第7話 イン・ヒズ・シューズ①
フレジエは例の殺し屋ランキングで十位前後をキープしている殺し屋だった。
殺し屋番付の紹介文によると、少なくともフレジエは今月だけで三件の殺人事件に関わっているという――ブルックリンの外れで中国系マフィアの構成員の死体が大量にあがった事件、往来で政治家が頭を割られて息絶えていた事件、失踪から五日後にイーストリバーの川面で見つかった実業家とその不倫相手の事件。さらにフレジエの仕業と思われるとファッジが情報を寄越した凶悪事件をいくつかピックアップして見ていく。フレジエが得意なのは複数を相手にした仕事だ。やくざもののアジトに乗り込んで行って単身で制圧する、というようなパターンが散見される。
それらの事件を調べていくあいだ、ハニーはただひとつを念頭に置いていた。
――次に会ったら殺す。
それは間違いなく本心だったが、ほかのことを考えないためにも必要なことだった。
いつのまにか、窓の外が明るくなっていた。たくさんある最悪の目覚めのうちのひとつ。足は相変わらずないままで、右足にいたってはもっと悪い事態だ。義足の定位置――枕の横の床――には、左足だけがたたずんでいる。
ため息をつき、ベッドの下からケースをふたつ取り出す。
ひとつはマスタードの義足ケースだ。破損した右足を昨日のうちにしまってある。もうひとつを、ベッドの上に引っぱり上げて開けた。
ほぼ新品のブレード義足が一対収められている。両足分取り出したが、少し考えて片方を戻した。左足はいつものを、右足はブレード義足を装着する。慎重に。アンバランスだがしょうがない。ベッドから足を下ろして、感覚をたしかめる。注意深く。先端でカーブした薄い板がコツコツと床を叩く。深呼吸して立ち上がる。大丈夫、問題なさそうだ。代わりの義足でボストンに行くくらい、なんてことはない。左足だけ靴をはき、部屋の中を歩き回って足を慣らす。
出かける準備をする。悩んだが、クローゼットで眠っていた折りたたみ式の松葉杖も持っていくことにする。
アパートメントを出ると、向かいの道に黒い車がとまっていた。メルバがボンネットに寄りかかってこちらを見ている。ハニーと目が合うとふいと体をひるがえして車に乗り込んだ。
「で、どこまで行くの?」ハニーが後部座席に乗りこむとメルバが訊いてきた。
「ボストンの外れのほうです」
「どうやって行くつもりだったんだ?」
「電車で。駅からはバスで」
「わかった。ポピー、ペンステーションの少し手前で下ろしてくれ」指示を出しながらも、メルバはちらちらとハニーのひざあたりに視線を向けた。ブレード義足が気になるらしい。そりゃそうだ、とハニーは思った。おれだって気になってる。
ペンシルヴァニア駅の近くで車が止まると、留守を頼んだよ、とポピーシードに言い残してメルバは車を降りた。一か月半前、ビターの正体も殺し屋番付も知らず、チョコレートミントを追って歩いた道を今、ボスと無言で歩いている。普段なら多少の気まずさがあるところだが、今日は沈黙がありがたかった。もっともその沈黙は長くは続かなかった。
切符売り場の前にチョコレートミントが立っていた。髪をポニーテールにしてリュックを背負っている。「やっほー」と片手を上げた。
「なんでいるんだ」
「マスタードさん直しに行くんでしょ?」
「悪いこと言わないからうちに帰れ」
「やだ」
「危険だろ」
ボスのほうを振り向いたが、メルバは苦々しい表情ではあるものの、前のようにミントを叱ってくれなかった。どうやら予想していたようだ。
「コーヒーショップの柱のところに、男がふたりいるのがわかるか?」メルバは肩越しに彼らをあごで指した。「あれはぼくのボディガードだ。ぼくの警備はおでかけ特約がついてるから、国内なら特別に金を払わなくても連れていける。同行者は基本的に保証外だけど、まあ、殺し屋よけにはなるだろう」
自分たちの話をしているのがわかったのか、男二人は会釈してきた。ハニーとチョコレートミントも小さくあいさつを返す。ふたりとも立派な体格の男だった。いかにも強そうだ、とハニーは奥歯をそっとかみしめた。ミントはああいうのも選べたのに。
当の本人はそんな気持ちなど知るよしもなく、「ほら、今日はスニーカーで来たし」とのんきに足元を指してみせる。「走れるよ」
「遠足じゃねえんだぞ」
「ていうかさ」ミントが口をとがらせる。「今日はオフだもん。あたしが休みの日にどこに行こうが勝手でしょ」
ハニーは口論するのに疲れた。「好きにしろ」
ハニーがカードにチャージして、一行は出発した。距離を開けて、スーツの男たちがついてくる。
ボストンクラムチャウダー市まで特急で片道三時間。道中はほぼずっとチョコレートミントがひとりで話していた。メルバは「この電車に乗るの初めてだな」と最初に言ったきり、流れる景色に見入っている。ハニーは五分に一回くらいチョコレートミントに相づちを打ちながら、じわじわと湧き上がってくる違和感を無視しようと努めた。
「どうかした?」チョコレートミントが突然それまでの話題をやめて、ハニーの顔をのぞき込んできた。「顔色が悪いよ」
「大丈夫だ」ハニーは額をぬぐった。
