白雪姫は雪と共に眠る
ふと、夜空を見上げると雪がちらついていた。
天気予報ではそんなことを言っていなかったが、予想以上に冷えた今日は、思わず夜空も耐えることが出来ずに雪を降らしたのだろう。
東京の街を歩く恋人たちは立ち止まり、両手でその雪の結晶を優しく乗せ、「綺麗だね」と愛を囁いていた。
私もふと立ち止まり、手のひらに雪を乗せる。
その小さな結晶は綺麗な形を象りながら、手のひらの温度でじんわりと溶けて、それは水滴となった。
この季節が来るたびに、思い出してしまう。
全ては雪のせいだ。
私は夜空の遥か遠くで瞬く星に、あなたを思い出していた。
◆
「東京からやってきました。白井 姫乃です。よろしくお願いします」
白井はか細い声で、お辞儀をした。
冬の声が遠からず聞こえる11月の初旬。あれは私が中学1年生の頃であった。
東京からの転校生が来ると、前日まで噂が盛り上がりを見せていたが、当の本人が挨拶をするなり、教室中がシンと静かになった。
皆は東京の人だというからもっと派手な奴が来るのかと期待していたが、案外、私たちと変わらない子で、むしろ私たちよりも大人しい女の子に、溜息まで漏らす始末であった。
「じゃあ白井さん、椎名さんの隣に空いてるからそこに座ってね」
そういうと彼女は無言で先生にお辞儀をして、一番左側の席列の最後尾の窓側の席にちょこんと座った。
東京からくるのだから、こんな田舎の雪国とは違う、もっと海で焼けた肌黒い子がくるのかとばかり思っていたが、彼女は白く透き通った絹のような柔肌で、それはまるでこの田舎町で見る新雪の色そのものであった。
「椎名さん、よろしくお願いします」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「う、うん。こっちこそよろしく」
私はよそよそしく笑った。
昔からこのようなタイプの子は苦手だった。
人見知りで、無口で、感情を表に出さないで、いつも笑ってばっかで、いったい自分がどこにあるのかわからない子。
本音を言わないことへのじれったさは、私にとって歯痒いものであり、気づけばそういう子を遠ざけて生きてきた。
だからこの子も他の子と仲良くしてもらえるように押し付けよう。私は子供ながらにそんなことを考えていた。
だが、一向に彼女には友達ができる気配がなかった。
それもそのはず、田舎の中学生にはあまりにも「東京」という言葉が強すぎたのだ。
私の叔父は東京で会社を経営している。
そのせいか、何度か東京にも足を運んでいるし、東京という都市は自分たちが抱いている理想ほどすごい場所でないこともよく知っている。
田舎で生まれ育った子供たちは、東京という言葉に忌避感のようなものを感じているようで、誰も話しかけようとはせず、結局彼女は友達が出来ないまま独りぼっちでいた。
結局私も彼女を気にしながらも、話しかけるタイミングが見つからず、早いもので1か月が経過していた。
季節は12月である。
田舎の冬は厳しいために、この時期になると、教室の前と後ろに業務用の大きなストーブが各教室に配置され、ゴーゴーと音を鳴らしている。
「ねぇ、白井さん」
「なんでしょうか……?」
「東京はどこに住んでたの?」
私はふいに彼女に質問した。
好奇心だとか友達だとかそんなものではなくて、ただの暇つぶしであった。
「中目黒です」
「中目黒!?高級住宅地じゃん」
「そう……なんですか?」
「そうだよ!」
私はあまりにも驚いた。
よくよく彼女を見てみれば、その顔立ちは芋臭さの残る田舎の学生とは違う、洗練された風格を纏っており、彼女が使うペンケースも、白い革地に金色の英字が刻印されたこ洒落たもので、皆が遠ざける理由も嫌に納得せざるを得なかった。
「ねぇ、あなたってなんでこんな田舎に来たの?」
「それは―――」
彼女がそう言いかけた瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。
言いかけた口は空気を噛むようにしてパクパクとし、そして静かにそれを閉じた。
