夜のベランダで
晴れているのに殆ど風は無く、12月だというのにそれほど寒くはない。
上記した頬に夜気が心地よい。
間近に見えるホテルの華やいだ明かり、離れて見える新都心のビルが、宝石箱のよう。
晴れた日にはそのビル群のやや左手上方には富士山が見えるという。
今は、ただ黒く暗く山影さえ見えない。
そのもっと上。頭上に近い所では、冬の星座が冷たい美しさを競う合っていた。
遥はその星の美しさに魅了された。
「遥さん、一人でなにしてるの?」
浩司だった。
「ちょっと、夜気にあたりに。」
「何、気取ってるんだよ。」
「じゃ、浩司君は?」
「ちょっと、夜気にあたりに・・・・・・なーんて。」
「いやだ。浩司君たら。
そういえば、就職、決まったんですってね。」
「おかげさまで、新鋭出版社に決まりました。」
「新鋭出版社? それ、何? 何で?」
おめでとうの前にそんな言葉が飛び出してしまった。
「新鋭出版社って知らない?
ま、いっか。 知る人ぞ知る出版社だから。
それに、出来たてほやほやでもないけれど、比較的新しい会社だし、
小さいから、知らなくても仕方ないか。」
「なに、ぶつぶつ言っているの?」
「ねぇ、この俳句知ってる?
『山桜 炭酸色の少年の息』っていうの。」
「知らない。初めて聞いたけど、誰の句? 浩司君が作ったの?」
「ううん、僕じゃないんだ。僕が所属している句会の先輩が作ったんだけどね。
どう、思う?」
炭酸色という言葉から今しがた乾杯をしたシャンパンが脳裏を横切った。
しかし、この2つは何と遠く隔たっていることだろう。
この句にシャンパンは似合わない。
遥にはそう思われた。
「とても良い句ね。 私、好きだわ、その句。」
「そう、思う? 僕もとても気に入っているんだ。
そう言っちゃなんだけど、自分でもあまり書いたり作ったりする能力は無いと思っているよ。
だけど、作品を見る目に関しては結構良いものを持っていると思うんだ。
だから、優れた文学者や文学作品を掘り起こして、紹介する。
それが、僕の夢というか、志というか。
まあ、天職だと思うんだよね。
それで、出版社に就職したってこと。
今に新鋭書店を知らない人なんかいなくなりますよ。
僕がきっと、天下の新鋭書店にしてみせますからね。」
「すごい意気込み。」
「僕はね、何年も前から、感性においては、サルトルよりカミユの方が優れていると思うんだ。」
「え?」
「ま、この比較は妥当かどうかわからないけれど、哲学という部分はのぞいて、小説だけをとってみれば、この説は広く受け入れられると思いますよ。」
「そんな比較なんてあるの?」
「あるかどうかは分からないさ。
でも、僕は是非それをやりたいと思っているんですよ。
『小説家としてのサルトルとカミユ論』なんていったりして・・・・・・。
ところで、遥さんは高橋英三郎の講義とってます?」
「ええ。 今、とってます。」
「ほんと、それなら気をつけた方が良いですよ。あの先生、ふかしだから。」
「なに、それ?」
「実は、僕もあの先生の講座をとったんですけどね。
期末試験の直前の授業の時、こう言うんですよ。
『今日の講義は試験には出しませんから特に聞かなくても良いですよ』って。
だから、すっかりその気になってたら、何と、何と、試験問題はすべて、その時間の講義のものだけだったわけ。
もちろん、それじゃ、手も足も出るわけないでしょ?
本当に参ったなぁ。 あれには。」
「ほんとう? 気をつけなきゃね。」
「そんな寒い所で何時までも何話しているの?」
郁美だった。
「そうね。少し冷えてきたようだから、中へ入りましょうか。」
遥がそう言うと、
「はい。それでは、今日のレクチャーは、これにておしまい。」と
浩司がおどけた調子で言った。
遥は、浩司のおどけた言葉の向こうに何かひたむきなものを感じていた。
3人は部屋へ戻った。