出している。

授業開始の鐘が鳴り、僕は正気に戻る。

自分の席につかねばならないのだが、その為には彼女の前を通らねばならない。だが僕の足は前に進む事を許さずその場に立ち尽くすしか術がなかった。

広田が大声で、

「おい水沢、早ぐこっち座れや」

と怒鳴ってくれなかったら、いつまでも木偶の坊の如く立ち尽くしていただろう。


背中に大汗を流しながらようやく自分の席に座る。その瞬間、えも言われぬ芳しい香が僕の鼻腔をくすぐる。その瞬間に眩暈に襲われ、思わず机に突っ伏してしまう。

何なのだ?

彼女は、紫波と言う彼女は一体何者なのだ? 

こんな片田舎にどうしてこんな超絶美少女が存在しているか?

そして、どうしてそんな彼女が僕の隣の席に?

数Bの授業が始まるも、教師の声は馬耳東風。僕の五感は左隣に全集中していた。

授業も中頃。不意に左隣から声がかかる。

「ノート見せでぐれねぁー?」

思わず彼女を直視する。

軽く首を傾げ大きな瞳が僕だけを映している。

「あどで今までのどごろ写させでぐれねぁーがしら?」

その小さく美しい唇が奏でる盛岡弁。今まで生きて来た中で最も美しい方言、いや日本語。

僕は全身真っ赤になりながら、深く首を縦に振る。


元々大人しい性格なのだろう、古舘が如何に話を振ろうと中々乗ってこない。広田があの手この手で話を振っても、困った顔で首を傾げるだけ。

それでも僕ら四人で昼の弁当を屋上で食べたのだった。一緒にどうかと古舘が誘うと意外にも頷いて僕らの後をついて来たのだ。

食べながら出身中学や両親の話を聞いても、一言で返すだけ。それ以上聞いてくれるなオーラとバリアを張り巡らし、それでも楽しそうに僕らと弁当の箸を突くのだから訳が分からない。

直情的な古舘が、無理に自分らに合わせなくて良い、辛いなら離れればと問うも、微笑して首を振るばかり。

空間察知能力にやや欠ける広田が明日からも毎日一緒に食事しようと提案すると、

「どうも」

の一言。

それでも古舘が執拗に出身中学を尋ねると、どうやら山間部の過疎地出身、同級生はゼロ、通学が困難なので高校の近くのアパートに一人暮らしをしている事を突き止める。

そしてそのアパートはどうやら僕の借り上げ住宅の近所だという事らしい。

その日、僕と彼女はこのような経緯の末帰宅を共にしたのであった。


高校から家まで徒歩で二十分。

広田と古舘に見送られ僕ら二人は帰宅の途につく。

都会仕込みのコミュ力が通じない、いや違う。

僕は彼女があまりに尊く、話しかけることが出来なかったのだ。

彼女は東京に全く興味が無く、その線の話は拡がらない。趣味も分からず、得意のグルメ、ファッション話も開花せず。

無言のまま、川沿いの道をトボトボと歩いている。

こんな惨めな無惨な気持ちは初めてだ、ましてや女子と二人きりでこんな思いをするとは思わなかった。

今まで僕の周りにいた女子は、僕といると話が面白い、一緒にいて楽しい、と言ってくれていた。僕には天性の性分があるのだろう、女子に嫌われた経験は皆無だった。

だが、今の僕は。

思いを口に出せない。言葉が喉を通らない。思考がまとまらずどうして良いか全く分からない。

何故か?