私はその言いかけた言葉の先が気になり、無意識に私の口が開いた。
「―――一緒に帰らない?」
その言葉に、彼女は驚き呆けた顔をしていた。
「お父さんがね、借金しちゃって自殺しちゃってね」
淡々と事実を話す言葉に、冬の冷たさとはまた違う冷たさを私は感じた。
畏敬の念と言えばよいのだろうか。
親を亡くすということが、私にとっては非日常、それこそ小説の中の出来事なのだと思うぐらいに平和ボケしていたものだから、それを淡々と話す彼女に恐怖のような感覚を覚えた。
彼女はそれから自分がここに来た理由を話し始めた。
父は中小企業の社長だったらしく、そこそこのお金持ちであったが、その会社が倒産し、借金に首が回らなくなり自殺したのだという。
母はその自殺を気に精神を病み、精神病院へ入院し、引き取り手として母方の実家へと引っ越すこととなった。それがこの田舎町だったために、こちらへと転校してきたということを包み隠さず話してくれた。
「なんか、ごめん……」
私は彼女の顔を見ることが出来ず、ぼそりと呟いた。
「ううん、大丈夫だよ。私ももう心の中は整理できてるから。こっちこそごめんね、気を使わせちゃって」
彼女は「あはは」と笑った。
その笑い声はどこか乾いていて、目の中の光は、今にも掻き消えそうな風前の灯のようにも見えた。
お互い顔も合わせず、ただまっすぐ家への帰路を歩いていく。
すると、自分の柔らかな頬に、ぴとりと冷たさを感じた。
ふと、上を見上げると、鉛のように分厚い灰色の雲から、ちらちらと白い雪が舞い落ちていた。
2人は立ち止まり、同じくして空に白い息を吐く。
それはふわふわと宙に浮き、冷たい空気の中へ溶けていく。
「雪……」
彼女は雪を両手で優しく掬い、小さなその結晶を微笑ましく眺めていた。
先ほどまで薄暗かった瞳の奥に、ふいに火が灯ったような、そんな温かさを私は彼女から感じた。
田舎町じゃ雪なんてそう珍しいものでもない。
なのに彼女の表情は、神様がくれた幻想的な贈り物かと想うほどに雪を愛でていた。
「この町なら雪なんていつでも見れるよ?」
冷えた言葉がゆらゆらと彼女へ飛んでいくが、その言葉は彼女の温かさによって溶けていく。
彼女の耳で言葉は蒸発し、心まで届くことはなかった。
すると、彼女は雪を見上げながら大きく口を開け欠伸をした。
それは煙突から出た白煙のように立ち上り、そしてまた冬の空へと消えいく。
「なんだか、少し眠たいや」
彼女はただぼうっと、虚ろ虚ろとした眠気眼を泳がせていた。
◆
雪は一度降り出すと止まらない。
12月の初雪を迎えてから、連日雪が降り始めていた。
豪雪地帯ではないものの、この田舎町での雪はそう珍しいものでもない為に、この町の人たちはいたって平常な一日を過ごしている。
ただ一人、彼女だけを残して。
私は彼女の暗い過去を知ってからというもの、積極的に話しかけ、帰り道は一緒に帰るようになった。
最初は同情というものが先行していたが、今は友情というものに変わっている。
12月25日の終業式が終わり、私たちはとぼとぼと帰り道を彼女と2人して帰っていた。
ただ燦々と降る雪の中、沈黙が私達を包み込む。
その沈黙は、以前のどう話せばよいのかわからないという困惑ではなく、冬休み中の2週間はこうして帰ることもおしゃべりすることも出来ないという寂しさとなっていた。
「姫乃ちゃん」
「ん?」
「冬休み終ったらさ、隣町のショッピングモールにいかない?」
「いいよ」
彼女は微笑んだ。
その微笑は伝染し、私までも思わず顔が綻び、赤面した。
私の心臓が、大きく脈を打ち、息を浅くする。
きっと雪の冷たさのせいに違いない。
私は彼女の儚い笑顔を忘れぬようにと、胸に焼き付けた。
◆
「ねぇ、美咲ちゃん。一緒に遊びましょう」
「う、うん」
私は彼女の手に引かれるまま、森の中を駆けていた。
薄暗い森を走っていると、遠くに隙間から漏れ出た白い光が見え、私たちはそれに向かって全速力で走った。
そして私たちは森を抜けた。