「大丈夫って面じゃないぞ」メルバも指摘する。
とうとうハニーはブレード義足を外してしまった。
外した瞬間、気分がふっと楽になったのを感じる。あっけにとられるふたりに、荷物から松葉杖を取り出して組み上げながら、ぽつぽつと説明した。
「マスタード以外の義足を着けると」松葉杖の関節がまっすぐはまっているのを確認する。「違和感があってどうしようもない。そのままにしておくと違和感がどんどん増してきて、とても着けていられなくなる。足が二重にあるような感じだ。それが気持ち悪い」
「目的地までもう少しだろ。せめてそこまでは」
「実際に吐いたこともある」
コンパートメントを無言にしてしまった。
自分の見通しの悪さがいやになった。今日は大丈夫そうだという判断は間違いだったわけだ。このざまだ。八千万キロも離れた星まで行ったのに、足が一本ないだけで、たった三百四十キロも移動できないとは。しかも、松葉杖は持ってきたのに、荷物はそれ用にするのを忘れたときている。よくないな、とかばんにブレード義足を突っ込む。義足を入れるとチャックが閉まらない。まずい流れだ。ミスが続くときにはその流れを断たなければならない。
たいへんな一日になりそうだ。
「次の駅で降りる」ハニーはぼそりと宣言すると、到着のアナウンスがあるまで目をつむっていた。とにかく今日のミッションは、歩いて目的地にたどり着くことだ。
もたもたと電車を降り、もたもたと改札を通る自分がもどかしい。本来はこうなのだ、と自分を戒めていらだつ心を抑える。マスタードの義足がなければ、本当は立つこともできない。忘れたのか?
手首に引っかけた義足ケースがごとんごとんとゆれ、そのたびに杖がすべりそうになる。ハニーはしばらく逡巡したが、バス停に着く前に、ミントを呼び止めた。
チョコレートミントに向き直る。「ミント……頼みがある」
「なに?」
「こいつを」とケースを持ち上げる。「おまえに預けたい。申し訳ないが……」
チョコレートミントはにこっとしてケースを受け取った。「ほらね、あたしがいてよかったでしょ」
バスにゆられて三十分ほど経つと、ハニーたち以外にほかの客はいなくなっていた。一行が下りたのは終点よりふたつ手前の停留所だった。すっかり都心から離れ、住宅がぽつりぽつりと立つばかりだ。道の両脇に草がおいしげり、もう夏だと叫ぶように長い葉を光らせている。
「どこがそれなの?」
あたりの家を見回してチョコレートミントが訊いた。
「まだ歩く」
「なんてところ?」
「“ウォーターハウス義肢製作所”」
携帯で調べたミントがすっとんきょうな声をあげる。「八キロもあるじゃん」
「おまえたちはタクシーで行くといい」
「歩くの? ほんとに?」
ハニーは返事をせずに歩き始めた。後ろでメルバとチョコレートミントがなにか相談している。「いや、ぼくも歩く」とメルバが言ったようだった。
杖をついて、体重を乗せ、左足を出し、また杖をつく。重心を移し、足をスイングさせ、歩を進める。行軍が始まった。後ろに両手でケースを持ったチョコレートミントとメルバが続く。もっと後ろからは、少し離れて警備の男たちがついてくる。
からっとした初夏の日だった。道にはなにも日かげを作るものがなく、ハニーはすぐに汗みずくになった。ときおり吹く風は草をざわざわとゆらすだけではなく、体の熱を散らしてくれる。
草と砂のにおいがする道を、ひたすら杖をついて歩いていく。前へ。前へ。同じ動きの繰り返しだ。ひとつの機構のような。推進力を持った血と肉の機械。体とはなんと重いのだろう。歩くとはなんと難しいのか。
「ハニー」チョコレートミントが小走りでハニーに並んだ。「上着脱いだら?」
いったん立ち止まってそのとおりにしたハニーから、ミントは上着を取り上げた。
「リュックも貸して。持つよ」
「悪いな……」
「なに言ってんの。もう友達でしょ」
振り返ると、メルバがひざに手をついていた。袖をまくりあげ、息をはずませている。かなり遅れ気味だ。警備員のペアがすぐ後ろを歩いている。ふたりとも上着を脱いで肩にかけていた。
「ボスに、ゆっくり来てくれって言ってくれ」
「もう言ったよ。まったく、研究所にこもってばっかりいるから」ミントがのんびりと笑う。「でも、ほら、あと三キロだよ。半分過ぎた」
足元をバッタが横切る。左肩がジンジンと痛み出した。昨日撃たれたところだった。歯を食いしばって杖を地面に突き立てる。体を前に押し出す。右足の結んだズボンのすそがはためく。
ようやく、その家が見えてきたときには、完全に息が上がっていた。
庭のベンチでたばこを吸っていた人が立ち上がった。白いシャツを着た白髪の老人だった。たばこの火を消して、白髪の老人はしっかりした足取りで門の前まで来て立ち止まった。ハニーが目の前に来るまでを、老人は腕を組んで見守った。
「よく来たな」
また世話になる、とハニーはかすれ声で言った。
家のドアが開き、中から男が飛び出してきた。「羽生さん」と青年が叫んだ。「どうしたんですか? まさか歩いてきたわけじゃないでしょうね」
老人がよく来た、よく来た、とうなずきながら繰り返した。