理由はただ一つ。あまりに彼女が美しいから。

美し過ぎて、尊過ぎて声をかけることが出来ないのだ。きっと敬虔な信者が本尊にある金色に輝く仏像を見て言葉が出ない状況に等しいだろう。

そう、僕から見て彼女の美しさは神なのだ。

直視してはならない、気軽に話しかけてはならない、そう思わせる程の美しさを僕に見せつけているのだ。

僕は彼女との会話を諦め、川沿いの桜の樹を見上げる。未だ三分咲きの桜が東京との違和感を増大させる。二週間前の豪雪の名残雪が道端に薄汚れて退けられ、己の心の陰鬱さを垣間見た気がする。

だが。隣の美少女の気配が僕の心の澱を浄化してくれているのだろうか、心はこの地に来てからかつてない程軽く暖かく、手を離せば冷たい青空のどこまでも高く昇って行きそうな気がする。

そんな彼女がポツリと呟く。


「水沢ぐん、下の名前は?」

水沢翔、と答える。

「翔ぐん。素敵な名前だね」

ありがと、と呟く。

「ようやく、出会えたのかも知れないわ」

突如、彼女の口調が変わる。僕は立ち止まり彼女を凝視する。

彼女も立ち止まり、僕を見上げながら、

「貴方になら、本当のことを話してもいいかも知れない」

これまでの朴訥な方言は一切なく、冷たい口調で僕をキッと睨みつけながら、

「これから私の家に来てくれるかしら?」

唖然としながら僕は頷くしかなかった。

何? 何? 

僕の脳内は更に混沌と化し彼女の背中を追うだけだった。


彼女のアパートは僕の家から五分ほどの築三十年は経とうかと言うほどのボロアパートだ。二階に昇る階段は軋みいつ崩落してもおかしくない。手摺は錆び付いており、下手にもたれれば手摺と共に落下してしまうだろう。

鍵を開けて部屋に入る。

真っ黒なカーテンが窓を遮り、部屋の様子がよく見えない。

玄関でスニーカーを脱ぎ、部屋に上がる。部屋の中は乱雑としており、とても彼女の容姿からは想像も出来ない散らかり方であった。

それでも久しぶりに女子と部屋で二人きりと言う状況に僕の雄の本能は刺激され、深々と彼女の部屋の空気を吸い込んで気を紛らわせようとするも、室内に干してあった彼女の下着類が目に入り、言われもしないのに床にしゃがみ込んでしまう始末であった。

そんな僕を不思議そうに見下ろしながら、彼女は台所で湯を沸かし始める。

「散らかっていてごめんなさい、まさか人類をお招きするとは想定していなかったから」

と呟きながら紅茶を用意してくれている。

吊るされている下着から意図的に視線を外し、背筋を伸ばして座っていると

「でも、我慢できなくて。ようやく見つけることが出来たのだから」

そう言ってフッと微笑む彼女を呆然と見つめる僕である。


「これから話すことは、もちろん他言無用なのだけれど」

湯呑茶碗に淹れられた紅茶を差し出しながら、

「翔くんが私の話を信じてくれるかどうか、少し不安だわ」

そう言いながら視線を落とす彼女に、無意識のうちに君の話しは全て信じるよ、と答える自分にやや戦慄する。

「良かった。貴方ならそう言ってくれると信じていたの」

僕の正面に座る彼女のスカートの奥に、神秘的な白色が垣間見えている。僕は唾を飲み込み彼女の話しは全て信じよう、そう誓う。

誓った、のだが。

これは、ちょっと……

「ねえ翔くん。ゼロポイントフィールドって知っている?」


「この宇宙にはね、普遍的に存在する量子真空があるの。その中にね、ゼロポイントフィールドって呼ばれる場があるの。この場にはね、この宇宙の全ての出来事の全ての情報が記録されているの」

僕は、唖然としながら彼女を見詰める。

「これはね、仏教の唯識思想における阿頼耶識と呼ばれる意識の次元にも通ずるわ。また古代インド哲学のアカーシャの中にも似たような考えを見出せるわ。即ちね、過去から現在までの出来事だけでなく、未来の出来事の情報までもこのゼロポイントフィールドには存在するの。」