そこには、どこまでも果てしなく続くその花畑が広がっており、私はその夢のような景色に思わず息を飲んだ。
「ねぇ、美咲ちゃん」
「どうしたの?」
「私ね、あなたのこと―――」
私は最後の言葉が聞き取れなかった。
けたたましいアラームの音が鳴り響き、その心地よい夢から目が覚めてしまったのだ。
私は普段、夢の事なんて大して覚えているほうではなかった。
なのに、今日見ていた夢は鮮明に覚えている。
湿った土の感触も、鼻をくすぐる花畑の香りも、彼女の手の温もりも、未だに私の先端にかすかに残っているためだろうか。
「美咲ー、起きないと遅刻するわよー」
下の階から母の声が聞こえる。
長い冬眠から覚めた熊のように、暖かな布団から一歩足を出す。
柔らかな足の裏には、ひんやりと床の感触が走る。
私は動こうとしない足を無理やり動かし、油を差し忘れた錆びついたロボットのように、ゆっくりと学校へ行く準備を始めた。
冬休みが終わり、ついに気怠い授業の始まりを告げる始業式の日がやってきた。
教室へ着くと、皆は久しぶりの再会に喜び、クリスマスプレゼントやら、お年玉の金額やら、帰省先の思い出話で盛り上がっていたが、私はどうも気分が浮かない。
あれもこれも私の隣の席にいるはずの姫乃がいないせいであった。
受けたくもない授業を受けようとなんとか学校に来れたのも、彼女と話がしたいという目的があったからこそなわけで、当の本人がいないことに腹が立ち、おまけにその怒りの矛先をあろうことか彼女に向けていた。
始業式の日の授業は特別で、オリエンテーションのみの授業となり午前中で帰宅となる。
午前が終わるチャイムが鳴り、帰宅しようと席を立つと、「あ、椎名さん。ちょっといい?」と担任の朝井に呼び止められた。
「白井さん、今日病欠でお休みみたいだから代わりにプリント持って行ってあげてくれない?」
「あ、はい。大丈夫です」
私は朝井からいくつかのお知らせが重なったプリントを渡された。
薄々気づいてはいたが、やはり病欠だったのかと少し不安にもなったが、彼女の家に行けるという喜びもあり、私は雪が積もる道の中を駆け走った。
彼女の家は昔ながらの日本家屋であった。
チャイムを鳴らすと、中から「はーい」という声が聞こえ、出てきたのは少し腰の曲がった白髪のお婆ちゃんであった。
「隣の席の椎名です。今日のプリントを渡しに来ました」
「あぁ、椎名さん!姫乃ちゃんからよくお話は聞いてるよ。寒いから上がって上がって」
言われるがままに、私は家の中に招き入れられた。
家の中は体に染みついた霜を溶かすほどに温かった。
「姫乃さんはどうしたんですか?」
「あぁ、姫乃ちゃんはね。今2階の部屋で眠っているよ。朝から気怠いから寝かせてって言ってそれからずっと寝たままなのよ」
「様子……見に行ってもいいですか?」
私はそわそわし始める。
「行ってあげておくれ、姫乃ちゃんも喜ぶわ」とお婆さんとともに、2階へと上がる階段を上り、彼女のいる扉の前に辿り着いた。
私の皮膚に一気に鳥肌が立ち始め、奥歯が少しカタカタと音を立ち始める。
1階はあんなにも温かったのに、2階はなんでこんなにも凍てつくほどに寒いのだろうか。
彼女の自室の扉をノブを捻り、中へ入ると、彼女は寝息を立てて静かに眠っていた。
私は思わず「お人形さんみたい……」と、彼女の美しさに見とれ、息をのみ立ち止まってしまった。
黒い髪に白い肌をしたその姿は、いつかの絵本で見た白雪姫そのものであったのだ。
私は恐る恐る彼女の眠るベッドへと近づき、そして彼女の手を握った。
彼女はピクリとも動くことはなかったが、私はその肌に触れたことに安心をしてしまった。
初めて握った彼女の手は、今にも折れそうなほどに華奢であった。私はそんな今にも崩れそうな彼女の手を、雪をつかむかのように優しく両手で包み込んだ。
あぁ、彼女と繋がっている。
私はそう想うと、声を出さずに涙を流した。
◆
『―――雪月症』
私がこの病気を初めて知ったのは、彼女が入院を初めて3日後のことだった。
それを聞かされた時、私はそれは絵本の中の物語だと勘違いするほどに、奇妙なものであった。
