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第13話 正体どこに①

【現在 08:00 a.m.】

 目を覚ますと、ハニーはあおむけになって床に寝ていた。半裸で。


 体を起こし、呆然とあたりを見まわした。惨状と言うほかなかった。空の酒びんが散らばり、空気はアルコールくさく、ローテーブルの上には汚れた皿やピザの箱、中途半端に切った果物がそのままになっている。

 ――地獄か?

 ズキンと頭に痛みが走り、とっさに前頭部に手を当てる。飲みすぎたようだ。ここまで正体なく酔ってしまうとは、信条と反するので、首をかしげたくなる――ちょっと頭を動かすだけで激しい頭痛に見舞われるので、実際にはやらない。酒はそれほど強くないという自覚があるので、酒量には気をつけているはずなのだが。

 悪いことに、ハニーには昨夜の記憶がほとんどなかった。昨日からの行動をたどる。たしか、チョコレートミントがいっしょにいたはずだ。





【前日 05:10 p.m.】

 チョコレートミントは激怒した。こんなことがあってはならないと憤った。これは自分に対する反逆であり、裏切りであり、おまえがやったのはひどい背徳行為だと非難してきた。「ずるい! 自分だけそんな大画面でスターウォーズ見て!」

「たまたまテレビでやってたんだよ」ハニーはエンドロールから目を離した。別になにをしたわけでもないが、強いて言うなら、普段はビター発見システムとつなげる壁一面の液晶パネルに、テレビの映像が映るよう、ちょっといじっただけだ。前々からこの大画面で映画を見たいとひそかに思っていたのだが、所長のパーシー・メルバが遠方のシンポジウムを聞きに出かけた今日がチャンスだったのだ。ビターが出現せず、ミントが出かけない限り、ハニーマスタードはやることがない。

「ああー。呼んでほしかった!」と嘆くミントだって、隣室でメルバのパソコンを勝手に立ち上げてゲームをしていたので、ひとのことを責める立場にはないのだ。「あたしだってこれで映画見たいってずっと思ってたんだからね! 先を越されたあ!」

「じゃあ見ればいいだろ」とハニーはソファの端に寄って場所を空け、タブレットをポンポンと操作した。自分の映画ライブラリを呼び出し、SFのページにしたところで、チョコレートミントに見せる。

「データ持ってるのになんでテレビで見たの?」チョコレートミントはもっともな疑問を口にする。

「放映中だったから」以外の答えが見つからない。

「どうせなら見たことないやつが見たい」ミントはタブを勝手にいじくり、「実はけっこう映画好きだね?」と探偵を気取るかのように鋭い視線を向けてきた。

「普通だ」腹の探り合いの手始めとして、そう返事をする。

「ふーん」とミントはライブラリをざっと検分した。「ホラー映画多くない? サスペンスも……あ、ジャッロとか好きでしょ? ちょっと古いのがいいんだ。監督で選ぶタイプだね!」

 ハニーはホールドアップの姿勢をとった。「おまえも大概だな」

「ふふん」ミントは得意げになる。「ミントちゃんは演劇の勉強をしていたので、ひと通りはわかるつもりです」

「へえ。お眼鏡にかなうかね」

「あたしこれ見たことない。これがいい」

 チョコレートミントのチョイスに内心ほくそ笑みつつ、データを壁の画面で再生させる手続きを始める。





【現在 08:00 a.m.】

 そう、一本目はヒッチコックの「鳥」だった。そのあともう一本映画を見ることになって(タイトルは忘れたがミュージカルだった)、途中、七時半を回ったところでチョコレートミントが宅配でピザを取り、それがそのまま酒盛りに移行した。チョコレートミントが「今夜は帰さないぜ」と不気味に笑いながら、どこからかワインを出してきたのは覚えている。

 床にある酒瓶を順番に指さしていき、三本目から先を数えるのをやめる。なんだってそんなにはしゃいじまったんだか、と後悔に深いため息をつきながら立ち上がろうとして、後ろ手をつく。ミントがいないということは、ひとりで帰ったのだろう。悪いことをした。

 右手がなにかに触れ、金属的な音を立てる。なんだと振り返って、背筋がすっと寒くなった。

 果物ナイフが転がっていた。刃に赤いものがこびりついている。

 一瞬ぎょっとしたものの、すぐに自分の左手の人差し指に小さな切り傷があるのに気がついた。自分の血で間違いないとして、なんでナイフを持ち出したのか(そもそもナイフがどこにしまってあったのかさえわからない)、刃物を床に置いてそのそばで寝るとはいったいどういう神経なのか、と昨夜の自分にあきれ返る。


 とにかく部屋を片づけないと、とハニーはのろのろ動きはじめた。まったく、チョコレートミントのやつ、なにもしないで帰ったのか? シャツもすぐそばに落ちていたので、着る。ボタンをとめようとしたが、なぜか三つもボタンが取れているので、しかたなく前は開けたままにした。ビニール袋をどうにか見つけ出し、空きびんを片端から放り込んでいく。皿とグラスを給湯室に運び、中身がある瓶は中身を捨て、置き場所がわからない缶切りやワインオープナーをひとまず一か所に置いておく。

