第14話 火星のどこかで待ち合わせ(後編)⑤
新しく赴任してきた兵士たちが、基地内で迷わないようになり、季節がないことに慣れ、毎日の火星人狩りに多少飽きてくると、慰労会が開かれる。炊事班が食料の在庫を見事な大皿料理に変え、酒類を多めにテーブルに並べると、宴会が始まった。幹事であるファッジは水を得た魚のようだった。ヘンリーはビール片手にエーリカの魅力を熱弁し、付き合わされるロスは適度に相槌を打ちながら、ぐいぐいと強い酒の杯を空けていた。フィギーとクリスは共通の知り合いの話に興じ、時折声を上げて笑った。マクルーダとジェラルドはそれぞれの地元の煮込み料理について激論を交わしていた。「ジャガイモ?」とジェラルドはテーブルをぺしっとはたいた。「天哪!」基地長はわきまえていて、一時間くらい経ったところで「楽しんで」と自室に引き上げた。
羽生も、タイミングを見てそっと会場を抜け出した。
倉庫2では、マスタードが小さいコンテナの上にタブレットを置き、その前に膝を抱えて座り込んでいた。会議室が使えなかったり、他に兵士が集まらなさそうな時間帯では、ふたりは相変わらず倉庫2で映画を観ていた。
「脚部パーツ、次の便で来るってさ」
「ありがとうございます」マスタードは振り向いた。「宴会は終わったんですか?」
羽生は返事をせず、画面をひと目見ると言った。「またそれ見てるのか」
「『この素晴らしき世界遺産』シリーズ、その四です。前回のは三です」
「いくつまであるんだ」
「十二です」
「世界にはそんなに世界遺産があるんだな」
「はい。驚きです」
カメラが世界遺産を淡々と映していく。今は中東にいるようだ。壁に囲まれた都市が空からの映像で紹介されている。
「このシリーズは、映像がメインで、ナレーションも多くありません。効率のいい言葉の学習には向かないのですが」マスタードはやや頭を傾げた。「選んでしまいます」
「それがおまえの好みってことなんだろ」
「好みですか?」
「そう。おまえは自然のドキュメンタリーが好き」
「初めて知りました」
イラクのエルビル城塞の紹介が終わると、画面に地図が出て、矢印がウェルダ共和国を指し示した。
「ウェルダっておまえの出身地じゃないか?」
「はい。ケートエレクトロニクスは元はウェルダ企業です」
「懐かしい?」
「どうでしょうね。『過去に見たことがある』をそのように表現して良いのなら、そう言えるかもしれません」
飴色の砂の海が映った。“ウェルダン砂漠”とテロップが出る。「砂漠には、ひと時として同じ姿はありません」と静かにナレーションが始まる。「風が吹くたびに砂が動き、模様を少しずつ変えます。やがて砂丘そのものも移動してゆきます……」
よく晴れた空の下、丘をかたどる砂がゆっくりと動いていく。風で飛ばされる砂粒が、日にあたって光っている。
「わたしはここに行ったことがあります」突然マスタードが言った。
「へえ。じゃあ、『懐かしい』だ」羽生は目を細め、持ってきたビールをひと口飲んだ。さらさらと砂が渡っていく風景は、まるで大地そのものの呼吸だ。同じ赤っぽい砂の荒野でも、岩が多くむき出した火星とは違う趣きがある。
「おそらくは、任務で」
このようなあいまいな言い方はめずらしかった。「行ったことがあるんだろ?」
「踏破したという記録があるだけです」マスタードは微動だにせず画面を見ていた。「わたしには、いくつか重要な記憶を除いて、NDSに来る前の記憶は残っていませんから」
「そうなのか」
羽生はアンドロイドと一緒にただ映像を見つめた。落ちる夕日が砂漠をより赤く染め上げる。最後の光が大地のふちに消えると、夜空に星が輝き始めた。光の点がいっせいに弧を描き、空が徐々に白んでゆくと、また太陽が顔を出す。
「……きれいなところだな」
返事に少し間があく。「おっしゃる意味がわかりません」が来るかと思ったが、マスタードは「はい」と言った。「わたしもそう思います」
ウェルダン砂漠の映像が終わり、イラクのペルシア庭園の紹介が始まった。
唐突にマスタードがたずねてきた。「先日の話は本当ですか?」
「……なんで火星に来たかってやつ?」――またなにか変なことを訊いてきたな。「まあ、そうだな」
「みなさんが何らかの目的をもって火星に来ていることがわかりました。あなたの目的だけがよくわかりませんでした」
「だから、これっていう目的はないんだよ。アーニーに誘われたから来ただけ。強いて言うなら、オリュンポス山は見てみたかったかな」
「そうなんですか」
しばらく黙って画面を見続けた。ペルシア庭園は九つあり、どれも水路によって区切られていることが特徴らしい。