彼女はどうもその『雪月症』というものに罹ってしまったらしい。
世界的にも稀な病気であり、発症理由も謎なのだという。
だが、その病気の発現には共通点があり、罹患者はそろって雪の降る日に眠りにつくということであった。
眠りについている間に、罹患者の肌はだんだんと白くなり、不思議とお人形のように美しくなっていくことから、またの名を『白雪姫症候群』と呼ばれているのだそうだ。
私は白いベッドに眠る彼女の横に座りながら、ただ彼女がその眠りから覚めるのをじっと待っていた。
今まで見ることなんてなかったテレビの天気予報を逐一見るようになり、晴れになれ晴れになれと毎日のように祈った。
だが無情にも、雪は降り続けた。
途中、晴れの日もあり、長い眠りから彼女がふと目を覚ますこともあったが、朦朧とした意識は完全に覚めることなく、また眠ってしまうことを繰り返している。
私は彼女が起きているその短い時間にできる限りのことを話した。
英語のテストで100点を取ったこと、近くのケーキ屋で美味しいケーキの新作が出来たこと、隣町のショッピングモールに有名なカフェが入ったこと。
私は言葉を連ねた。息など忘れてしまうほどに。
彼女は私の話を聞きながら、うんうんと頷き、私が息を切らすたびに「ありがとう」と呟いていた。
私は面会後の帰り道はいつも泣いていた。
「ありがとう」と彼女が言うたびに、私の心の奥のほうがちくりと痛むのだ。
最初は下心だった。
「中目黒」に住んでいるなんて言うから、私は彼女はてっきりお金持ちで、この子と付き合っていれば何かいいことがあるんじゃないかと期待していた。
彼女は私の下心をもしかしたら見透かしていたのかもしれない。
それでも優しく笑って、いつも最後は「椎名さんって優しいね。友達になってくれてありがとう」と言ってくれていた。
いつしかその言葉が私の下心を食い尽くし、いつの間にかそれが罪悪感として居つくようになっていた。
面会前、私は病室の扉の前でいつも緊張していた。
私の話す言葉で嫌いにならないだろうか、私の態度が鼻につかないだろうか、そればかりが頭の中を駆け巡るが、いざ彼女と対面すると、今まで霧がかかっていた景色は霧散して、そこには綺麗な花畑が広がる。
「あぁ、そうか。きっと私、あなたのこと―――」
私は温かなベッドの中で夢を見ながら、涙で枕を濡らした。
◆
「寒冷前線が近づき、局地的に大雪となるでしょう」
テレビの向こう側で、天気予報のお姉さんが険しい顔で天気を告げた。
週間天気予報は全て雪のマークを表示し、私の背中がぶるりと震えた。
1月の雪は、連日降っても薄っすらと風景を雪化粧ぐらいであったが、2月に入ってからの雪はそれの比ではないと母に言われ、雪かきをする準備を家では整えていた。
なぜだかわからないが、嫌な予感がする。
学校の授業が終わると、私は急いで彼女の入院する病院へと向かった。
病院へと向かう途中、しんしんと音もなく雪が降り始める。
私はその雪が肌に当たるたびに、雪なんて溶けてしまえと涙目になりながら生き急いだ。
息を切らしながら病室へ入ると、そこには白衣を着た医者とそして泣きながら背中を丸める彼女のお婆ちゃんの姿が目に飛び込んだ。
子供のように泣きじゃくるお婆ちゃんの背中を看護師が優しく摩り、「大丈夫ですよ」とひたすらに呟いていた。
私が病室の中へ足を踏み入れると、皆の視線がこちらへと向いた。
私はただ茫然としながら、その風景を眺めていた。
そこからのことは未だに記憶が曖昧だ。
覚えていることと言えば、「白井 姫乃はこのまま眠り続けるだろう」ということであった。
私は『雪月症』のことなどよくわかっておらず、雪が止めばまた元通り起きるのだろうと思っていた。
だが、現実はそんな簡単なものではない。
積雪量が増えるとともに、彼女の体温はそれと比例するように徐々に低下し始めた。
人体というのは、熱を失ってしまえばやがてを死を迎える。
このままだと1週間で彼女は死を迎えるだろうと、医者は淡々と告げた。
