激動の20代
「いつ頃からだったか、はっきりは覚えていないけれど、
高校の時には丁度、今の遥さんと同じような疑問があったの。
一体どうしたら幸せになれるのかなって。
でも、それ以前に何が幸せなのか、それも良く分からなかったの。
だから、誰にも相談も出来ないじゃない?
まさか、「私の幸せって、何でしょう?」なんて、聞けないでしょう?
どうしたら良いの? どうしたら良いの?
早く決めないとダメなのに・・・・・・。
今ならまだ間に合う。
でも、明日では、遅すぎるかもしれない。
お願いだから、誰か教えて!
そう思っているうちに進路を決めなくてはいけなくなって、
仕方が無くて、自分でくじを作ったの」
「え? 籤?」
「そうよ。 理科とか、科学とか、国文学とか、英文学とか、
思いつくものを小さな紙に書いて、
目をつぶって、「えいや!」と引いたの。」
「それで?」
「そうしたら、「法科」が出てきたの。
でもね。法科なんて、六法全書とか読まなければいけないのだろうし、
何だか難しそうな法律用語は見るだけでも嫌だったの。
だから、もう一度引いたら、
今度は国文学と英文学とが2枚重なったのを引いてしまったの。
どうしようかな? と、思ったけれど、
英文学の方がカッコいいかな? と、思って、英文科にしたわけ。
それに、その頃は海外へ行きたいという夢のようなものもありましたしね。」
芳子は首をすくめて笑った。
「まあ、似たような経験をしているのね」
寿美子が話を引き取った。
「籤こそ引かなかったけれど、私は高校時代の英語の先生にあこがれていて、それで、英文科に決めたの。
それに、私だって、法律などというお固いものはノーサンキューでしたものね。」
「でも、安西さんはたしか、法律事務所へお勤めですよね。」
「ほんとに何の因果なんでしょうね。
と、言っても、法律事務所へ入ったのはずっと後の事よ。
大学を出てから、最初は商社へ入ったの。
昔のことですから、コンピューターなんか勿論なくて、タイプライターの時代よ。
しかも、手動の。
タイプを打つのは面白かったし好きだったの。
事務もきらいではなかったし、それなりに、興味を持ってお仕事をすることはできたの。
でもね。当時は男性と女性では、すぐに待遇が違ってしまうのよ。
男性は3か月も経つとワンランク昇進してお給料も上がってしまうの。
勤務実績とか貢献度とか、そんなものは全く関係が無くて、男性か女性かの違いだけでなのよ。
1年もたつと男性は海外へ派遣され始めるのだけれど、女性はいくら頑張ってもまず無理。
そんなことが分かって、どうしようかと悩んでいる時に、今の法律事務所のパートナーのMr.クラークからお話を頂いたの。
「こんど、新しくパートナーとなった弁護士さんが秘書を探しているのだけれど、如何ですか」って。
「法律の「ほ」の字も知らないし、具体的に弁護士さんのお仕事も知らないのですけれど、よろしいのですか?」って、伺ったら、
「大丈夫です。
英語が分かってタイプが打てれば十分です。
それに、あなたの性格は秘書に向いていると思いますしね。
法律用語と、弁護士の仕事の内容は少しずつ覚えて行ってもらえば良いのですから」って。
それで、とにかくやってみようと思ったの。」
「知らなかったわ。寿美子さんがそんな経験をお持ちだなんて。
芳子の言葉に寿美子がいたずらっぽく答える。
「そうよ。私は秘密多き女よ。」
「いやだ。そんなに笑わせないでくださいよ。」
「それで、法律事務所のお仕事って、どういうお仕事なんですか?」
遥が聞く。
「その頃の秘書は、タイピストと言っても良いかもしれないわ。
とにかく、書類作りがお仕事の中心でしたから。
それこそ、朝から晩まで、ううん、深夜までタイプを打ちつづけたの。
でも、私は、タイプを打つのが好きだったし、忙しいのも嫌ではなかったの。
それに、自分の作成した何百万ドルという契約書が調印されるのかと思うとわくわくしましたね。
今の法律事務所は結構規模が大きい事務所ですけれど、一般の会社とは違って、言ってみれば商店連合会みたいな所なのよ。」
「商店連合会?」
「そう。弁護士さんは自分の商店で仕事をしているような感じなの。
つまり弁護士さんはそれぞれ独立して仕事をしていて、お隣の弁護士さんが何をしているかという事は大体分かるけれど、細かい事までは分からないわけ。
だから、商社のように全社を挙げて、一つのお仕事をするようなことは無いのよね。
もちろん、自分の手が空いていておとなりの秘書の方が忙しい時にはお手伝いするけれど、コピーをとったりとか、製本したりとか、あまり内容に関係のないお手伝いくらいしか出来ないのよ。
とにかく、私の場合は安達先生のお仕事がうまく行くように、書類を正確に美しく作ること。
先生の予定を把握して、要領よく業務を進めて行くこと。
先生のお留守の時にも、お客様が困ることがないようにすること、などなどなど。
要するに先生と私の二人のお店みたいなものなのよ。」
「そうなんですか。それでは、先生との相性が問題ですよね。」
「そうなのよ。
その点、安達先生は本当に素晴らしい先生なの。
弁護士さんとして優秀なだけではなくて、人間としても尊敬できる方なの。
だから、私も今までやってこられたと思うし、先生と出会えて本当に良かったと思っているのよ。」
「Mr.クラークには足を向けて寝られないわね。」
笑いながら芳子が言う。
「そういう事。」
「それで、今、お幸せなんですね。」
遥が訊ねた。
「幸せかどうかは分からないわ。
結局、結婚もしないでこんなにおばあちゃんになってしまったし。
でも、充実していたのは確かだから、こんな人生も良かったかもしれないと思っているの。」
様々な思いが去来するのだろうか、寿美子は口を閉ざすとグラスの中のシェリー酒をじっと見つめた。
(きっと、安西さんは悩みながら、必死に生きて、現在の境地に至ったのだろう。)
遥の心にそんな思いが湧いた。
「何だか、年寄りの愚痴みたいな話をしてしまってゴメンナサイね。」
寿美子は顔を上げると優しく遥に言った。
「いいえ。そんなこと。有難うございました。」
「遥さんはもっと若い方たちの輪の方が良いかもしれないわよ。
ほら、向こうの方、ずいぶん盛り上がっているみたい。」
芳子が言った。
確かに郁美を中心にして話がはずんでいるようだ。
しかしながら、今の遥はその賑やかな輪の中へ入っていくことにはためらいがあった。
頬が上気しているのが自分でも分かる。
少し、夜気にでも当たってみよう。
そう思って、遥はベランダへ出た。