第11話 ゴースト・ホテルで会いましょう①
船の責任者はビール腹の突き出た男だった。シルエットで見るとハンプティ・ダンプティそのものだ。丸い顔は困ったような、安堵したような表情をしていた。「いやあ、助かりました……幸いにして、けが人も出なかったし」
「でしょう?」得意げにチョコレートミントが言う。
「ええ……けが人は」ハンプティが視線をさまよわせる。さんざんな状態の船内――粉々になった座席、へし曲がった手すり、ひびの入った床を見ている。それらから注意を離すために、ハニーは急いで言った。
「飲まれた人も先ほど意識が回復したようで」
「ええ」ハンプティはぽりぽりと頭をかいた。「でも、あの人に賠償請求するわけにもいかないし……はあ……」
「その、よくあるんですか? こういうことは」
「まさか。初めてですよ、フェリーにビターが乗り込んでいたなんて」さっきまでの恐怖を思い出したのか、ハンプティ・ダンプティの表情がこわばる。「あなたがたが居合わせなかったら、どうなっていたことやら」
「いやいや、お安い御用です」砂糖弾を一発かすらせただけのチョコレートミントが鷹揚に応じる。
ハンプティが眉をハの字に下げた。「どうしてもお名前を聞かせてはもらえないんですか」
「我々は通りすがりの宇宙生物ハンターです」チョコレートミントが髪をさっそうとかき上げる。「名乗るほどの者ではありませんよ」
名前を明かしてまわるのはハニーとミントにとって本意ではない。対ビター用武器メルターはメルバ研究所が独自に開発し、生産している強化プラスチック製の銃である。弾は人体を貫通せず殺傷能力は低いとはいえ、被弾すれば気絶するくらいの威力はある。よって警察の取り締まり対象である。
「なんとお礼を言ったらいいか」
「いいんですよ」チョコレートミントは笑顔のままで切り出した。「それより、船は」
「本当に感謝してるんですよ。お客様もだれひとり命を落とさなかった」
「わたしたち、マンハッタンに帰らないと」
「出してあげたいですよ、今すぐ、そりゃあね」卵男はまた困り顔になった。「でも、この船は修理しなきゃいけないし、それ以前にこんな天気じゃあね」
ハンプティにつられて、ハニーとミントは発着所の外を見やった。暗い雲の下で、風速三十メートル毎秒の風が吹きすさび、荒れ狂う波がうなりを上げていた。
カテゴリー一の台風ハーレイはアメリカ南部を北上しており、明け方にはニューヨーク州をすっかり通過してしまう予定であったが、今はスタテン島フェリー乗り場の外で猛威をふるっていた。フェリーに乗り込んだとき、雨はぱらぱらと降っていた程度だったが、今は自由の女神もくすんで見えないほどの荒れ模様だ。
「全便欠航だって」チョコレートミントは今しがた掲示された貼り紙から目を離した。「どうしよう」
ハニーも先ほどからずっと考えていた。ビターを追って勢いのままスタテン島とマンハッタンを結ぶ連絡船に乗り込んだものの、まさか帰れなくなるとは想定していなかった。チョコレートミントは常時複数の殺し屋に狙われ、その上今は研究価値の高いエイリアンの体まで所持している。用心棒としてなにが最適解か。というより……。
「こっちで宿をとるしかない」
「まあ、そうだよね」ミントが同意した。「本当はうちでゆっくりお風呂に入りたいけど、しょうがない」
欠航の知らせを受けて、人々はため息をつきながらフェリー乗り場を三々五々出ていくところだった。同様の人たちで部屋が埋まる前に安全を確保しなければならない。
「IQ、ホテル探して」
「二十四件あるよ」
「IQ」ハニーはミントの不適切な検索指示を取り消させ、AI秘書に呼びかけた。「並びで二部屋空いてるスタテン島のホテルを探してくれ」
「五件ヒットするよ」
五件のホテルはフェリー乗り場から近い順に予約で埋まっていった。車を呼ぶのもひと苦労だった。マンハッタンに帰れないみんなが同じことを考えているからだ。雨脚がだんだん強くなり、迎えを待つ人々のひどく不機嫌な空気がターミナルを満たした。
黒いタクシーにやっと乗り込み、やれやれと思ったのもつかの間、奇妙なものを見た。
信号待ちで止まった車の横に、ぼうっと人影が浮かび上がった。すわ押し込み強盗かと銃に手をかけたが、そいつは立っているだけだ。口をぱくぱく動かしてなにか話している。と、消えた。
ハニーは雨の降りしきる無人の歩道を凝視した。
車が動き出すと、今度は前方に人影が見えた。髪の長い女が身振り手振りでなにかを訴えかけてきている。タクシーがブレーキを踏むそぶりを見せないので、ハニーは思わず声を上げそうになった。女は轢かれる前に忽然と姿を消した。
