第12話 疑いの報酬⑩
「身代金要求は?」メルバは続けた。
「しないわ。わたしたちは――」
言いかけたアリスのあごに、ゾーイはするりと指をかけた。黙れと言うように唇に触れる。「もちろん」
「なんですって?」
「しないわけないだろう。バカなのかな? あのメルベイユ警備保障の息子だよ! 払うだろうさ、当然! きみの望みなんかついでみたいなものさ!」
「バカはあなたでしょ!」アリスは激高した。「身代金の受け渡しで、絶対に足がつく! 冗談じゃない! 絶対ママに知られたくないって言ったよね?」
「もう知ってるよ」ゾーイはけろりとして言った。「きみの身代金も要求しているからさ」
アリスの顔が蒼白になった。
「きみの立てたチープな計画を補完してあげたんだから、感謝してもらいたいくらいだよ。俳優くずれを使って標的の身近な人物に成りすます、自分も被害者だと思い込ませて話を聞く、まあいいんじゃないの。だけどね、そこまでして欲しいものが子供のお話だけなんてさあ、いくらなんでもうま味が少なすぎるんだよ。プロとしてはね、ここで利益を取らなきゃ。勉強になるだろう?」
ゾーイが言葉を切った。遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきたのだ。「もういいかな? きみは目的を達成したものね。よかった。初めての犯罪計画は大成功だ! じゃあね、“アリス”。ご利用どうもありがとう。機会があれば、また」
ゾーイは意味深にメルバへ目配せしてから、部屋を出て行った。
叫び声を上げ、さっきまで座っていたいすを蹴飛ばし、罵詈雑言をまき散らすアリスを、メルバは黙ったまま目で追った。いすを床に叩きつけてすっかり壊してしまうと、彼女は荒い息に肩を上下させながら立ち尽くした。
「誰かが来るまで、ここにいたら?」おろおろと部屋をうろつきだす彼女に、メルバは助言した。「『被害者』として、ここにいるほうが都合がいいでしょ」
彼女はぺたりとその場に座り込んだ。「……こんなはずじゃ……」
殺し屋を舐めてかかるからだよ。メルバはそうは言わなかった。代わりに告げた。「シトロン・ウィークエンド教授はきみのお父さんだね」
「いつわかったの?」
「最初から」
「最初?」彼女はオウム返しに言った。「最初って?」
「ここに来る前――会議室の外で、ギモーヴ教授が写真を見せてきたときだ。彼はぼくにきみの写真を見せながら、この娘を監禁していると言ったんだ。顔を見てすぐわかった。教授はお嬢さんの写真をいつもデスクトップにしていたから。きみの名前はマイヤ・ウィークエンドだ」
彼女はあっけにとられていたが、やがて乾いた声で笑い出した。
「じゃあなに? わたしを教授の娘と知っててかばっていたの? なんて滑稽なの! あなただってさぞ笑えたでしょうに! わたしの芝居は愉快だった? 付き合ってくれてどうもありがとう! とんでもなくバカみたいに見えたでしょ!」
「そんな余裕があるものか。なにか訳があるんだと思ったよ」メルバはマイヤの目が見られずに、膝のあたりを見つめた。「教授は離れていてもきみを思ってた。ずっと。でも、きみのほうはそうじゃなかった」
マイヤははじかれたように立ち上がった。「適当なことを言わないで!」
メルバは震える声で続けた。「いなくなって初めて、お父さんのことを考えたんだね。後悔したのかな。もっと知りたいと思ったのかな。でも教授は、立派な人だったけど、心の細い人だった。自分のせいかもしれないけれど、家族が離れていくことに耐えられなかった。マイヤ、お父さんのためにこんなことができたのなら、どうしてもっと早く……」
彼女は足をどん、と踏み鳴らした。血にまみれた布を巻いた足を。「黙ってよ!」
「さっき、ぼくは一個嘘をついた。教授からひとつ受け取ったものがある。自分のクラウドサーバのURLとパスワードを付けたメールが一通だ。本文は『すまない』――これだけ。教授の失踪の理由が知りたいんだね。そんなものはないよ。教授はある日突然いなくなった。ビターの研究を続けるのが怖くなって、全部置き去りにして逃げた。それだけだ」
「あんたに――」マイヤはつかみかかってきた。「――パパの何が――」
椅子ごと床に倒れながら、メルバは声を上げた。「撃つな!」頬を指がかすめる。身をよじって抵抗するうちに、彼女は離れた。銃を帯びた物々しい恰好の人間が、彼女をメルバから引き離していた。彼らの着ているプロテクターにはNYCC警察のロゴがある。
「パーシーか?」
ひとりが問いかけてきた。バイザーの奥に向かってうなずくと、彼は「対象発見!」と無線機に報告を入れ、メルバを抱え起こしながらひとつコメントした。「おれたち、さすがにそこまで外道じゃないですよ?」
武装集団がラムレーズンのアジトに突入していくのを、ハニー、テイラー、グリーンの三人は離れたところから見ていた。
「あれはなんの部隊だ?」
「警察だよ」ハニーにテイラーが答えた。「マイヤ・ウィークエンドの捜索隊さ。母親が捜索願を出した」
「彼女のやったことは棚に上げて?」
「危険なのは変わりないしな。どうせおいおいわかることだし」
パーシバル・メルバ、マイヤ・ウィークエンド両名の保護が確認されると、作戦本部が沸く声が通信越しに聞こえてきた。同時にゾーイ・ラムレイが逃走中の報も入る。
「さて」テイラーが言った。「おれは本部に戻るが、どうする?」
「一緒に行くよ」とグリーン。「おたくは?」
「ちょっと待ってくれ」ハニーのQフォンにポピーシードから電話が来ていた。少し離れてから応じる。「もしもし?」
「羽生さん、今の聞いていた?」
「はい。無事だそうですね」
「ええ。あなたのおかげよ。ありがとう」
「グレイヴィーズの指揮に従っただけですよ。これで疑いは晴らせましたか?」
「なんのこと?」ポピーシードはとぼけきった。
誘拐事件はその九割が身内による犯行といわれる。
ポピーシードは、メルバが消えたとき、だれかの裏切りを想定したに違いない。最近入ってきたボディガードなどその筆頭だ。ほかにも、常にそばにいて予定を把握できるブラックとグリーン、誘拐捜査を進行させるホワイトたちと、候補者は少なくない。が、ひときわあやしい立場にいるのはだれか。
とがめる気はない。ハニーがポピーシードの立場でも同じように考えただろう。誘拐保険チームとハニーにつながりはない。もしどちらかがメルバを裏切っているなら、どちらかによってわかるはずだ。だからいっしょに行動させたのだ。ポピーシードのその胆力、その忠実さは称賛に値する。
「ところで、今どうしてるの?」
「現場の近くにいます。これから戻るところです」
「なら、頼みたいことがあるのだけれど」
内容を聞いたハニーは「お受けします」と答え、通信を終えると、ひとりで帰る旨をテイラーたちに伝えた。