こんな僻地の病院でできることなどたかが知れており、この稀な難病の対処療法なども確立されていないため、私たちはただ雪が降り止むことを祈ることしか出来なかった。
彼女が静かに眠っている間、私は彼女のお婆ちゃんから彼女が東京にいた時の話してくれた。
そこには私が見たことのない彼女の笑顔があって、私は思わず泣いてしまった。
彼女は淡々と父親が自殺したことや母親が精神病院で入院していることなどを話していたが、そんな風になってしまったのも、あまりにも都会の空気が醜悪だったからだとお婆ちゃんは泣き出してしまった。
彼女の周りにいた友達も、彼女の家からお金が無くなると分かれば友達でいることをやめ、その親たちも、ひそひそと「あそこ家は不幸だ。近づかないほうがいい」と囁き始め、そしてあろうことか彼女は受け止めきれる筈もない罪悪感を背負い、ある日、浴槽で手首から血を流しながら意識を失った姿が発見された。その時、母親も家にはいたらしいが、ソファーの上でぶつぶつと虚空を見ながら呟いていたのだという。
目が覚めた彼女の瞳の奥の光は、すでに輝きが消えてしまっていた。
不幸とは雪に似ている。
最初はただ一粒の小さな雪の結晶であったはずなのに、次第にそれは結晶同士が手を結びあって、より硬く大きく、その姿を変容させる。
彼女の中の小さな不幸が、次々と連鎖する不幸とつながり始め、気づけば自分を圧し潰してしまうほどになってしまっていたのだろう。
私は拳を握った。掌に爪が食い込むほどに。
悔しかったのだ。
ただ、のうのうと暮らし、両親がいて当たり前、友達がいて当たり前、幸せなことが当たり前と思っていた自分があまりにも情けなかった。
◆
次の日、私は花屋で花束を買った。
彼女にどんな花が似合うだろうと、花屋の店員に相談したが、結局私が選んだものは白い花ばかりで、いざ出来上がってみれば、純白の花束になっいた。
それがまるで、いつかのドラマで見た花嫁のブーケのようで、なんだか私は少し照れ臭くなってしまった。
私は花束を片手に、病室を訪れる。
彼女はすやすやと眠ったままで、私は彼女の横にあるテーブルに花瓶を置いて、手に持った花束をそこに生けた。
そして彼女の枕元の近くまでパイプ椅子を持ってきて、彼女に話すように、昨日の出来事を笑いながら話し始めた。
私には彼女の目覚めを待つことしかできないのだから、せめて私は彼女の隣で笑っていたいのだ。
それは次の日も、そしてまた次の日も続いた。
病室に響くのは、規則的になるバイタル音と彼女の寝息だけであったが、私はそんなことなど気にも留めず、話し続けた。
6日目のことである。
私はいつものように帰ろうとしたが、その日は特に雪の積もり方が早く、看護師から今外へ出るのは危険だからと言われ、日の落ちた後も病院を出ることができなかった。
母に電話をしたが、看護師と同じく「危ないから病院に居なさい」と言われ、私は初めて病院に泊まることとなった。
先ほどまでいた彼女の病室へと戻り、私はまたパイプ椅子に座る。
姫乃は相変わらず眠ったままだが、私にはそれが愛おしくてたまらなかった。
ふと、私に睡魔が優しく背中を撫でる。
「少しだけ……」と思った瞬間、私は夢の世界へと誘われていった。
そこは薄暗い森であった。
濃霧のせいか視界が見ずらく、私は当てもなく彷徨った。
木に当たらぬよう、慎重に前に手を伸ばして進んでいくと、私の前を駆けていく足音が聞こえた。
私はその足音の後を追いかけるように進んでいくと、遠くに霧から淡い光が漏れ出している場所があり、私は導かれるようにしてその光に向かった。
その光は次第に大きくなり、目が眩んで思わず「わっ」っと叫び、目を伏せる。
光が徐々に弱くなっていき瞑った目を開けると、そこには以前夢で見た花畑が広がっていた。
前には気づかなかったが、この花畑はなだらかな丘となっており、私は丘の頂上に向けてゆっくりと歩き始めた。
しばらく歩いていると、頂上のほうに、誰か人がいるのが見える。
目を凝らしながら進んでいくと、それは白いワンピースを着た姫乃の姿であった。