自慢ではないが、僕は宗教だの物理だの大の苦手であり、君子危うきに近寄らず、なのである。

「そしてこれらの情報はね、量子力学的な波動情報としてフィールドに記録されているのよ。簡単に言えばね、波動干渉を利用したホログラム原理で記録されているの」

大真面目に語り続ける彼女。これまでの僕ならば即座に席を立ち、逃げ帰っていただろう。だが、彼女の尊厳の前に僕は立ち上がることも出来ず、時折チラリと見える秘密の純白に目を奪われ身体を動かすことも不可能だ。

「私、この波動情報を読み取ることの出来る、唯一絶対的な存在なの。宇宙の絶対神ディオ・コスミコの遣わした、エハッド・ナヴィ。それが私」

不意に彼女は立ち上がる。上半身を不可思議にくねらせ、下半身は相撲の四股を踏む体勢だ。意味不明な奇声を発し始め、それに合わせ謎の踊りが始まる。

時折足を高く上げるお陰様で、神秘の純白がその都度拝めるのが堪らない。気がつくと僕は床に這いつくばり彼女の踊りを崇め奉っているのだった。


踊りは二十分ほど続き、やがて彼女は大きく息を切らせながら床にしゃがみ込む。

外が暗くなって部屋の中は更に暗くなり、残念ながら全開の彼女の両足の奥を視認することは不可能であった。

それでも彼女の汗の匂いが仄かに鼻腔を掠め、失った視覚を十二分に嗅覚が補ってくれている。

それにしても。

彼女がこれ程痛い子だとは思わなかった。

俗に言う、『厨二病』とでも言うのだろうか?

いや、高校二年生なのだから『膠二病』か。ニカワの如く鬱陶しい、自己承認欲求。彼女は僕に何を認めてもらいたいのだろう。

確かに先程の事を学校で宣えば、周りからは『変わり者』のレッテルを痛貼され除け者にされるだろう、ましてやこんな田舎町だけに、本当に村八分にされてしまうかも知れない。

然し乍ら、何故に僕?

暫く考えて、ああ成る程と頷く。

僕は東京から越して来たばかりで土地の事もよく分からない部外者。そして自分に興味を持つ男子。だから何を曰うても害は周囲に広がることはまず無い。安全無害、人畜無害。それが僕の彼女にとってのレゾンデートル。

僕にしても、こんな都会でも見たことのない美しい女子と近づけて素直に嬉しい。それに知識も学識もない僕には彼女の言っている事が全く理解出来ないから、ただ頷いているだけでいい。一緒に探求する脳もないから、そうなんだ、成る程と言っていれば良い。

そんな僕を、満足そうに見下ろす彼女。

紫波かなえ。

真っ暗なアパートの部屋の中で、ようやく僕はこの土地での生き甲斐を見出した。


桜が満開になった四月の下旬。

僕、かなえ、古舘、広田の奇体な四人組は不可思議な縁で結び付けられている。

あれからかなえは毎日登校している。そしてあっという間に授業に追い付き、僕のノートを凌駕し今では逆に僕がかなえのノートの崇拝者となっている。

小テストの成績もダントツで、五月末の中間考査ではトップ間違いなしと周囲は噂している。

昼食は必ず四人で食す。

古舘が主に海産物を、広田が農産物を豊富に用意してくれるのが堪らない。どれも朝採れの新鮮な素材ばかりで、東京では決して味わえない弁当を毎日満喫出来るのがただただ嬉しい。

かなえは実に少食で、おにぎり一個でお腹いっぱいになるという。そのせいか、全体に実に細い。僕はどちらかと言うと少しふくよかな体型好きなのだが、それはどうでも良い。

常に身体に合わないサイズの服を着ているので、イマイチ胸の大きさが分からない。でも、どうでも良い。体型だの胸の大きさだの、どうでも良い。

それ程僕はかなえの美貌に夢中になりつつある。

四人でいる時には、いや学校にいる時には、かなえは大人しい雰囲気を張り巡らせ、大声で笑ったりする事もない。

四人で放課後に漁港にある喫茶店に行く時も、ひたすら聞き役にまわり自分が発言し意見を述べることはまず無い。


そんな物静かなかなえなのだが。

古舘と広田と別れ、二人きりになるや否や。

「そう言えば翔くん、昨日の夜銀河系第一七支部から連絡が入ったの。今後この星ではね、四年周期で乳首のお化粧が流行るそうよ」

ち? く? び? ですか?