 ナッツの袋やらオレンジの皮やらをごみ袋にぶち込んでいると、玄関のドアが開く音がした。

 朝いちばんで帰所したメルバだった。

「ただいま、あー疲れた」彼は部屋に一歩入るなり「うわっ」と手で鼻を覆った。「酒くさっ!」

 ハニーはすばやく壁際に移動して換気のスイッチを“強”にした。「おはようございます」

「おはようじゃないよ、なにこれ、ここで酒飲んだの? 信じられない! ミント、どこに隠れた!?」とメルバが叫んだので、姿の見えないミントにも当然のごとく嫌疑がかかることには安堵する。少なくともひとりで責任を負うことはない。が、そのあとの叱責は全部ハニーが被った。

「怒鳴らないでくれよ」ハニーは頼んだ。「頭に響く」

「そうかい! 善処するよ! まったく!」


 片づけが終わるまで、ハニーはひどい頭痛と非難の嵐に襲われることになった。紙のような理性、アリの方がまだお利口、一周回ってかわいそうなやつだ、アル中野郎、自制心ってやつをこれまでの人生で必要としなかったのか、絵に描いたような酔っぱらい、火星でなにを学んできたの? などなど、メルバは語彙が尽きるまで、ハニーが洗い物をしているとなりに立ってとうとうと罵倒を続けた。

「床にワインこぼしてるし! あれもふいてよね。ああー、こういうときに限ってポピーを帰しちゃったし、もう……」上司はぱたりと叫ぶのをやめた。「ミントは?」

「今朝から見てません」

 メルバは部屋中を探し回り、彼女が隠れているわけではないとわかると、携帯を取り出して電話をかけはじめた。

「つながらないな。電源が入ってないみたいだ。昨日はこのマッドなお茶会をいつごろ解散したわけ?」

「覚えてません」

 メルバの胸が怒りでふくらんだので、ハニーは次に来る金切り声に備えたが、彼はなんとか自分を抑え、きびすを返しパソコンの前に行った。

「ベイカーズになにか書いてるかな」

「ベイカーズ? 引退したはずでは」

「あいつは結構なSNS中毒だ。隠れてコソコソやってるよ。前のことはちゃんと反省してるみたいで、今のところは顔写真を乗せてないし、本名も使ってないから見逃している。どれどれ……ログインしたのが三時間前だ。なにかあったのかも」

「うちに帰って風呂にでも入ってるんじゃないですか」

 と言ったものの、ハニーも心配になってきた。ボディガードを請け負っている身としてかなり後ろめたい。

 パソコンの前でメルバが「アー」とうなり声をあげた。

「どうしました」

「三時間前に投稿されたトーストがこれ」

 上司はパソコンをくるっとこちらに向けて、画面を見せてきた。レイアという名前でネイルや食事の写真を頻繁にアップしているアカウントだったが、その記事を読んだハニーも同じうなり声をあげた。


 もう戻れない。

 みんな今までありがとう。だいすき。


「なんだこのポエムは」

「さあ」

「戻れないってどこから」

「ぼくに訊くな。まあ、前からミントはちょっと、こう、地に足のつかない感じの文章を書く人だったけど」

「なにを急に感謝してるんだかな」

「突然どうしたって感じだよね。なんだか遺書みたいな……」


 ふたりは黙り込んで顔を見合わせた。

「きみさあ」メルバが口火を切った。氷のような声色だ。「昨日なにかした?」

「なにかって」すぐさま守りに入る。「ピザ食って酒飲んで映画観ただけです」

「それだけ?」

「それだけ」

「でも覚えてないんだろ?」

「覚えてないけどそれだけ、誓って言う」

「怒らないから。正直に」

「本当だって」

「わかった、オーケー、そうなんだね」メルバはにこりと一度表情をほどいたが、次の瞬間怒りの形相になった。「じゃあどういうことなんだこの文章は!」

 圧倒的不利な状況の中ハニーが必死で自分の弁護を試みていると、パソコンからポーンと小さな音がした。右下にポップアップが出ている。ディスプレイを回してメルバに気づかせた。メルバは叱責を引っ込め、画面を地図のページに切り替えた。マンハッタン島の地図の上で、赤い点がともっている。

「ミントが携帯の電源を入れた! かけろ!」

 ふだんから事情が事情なのでGPSで助手の居場所を把握することについてはなにも言わず、ハニーは自分のQフォンを操作した。長く続く呼び出し音に、メルバと息を詰める。

 呼び出し音がやんだ。もしもしと遠慮がちな、若干かすれているようだがたしかにチョコレートミントの声がする。

「ミント、今どこに――」

「ギャーッ!」


 ハニーの問いかけを、この世の終わりでも見たような壮絶な絶叫がさえぎり、ぶつりと通話が切れた。

 Qフォンの画面をあぜんと見つめるハニーを、メルバが疑念と侮蔑の目線でもって突き刺している。

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