「昔は……」羽生はぼそりと言った。「大学に行きたくて、金を貯めてた」
「大学」マスタードはあまり使わない単語を復唱した。「今は違うんですか?」
「おれには無理だってわかったからな」
「なぜ無理なんですか?」
「無理なものは無理なんだよ……いや待った。今のは取り消す」頭の中をひっくり返して、なぜ無理なのかちゃんと説明しようとした。なかなか考えがまとまらない。「あー、その……おれは、あんまり頭がよくないけど、よくないなりに、進学の準備をしてたんだよ。神話の勉強がしたくて……バイトで学費を貯めて……ええと、まず、実家は、おれ以外に金がかかるから、あんまり支援は期待できなくて」
「『おれ以外』というと?」
「姉。フィギュアスケーターなんだ。フィギュアスケートってわかるっけ」
「わかります。この前映像で見ました」
「あれ、すごく金がかかるスポーツなんだよ。あと、おれには妹がいて」
「お姉さん、ハニー、妹さんの三きょうだいということですか?」
「そう。子供の頃、姉がリンクで練習している間、おれと妹は音響を操作してやったり、客席で宿題をやったりしてた。だから、きょうだいで遊んだ記憶って、いつもリンクの脇だ。それで……この妹が、ある時体調を崩したと思ったら入院して、みるみる具合が悪くなって、手術が必要になって、それがけっこう高額で……ちょうど受験の頃だった。おれは学費を手術代に差し出した。また稼げばいいと思ったし、妹の命には代えられない。そのときは本当にそう思ってた。でも、手術の後、目を覚ました妹は……『わたし、お医者さんになりたい。医大に行きたい』って言って、それを聞いたら……」羽生は言葉を切った。
「なんと答えたんですか」
「……いいんじゃないか、って言った」
「十分かと思います」
「だろ。でも、おれはその一瞬……こいつがいなかったらよかったのに、って思ってしまった」
ビールがいつの間にか空になっていた。タブレット画面では、バラの咲く水路のほとりをカメラが散策している。
「それで、どうしたんですか?」
「どうもこうも。なんとなく家族と顔を合わせづらくなって、家を出た。軍に入ったのは、訓練してる間も給料が入るし、働きながら大学に行けるプログラムをやってると知ったからだ。だけど、狙撃手の養成講習を受けたり、戦争に行ったりしてるうちに、だんだんそんなこと忘れていって……。そうこうしているうちに、おれは不祥事に一枚噛んじまって……狙撃班から外れて、そんなときにアーニーが声をかけてきたんだ。民間軍事会社が火星遠征参加者を募集してるって」瓶を煽ろうとして、もう中身がないことを思い出し、手を下ろした。「で、まあ、こうだよ。ほかのやつみたいに、確固たる目的があって来たわけじゃない」
「そうですか」とマスタードは言った。
「そう。おれは別に……もともと、大した人間じゃなかったけど……あの時、医大だな、兄ちゃんに任しとけって言える人間であったなら……」
エラム庭園の“エラム”とは、楽園という意味です、とナレーションが教えてくれる。
「あったなら?」
「……もう少し、ましな人生だったかも」言ったそばからバカらしくなる。喉が渇いた。羽生は瓶を持って立とうとした。「話、下手くそで悪かった。忘れていい」
「忘却という機能はありませんし、訊ねたのはわたしの方です。確かに結局なにがどう無理なのかはわかりませんでした。あなたは――わたしたちの言葉で言えば――機能を果たしているように見えますが。例えばあなたは先日、火星で最も長い距離の狙撃成功記録を出しています」
「え? は……」
「タイタス作戦時の2,675メートルの狙撃。この数字をもって、あなたは現在、火星最高のスナイパーです。これは地球においても驚異的な距離なのではありませんか?」
羽生はたじろいだ。「まあ……そうかも」
「それはわたしの支援で成功した狙撃です」マスタードは念を押した。「もしほかに、なにか達成したいものがあるのでしたら、その手助けにはぜひ、わたしをご用命ください」
羽生はとりあえずもう一度座った。マスタードがまた、アンドロイドの理屈に基づいた妙な事を言っていて、その真意を理解しきれていないかもしれないと思ったが、なにか達成したいこと、と考えてみた。
「じゃあいつか、ウェルダン砂漠を案内してくれよ。おれもあそこを歩いてみたい」
「了解しました」マスタードはいつものように言った。どうやら納得したらしく、それ以上はアイカメラを時々光らせるばかりだった。
地図がトルコを指し、ヒエラポリス・パムッカレの紹介が始まった。