「ええ。私も昨夜色々と試してみたのだけれど。ああ、これからウチに来ない? それで色々見て評論して欲しいの。どうかしら?」

僕は今日ほど生きていて良かったと思った日は無い。浮かれに浮かれ彼女のアパートで乳首ファッションショーを堪能させて貰ったのだが、結論としては今の人類にはちょっと早過ぎるかな、と言うのが僕の正直な感想であった。

因みにこの日から三周期過ぎたが未だに巷の女性雑誌で乳首ファッション特集号というのを見た試しがない。

当のかなえも以来その話を持ち出すことは無く、あれはどうなったと後日聞くと実に嫌な顔で僕を睨んだものだった。


ゴールデンウイークは家族四人で東京に戻った。久しぶりの東京、と言っても二ヶ月ちょっとしか離れていないのだが、は実に刺激的であった。旧友との再会では、なんだ全然変わってないじゃん、と言われ心底ホッとしたものだった。

美嘉や莉奈とランチし、田舎の悲惨さを語ると大いに同情してくれた。大学は東京に戻るんでしょと問われ、ハッキリとそのつもりだと言うと笑顔で喜んでくれたのが嬉しかった。

やはり東京の女子は全然違う。かなえも相当な美少女だが、こうして眺める美嘉や莉奈には足元にも及ぶまい。但しかなえが彼女達のファッションと化粧を真似た時、どうなるかは薄々理解していたりした。

久しぶりの代官山のカフェでメニューを眺めている時、ふと漁港前の喫茶店を思い出し、しみじみと都会の素晴らしさを実感したりした。

仲間達と過ごした僅かな時間に、如何に今の自分が本来の自分から隔絶しているかを思い知らされ、帰りの飛行機の中でポロリと涙が一雫溢れてしまった。


五月末の中間考査では周囲の予想通りかなえがダントツの成績を残す。そして僕が全校で七位という成績が発表されるや、母親が狂喜乱舞し

「翔ちゃん、東北大狙っちゃう? それとも北大?」

これも波動干渉の賜物なのだろうか……

頭の良い人間と行動を共にしていると、その人間の波動を吸収し行動形態が著しく変化していく。ああ、僕も膠二病に罹患したのだろうか…

東京時代は試験前でさえ全く勉強せず成績は下から数えてナンボであったのだが、かなえの行動に共鳴し僕も試験前に勉強する習慣がついてしまった。ノートを見せて貰いわからないところは徹底的に教わった。

その結果が出ただけなのだ。


六月に入ると、かなえの突飛な言動が更に加速していく。膠二病の病状悪化と捉えてよい。

「銀河系条例に従って、身を清めに行くから翔くんも付き合いなさい」

何のこっちゃ? とある日曜日に呼び出され、電車に揺られ付いていくと、とある人気のない砂浜に僕とかなえは全裸で立っており。

「全身を冷たい海水で清めるのよ。これを毎年しておかないと健全な波動が保てないのよ。さ、入るわよ」

六月の、東北地方の太平洋岸の水温。

かなえの全裸に興奮する余裕など微塵もなく、僕は縮こまる己を慰めながら針が突き刺すような水の冷たさに耐えるだけだった。

ふとかなえの方を眺めると、あまりの寒さに唇が真っ青になっており。そして黒目が上に上がったかと思った瞬間、彼女は気絶し水面下に消えていった。

慌てて彼女を抱え起こす。水深は七十センチくらいなのだが。砂浜に抱えて行き、そっと横たえる。

真っ白なかなえの全裸。曇天の下に横たわる無垢なる純白の奇跡。

縮こまっていた己が隆々と聳え立ち、全身に血が沸るのを感じる。何という美しい身体。肉のたるみなぞ微塵も無く、神々しい程の完璧な肉体。但し、双丘は相当お淑やかであったことが悔やまれる。

