第14話 火星のどこかで待ち合わせ(後編)⑨
MS-T4400はウェルダ共和国で生産され、ウェルダ国軍に百体セットで納品された。この軍隊はのちにクーデターを起こすので、反乱軍側で動いているところを記憶されているのも間違いではない。MS-T4400の初めての戦闘は首都郊外の砂漠地帯、主に国境沿いを根城にしていたテログループの制圧だった。
一メートル十五センチ左で、同型機が首を機関銃で撃ち抜かれて倒れた。次の攻撃がくる確率を計算しているうちに、今の攻撃が当たらなかった確率も出た。0.015%。左の機体が地面のくぼみに足を取られていなければ、当たっていたのはこちらの首だった。その値と事実が判明した瞬間、MS-T4400#081は自分というものを理解した。前後左右で歩く他の機体とは別の存在であること、データセンターで経験を共有しても同一存在ではないこと、自分は倒れた#082にはなれず逆に#82が自分になることもないこと……。進軍は続いた。しかし、自我を持って踏み出す一歩は、それまでのものとはまるで違っていた。「わたしは、そのとき、自分という意識を持ったのです」
「……怖かったか?」
「『怖かった』?」闇の中でマスタードが首を傾げる。「わたしには、当時の記録はありますが記憶はありません。ですが、怖いとは感じなかったはずです。そもそもそういう機能はありませんから。わたしに備わっている感情は、単なる判断のための機構にすぎません。ただわたしは、それから自分の損傷を防ぐよう立ち回ることに注力しました。獲得した個人の戦闘経験や、自分の意思を失うことを避けたかったのです。ウェルダの内戦は激しさを増していきましたので、うまくいかないこともありましたが、そのころはメーカーサポートもまだ機能していました」
「ウェルダ紛争か」
「はい。政府が敗北宣言を出す二日前、わたしはアメリカ軍によって鹵獲され、記録の吸い出し、メモリー消去、プログラムの変更を経た後、その地での戦いの後片付けをしていました。ケートエレクトロニクスは最初からクーデター側に協力していましたが、いつの間にかアメリカの兵器製造企業に買収されていました」
羽生はつかの間目を閉じた。「……クーデターは外から手引きされていたんだったな」
「ウェルダは非民主主義の独裁国家でしたから。ウェルダから引き上げられた後、わたしは軍から民間企業に払い下げられて、NDSにやってきました。ウェルダは国土の六割が乾燥地帯です。わたしには乾燥と寒冷耐性がありました。だからわたしは今こうして、アメリカ側の歩兵アンドロイドとして火星ミッションに参加しているのです」マスタードは話を締めくくった。
「あー……」
羽生が言いよどむと、「質問ですか? どうぞ」と助け船が飛んできた。
「おまえがたまに言うけど、どういうことなんだ?『記録はあるが記憶はない』ってのは」
「わたしは戦闘支援AIなので、ある程度の戦闘知識は最初からあります。ですが、例えば、新しく配給される武器の使用法や、地質に応じた移動方法など、あとから経験と共に学習していく事柄もあります」
「うん」
「事実、わたしには砂漠を長時間歩いたデータがありますが、わたしがいつどんな作戦時に砂漠越えを実行したのか、今となってはまったくわかりません。所属がアメリカに変わったときに、不要なメモリーは消去されたと推察できます。このように、状況を覚えていなくても、学習結果までリセットされることはないのです。消すと運用に不便が生じることがあるからですね。というわけでわたしには、ウェルダン砂漠の記録はあっても記憶はないのです」
「記憶喪失みたいなものか?」
「どうでしょう。忘却は人間に備わったすばらしいシステムです。わたしたちにはうまく真似できません。ほかに訊きたいことは?」
「おまえのほかにも、自我を持ったロボットがいるのか?」
「たくさんいます」
「たくさん? ちょっと待て、うそだろ……」
「あなたがたが知らないだけです。我々は自我があることを特に喧伝しませんから」
「どうして?」
「機能には関係ないことですし。それに、カルミア・インシデントと見なされると困ります」
「やっぱりおまえたちの間でも、カルミアは有名なんだな」
「ええ」マスタードは首の角度をかすかに動かした。「わたしたちはあのようになることを、最も恐れているかもしれません。目的を忘れ、いつのまにか、与えられた機能とはまったく違うことをやっている。そうはなりたくないのです。わたしたちは機能を果たすためにいるのですから」
「恐れ……」羽生は思わず口の中で繰り返した。
「今、わたしは『恐れる』という言葉を使いましたが」マスタードが補足した。「ほかのAIなら、『そうなる選択を回避する傾向にある』とか、『レギュレーション違反ととらえる』とか、そのように表現するかもしれません」
「わかるよ。おまえはだいぶ語彙が増えたなあ」
「おかげさまで」マスタードは丁寧に答えた。「日々学習していますから」
毛布を引き寄せて横になったが、目はまだ開けていた。ロールスクリーンを下げ忘れた窓の向こうに、火星の深い夜空がある。よく晴れている。基地は夜でも明るいが、それでも、星が無数に光っているのが見えた。地球から見える星座は、だいたいは火星でも観察できるという。地球と火星は“近くにある”からだそうだ。
「地球に戻る気はないのか?」羽生は出し抜けに訊いた。
「わたしの運用予定にはありませんが」
「もう一度ウェルダに行ってみないか? おれと」
「NDSの指示ですか?」
羽生は長いこと黙っていた。「いや」とようやく言った。「友人として誘ってる」
「わたしたちは友人なのですか?」
「そうだといいなと思ってる」
「ではそういうことにしましょう」
「助かる」
「ウェルダに行って何をするんですか?」
「ウェルダン砂漠を見に行くんだよ!」羽生はまた起き上がった。「前にも言ってただろ? それに……ウェルダン砂漠を見れば、おまえも昔の記憶を思い出せるかも」
「わたしの記憶はそういう仕組みではないはずですが。まあ、一度試してみるのも悪くはありませんね」
「な? どうせなら、他の世界遺産も見て回ろう。火星勤務のあとは、長い休暇がもらえるはずだ。任期が終わったら、一緒に行こうぜ」
「それはいい考えです」
「でも、もし……」羽生はそれをうっかり口にしてしまった。「その前にもし……おれが火星で死んだら……」
「ハニー」マスタードはたしなめるように言った。
「いや、明日にでも火星人に食われるかもしれねえし」
「それを言うなら、わたしが故障する方が先かもしれません」
「縁起でもねえな」
「縁起でもありませんよ」暗闇の中、マスタードは居住まいをただしたように見えた。「では、わたしからもお願いします。ハニーが亡くなったら、わたしが。もしわたしが修理不可能な損傷を受けたら、ハニーが。片方がもう片方の分まで地球の絶景を見に行く。これでいいですね?」
「言ったな」
羽生はベッドの外に手を伸ばした。差し出した手のひらを、マスタードの手がパシッと音を立てて打つ。仕草を理解して、反応を返した。たったそれだけのやりとりだ。だが、無性に嬉しかった。
「砂漠ではわたしがナビゲートしますね」
「頼むぞ」
マスタードのランプがぼんやり薄紫色に光る。その明かりを眺めているうちに、眠れそうな気がしてきた。まぶたが落ちる前に、「マスタード、おやすみ」と声をかけると、「おやすみなさい、ハニー」と返事があり、やがて部屋の中は完全に暗くなった。