私は思わずその姿に息が止まり、そして慌てて走り寄った。
私が走っていくことに気付いたのか、彼女はこちらへと振り向き、微笑んだ。
「姫乃ちゃん!」
私は彼女に抱き着いた。
「どうしたの、そんな泣いて」
彼女は優しく私の頭を撫でた。
「ごめんね、ごめんね」
私は泣きながらひたすらに謝った。
彼女は何も言うことなく私の頭を胸元で優しく撫で、「ありがとう」と耳元で囁いていた。
「美咲ちゃん、あのね」
彼女は私の頭を撫でながら話し出した。
「どうしたの?」
私は喉を詰まらせながら答えた。
「私、もう行かなきゃいけないみたいなの」
「どこへ……?」
「空の向こうの、ずっとずっと遠くのほうだよ」
「いやだ、行かないで!」
私は彼女がどこかに行かないように、泣きじゃくりながら必死に抱き着く。
「美咲ちゃんなら大丈夫だよ。だって強いもん」
「私なんて強くないよ……。姫乃ちゃんがいない世界なんて」
「―――それ以上は言っちゃだめだよ」
彼女はそう言うと、私の首の後ろに手を回し、そしてそのまま唇を重ね口づけをした。
私は一瞬驚いたが、彼女から流れ込む温かさに溶け出し、そうしてゆっくりと身を委ねた。
「私ね、美咲ちゃんのおかげでこの場所に来れたんだよ」
彼女は空の遠くを見ながら言った。
「ここはどこなの?」
「わからない。だけどとても心地よくて、私は好きなんだ」
「そうだね」
あたりには、花の香りが漂い、風がそよぐたびに花の揺れる音がしている。
「ずっとここで美咲ちゃんを待ってたんだよ。来てくれてありがとうね」
「私をここで……?」
「うん。私ね、引っ越してきたとき、もう何もかも嫌になってたの。所詮、人なんてみんなゴミだとさえ思っていたの。だけどね、美咲ちゃんと話し始めてからそんなことないって思えてさ。やっと冷たい氷の世界から抜け出せると思った矢先にさ、雪月症に罹っちゃうんだもん。本当はもっと美咲ちゃんとどこかに行きたかったな」
「そんな……もっといろんなところに行こうよ!ね?雪が降りやめば目覚めるんだよ!」
「ううん、私はいいの。もう苦しくなりたくないの。せめて、美咲ちゃんとの楽しい思い出も、美咲ちゃんを好きなこの心も温かいまま抱いて、それで美しく死ねるのなら、私はそれで満足よ」
「そんなこと言わないで……!」
そういうと、次第に花畑がぼやけていき、あたりが眩しくなっていく。
「ありがとう、美咲ちゃん」
「待って……待ってよ!まだ私あなたに何も伝えてない!」
「美咲ちゃんからはたくさんのもんをもらったよ。本当にありがとう。だから最後に言わせて。私、美咲ちゃんのこと―――」
「姫乃ちゃん!私、あなたのこと―――」
2人の声が重なる。
『―――大好きだよ』
世界が眩い光に包まれ、私は夢から遠ざかっていった。
目が覚めると、いつもと変わらない彼女がそこにいた。
その手はひんやりと冷たく、ピクリとも動かない。
眠っているかのように見えるその姿は、まるで御伽噺の中の「白雪姫」のように美しかった。
「行ってしまったんだね」
私はそう呟き、彼女の頬を撫でる。
その表情は、少し優しく微笑んでいるようにも見えた。
◆
私は東京の夜空を見上げながら、初めての恋を思い出していた。
あの頃から、私は変われたような気がする。
未だに、あなた以上に「愛してる」って言える相手とは出会えてないけれども、きっといつかあなたの分まで幸せになろうと思う。
でも、もしわがままを言えるのであれば、もう少しだけ、あなたを感じていたかった。
大人になった今でも、雪を見るといつもそう願ってしまうの。
全ては雪のせいだ。
私の瞳に涙が潤む。
ここで止まっちゃだめだよね、姫乃ちゃん。
私は両手をコートのポケットに入れ、一歩、道を踏み出す。
「ねぇねぇ、美咲ちゃん。次はどこにいこっか」
雪に紛れて、優しい声が聞こえたようにも思えた。
おわり。
カクヨムコン短編応募作品
noteでもお話出してます。
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