自分の疲労を疑う前に、「ハニー、あれ、プロアだよ」とチョコレートミントが教えてくれる。
「プロア?」
「投映広告。もしかして見たことないの?」
なかった。どうやら投映広告とやらは、ハニーが二年近く火星にいるあいだに流行って廃れていったもののようだ。「今の、映像なのか」
「そうやって、見分けがつかない人が多かったから廃れたわけ。危ないでしょ? 明るいところならもうちょっと映像っぽいんだけどね」
「投映広告設置条例がニューヨーク州で制定されたのは2032年一月だよ」IQが口をはさむ。「でも、スタテン島は撤去がまだ進んでないみたい」
スタテン島はニューヨーク州で最も開発が遅れている地区だといわれる。プロアがやっと街中に普及し始めた矢先に制限されるという悲劇をくらったスタテン島では、撤去の動きも遅いようだ。見限って投映から撤退する業者も多く、放置されたプロア装置がまるで亡霊のようにコマーシャルを映し出しているのだという。
「ここを亡霊島と揶揄する人もいるようだよ」
「へえ」ハニーは再び窓の外を見た。時計の宣伝らしい、スーツを着た男の映像がふっと消えるところだった。「亡霊島ね」
「あらあら。はいはい。了解しました。ボスに伝えておくわね」
電話を切ったポピーシードに、メルバがたずねた。「ミント? なんだって?」
「採集は無事に完了しましたが、この台風でスタテン島に足止めされてしまったそうです。今夜は泊まってくるって」
「そうか」メルバはモニターに顔を戻しかけたが、再びポピーシードを見た。「泊まる?」
「ええ」
「あの男もいっしょか?」
「羽生さん? それはそうでしょうね」
「……心配だ」
「今さらでは? おうちだってとなりどうしなのに」
メルバはむっつりといすに背を預けた。「……休憩する」
「そうしましょう」
機嫌が悪いボスのために、ポピーシードは甘いお茶を入れ始めた。
ホテル・カンノーロは古い宿だった。晴れていれば少しはましに見えるのかもしれないが、ロビーは暗く、じめじめして、壁などはどうにも年代を感じさせる。チョコレートミントがすりきれそうな革のソファを見て眉をひそめたのをハニーは見逃さなかったが、だからといってなにをするでもなかった。ほかのホテルがここよりいいという保証もなく、それにもう埋まってしまっているだろう。
受付にいたコンシアージュは落ち着いた四十代ほどの黒髪の男だった。「ようこそ。どうやらあなたがたが今夜最後のお客様ですね」
「この天気で、まいったよ」なるべく短い会話で済むようにハニーは言った。
「いや、不謹慎ですが、久々にすべての部屋がご予約でいっぱいになりましたよ」コンシアージュはタオルを出してきてふたりに渡した。「十四年前の台風ジェフリーのときを思い出しますね。やっぱりこんな夜でした……お荷物は? ご自分で運ぶ? かしこまりました。ご用がありましたら遠慮なく」
ぬれた服と髪をふき、一階のレストランで食事を取った。揚げた魚に大量のマッシュポテトがついた料理が出てきて、ふたりは無言で食べた。べたべたした衣とやわらかすぎるじゃがいもが最悪の食べ合わせを実現していた。チョコレートミントがこんなに長いあいだしゃべらなかったのは新記録じゃないだろうかとハニーは思った。ソーダを飲み干して席を立ったときのミントの表情が、「気に食わない、でも我慢する、でもすごく気に食わない」と如実に物語っていた。こちらに矛先が向かないうちに、部屋になにかミントの気をまぎらわせるものがあるといいのだがとハニーは思った。たぶんないだろう。
部屋に入る前に、ハニーはチョコレートミントの部屋をくまなくチェックした。シングルベッド、テレビ、小さないすと机、クローゼット、風呂と洗面台。異常はない。なにもない。内装は地中海風で、青いタイルが多く使われていたが、それがどうにも古い便所のような陰気さをかもしだしていた。
「カーテンは開けるなよ。おれ以外のノックには応じるな。なにかあったらすぐ電話しろ」
「わかった」ミントはぶすっとして言った。
「となりにいるからな。ときどき様子を見に来る。三回、二回でノックするから」
「寝てていいよ。眠れる人は眠りなよ」
「仮眠はとる」
納得いかない答えだったらしく、チョコレートミントは不満げにドアを閉めた。鍵がかかる音を確認してから、ハニーも自分の部屋に入った。
雨脚は強くなるばかりだった。遠くで雷が鳴りだしており、風で窓がガタガタと揺れている。どのみちこれでは熟睡はできないだろう。
タオルで義足を磨き上げているとQフォンに着信があった。電話ではなくテキストだ。ミントからのメッセージだった。“向かいの部屋のベランダからこっち見てる人がいる”
ハニーはすぐに隣室へ行った。