何度唾を飲み込んだだろう、我慢の限界が近づくのを感じる。そして限界突破を自認したその瞬間、彼女は目をパッチリと開く。そして僕を下から見上げ。

僕の己をマジマジと眺め。

細く冷たい悲鳴が砂浜に鳴り響く。まだまだシーズンには程遠い砂浜に絶望と苦悩の悲鳴が響き渡る。僕の己は無惨にもかなえの投じた砂まみれとなり、更には砂に混じっていた小貝の破片が表皮を切り裂き、全治二週間の擦過傷を負う羽目になった。


バスタオルで身体を拭き、服を着て砂浜を後にする。一羽の鴎が僕を嘲笑うかの如く宙を舞う。

かなえはそれ以降僕を見向きもせず、言葉も一言も交わさず。

三陸鉄道北リアス線に揺られながら僕は変わりゆく景色を呆然と眺めている。かなえは僕と十五センチの距離をとり目を閉じている。

いく程立った事だろう、かなえがポツリと呟いた。

「エハッド・ナヴィは永遠の処女でなければならないの」

僕はああそうなんだ、と溜息混じりに吐き出した。

「だから。ダメなの、そういうことは」

僕は絶望と欲望の狭間で頭を抱える。

「貴方なら分かってくれると信じていたのだけど」

ハッとして彼女を見つめる。

「それでも、良ければ、これからも、貴方と……」

僕と?

「貴方と、寄り添っていけると思うのだけれど……」

それってエッチなしのお付き合い、という事なのかな?

「エッチって…… いやらしい。恥ずかしい」

真っ赤になって俯くかなえ。

「でも、ええ。その通りなのかも知れないわ。肉の欲を解脱した純粋なお付き合い。貴方はそれが出来て?」

僕は頭を抱えつつそれを考えてみる。

正直。かなえを抱きたい。飽きるほど抱きたい。果て尽くすまで出したい。

だが膠二病が完治するまではそれは無理らしい。それでもいいのか? 清い交際でも良いのか?

答えは意外に簡単だった。

気がつくと僕はかなえの手を握りしめ、何度も何度も頷いていたのだった。


この事は予想外に早く知れ渡ることになった。翌日の月曜日の放課後には全生徒の知るところとなり、広田はしきりに首を傾げつつもこの事実を渋々受け入れてくれた。

古舘は案外すんなりと受け入れてくれたようだ。と言うか、前々から僕たちの雰囲気を察していたらしく、

「えがったでねぁー。精々仲良ぐしなさいね」

と言ってくれた。

何人かの男子生徒に影を踏まれたものの、僕への当たりはそれ程厳しいものではなく、割とすんなりと二人の仲は公認された様子であった。

然し乍ら彼女の僕への感情は恋愛と言うよりも同じ新興宗教の同志、的な意味合いらしく、その後手を繋いだりとかキスしたりとかの展開には至ることなく夏を迎えるのである。

何とか苦労の末に二人の写メを撮り東京の仲間にメールすると、岩手にこんな美少女がいるとは知らなかった、お前には勿体無い、田舎で調子こいてんじゃねえ、等々の言われようで苦笑いしか出なかったものだった。

それでも、都会から離れ荒みかけていた僕の心は大いに潤い、青春を大いに謳歌してやろうと言う前向きな精神状態になれたことは大きかった。

いや、そうではない。

生まれて初めて心底好きになった女子の存在に、舞い上がる気持ちを抑え込むのに四苦八苦している自分に酔っていたのであろう。

生まれてきて良かった、不本意な引越しを受け入れて本当に良かった。それが当時の純然たる気持ちであったことは間違いない。

そして、来たる夏に過剰な期待を育み、何とかしてかなえと結ばれたい、そんな欲望丸出しの春の終わりを悶々と過ごしていたのであった。


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