第5話 ガール・イン・ブラック④
人混みをかきわけて、その男の腕をつかんだ。
ウェイターに扮した男が驚きに目を丸くしてこちらを見る。つかまれた腕を振り払おうとしたが、ハニーはがっちりつかんで離さなかった。力が均衡して両者の腕がふるえる。背後でなにが起きているか、チョコレートミントは気づいていなかった。なにやら泣いている女に話しかけている。
袖口からきらっとのぞくのは、アイスピックのようだ。なるほど反対側の手で持ったおぼんに氷と酒を載せている。ここまでやれば不自然じゃないとでも? だれだか知らないが、ミントのほうを見すぎだ。
若い男はキッと歯をくいしばると、おぼんをハニーにたたきつけて身をひるがえした。裏庭へと逃げる男のあとを追いかける。突き飛ばされた客は眉をひそめはしたものの、騒ぎ始めるそぶりは見せなかった。
だれもいないバラ園をウェイターは疾走した。男が散らした花びらを踏みつけ、苗のあいだを抜け、アーチをくぐる。黄色いバラの茂みから飛び出したところで、彼の姿を見失った。
いや、まだ足音が聞こえる。生け垣の外に出たのか。小柄な体でツゲの木の根元をくぐり抜けたのだ。自分の図体じゃマネできないと判断したハニーは、少し下がって助走をつけ、背面跳びの要領で生け垣を飛び越えた。
男は通りに出ることもできなかった。
背中から全体重のかかったタックルを受けて、殺し屋はつぶれたカエルのように地面に沈んだ。ハニーに胸元をつかみあげられたときにはすでに気絶していた。数発頬を張ったが起きない。どうしようかしばし悩み、ハニーはメルバに連絡を入れた。
「刺客を捕まえたぞ」
「言わんこっちゃない!」
「どうする?」
「今そいつしゃべれるの? あっそ……じゃあいいや。だいたい目星はついてるし……連絡手段は持ってる?」
ハニーは殺し屋のズボンのポケットから携帯端末を見つけた。
「それだけ持って帰ってきて」
「残りは?」
「捨てていいよ」
起きてしまう前にネクタイで殺し屋を後ろ手に縛り上げる。屋敷の裏手に、花の配送トラックが停まっていた。運転手がこっちを見ていないのをいいことに、意識のない刺客を荷台に放り込む。
ご苦労さま、と運転席にいる赤ら顔の男に話しかける。「花、よかったよ」
「そうかい? そう言ってもらえると、はるばる運転してきたかいがあるね」
「どこから?」
「メインのド田舎だよ」
「そりゃいい」と思わず言ってしまう。「――ところだよな」
「ありがとさん。よい一日を」
トラックが発進するのを見届けたあとでハニーは気づいた。なにやら会場が騒がしい。
ミントはテーブルを飛び越えた。追うゼリーの手がテーブルの上のものをなぎはらう。グラスが次々に落ちて割れた。テーブルクロスのかげで、チョコレートミントは弾丸を確認した。息を吸い、吐き出し、対ビター拳銃をにぎりしめて、さっと立って走る。一応持っててよかった! ぐにゃぐにゃ、ゆらゆらと動くビターは敏感にミントの動きを察知し、手を伸ばしてきた。細いつるのような触手だ。茨? イソギンチャクっぽくも見える。
振り向いて一発撃った。弾はてんで見当違いのほうへ飛んでいく。二発目は木に当たってぱっとくだけてしまう。思わず舌打ちする。走りながらだと全然当たらない。次のテーブルの下にひそみ、這って移動する。お客さんはもう全員逃げ終えたかな? 悲鳴があまり聞こえなくなった。いいことだ。ビターは音に反応する。聞こえるのは、流れ続けるパーティーミュージックと、風やビターの暴力で食器が割れる音だけだ。うまく引きつけられたみたい、とミントはひとまず安心した。
が、それは間違いだった。ティーセットが落ちて割れているところで、チョコレートミントはエヴァンの友達に出くわした。たしか車のディーラーだと言っていた、丸いめがねの男だ。銃を手にしたミントを見て悲鳴をあげ、手足をばたつかせて芝生の上をあとずさる。静かにとジェスチャーをしたが遅かった。一本、二本、とムチのような細腕が男の足をとらえ、芝生の上を引きずっていく。やむをえずミントは立ち上がった。ビターに二人目を飲ませたら、討伐・捕獲がぐっとやっかいになる。
ガムシロップのポットをつかみ、男の足元目がけてたたきつけた。甘いものにビターがひるみ、触手から力が抜ける。ディーラーの手を引っ張ってビターから取り返し、無理やり立たせる。「逃げて! 早く!」
おぼつかない足どりの男に追いすがろうとするビターに銃を向ける。「こっち向きなさいよ!」片手で角砂糖の入れ物を探り当てる。「もう……かまってちゃんも……大概にしなさいって!」
たいしたダメージではないはずだが、次々にぶつけられる角砂糖にいらだつのか、ビターが突如いっせいに腕をうねらせた。当たったテーブルが一刀両断される。
銃を構える手がふるえる。落ち着け、落ち着け、あんなの全然怖くない。もっと大きいビターだって見たじゃない。あの中身はただの女の子。ちょっと偏執的なかよわい女の子でしょ。ただ、宇宙生物に乗っ取られてるだけで。
銃を握り直すのと、ビターが向かってくるのが同時だった。ミントは目くらましにテーブルクロスをばっと投げ上げると、転げるようにテーブルの下をくぐり抜け、ビターのふところに入り込み、引き金を引いた。ここからなら、外しようがない。
ビターの体組織がぱっと飛び散った。
液体化したビターをもろに浴びてしまい、チョコレートミントは目をしばたいた。髪からぼたぼたとしずくが落ちているのを感じる。いつのまにか、アップにした髪はほどけてしまっていた。まあかなり動き回ったしなぁ、と髪をかき上げて、そこでやっとあたりの様子が目に入った。
無事なテーブルはひとつもなかった。もはや木の残骸としか言いようがないものもあった。倒れたワインで真っ赤に染まったテーブルクロス、割れた大皿にケーキスタンド、芝生に投げ出されたトングやカップケーキ、散らばるイチゴやフォーク、無残に茎の折れた花、そういうものがミントを取り囲んでいた。呆然とするミントと目が合うと、ディーラーの男はヒッと息を飲み、助けを求めるように後ろを振り返った。
パーティー参列者の一部が、庭の入り口に集まっていた。グレイもその中にいた。おそるおそる様子を見に来たのだろうが、それ以上中に入ろうとはしていなかった。彼らは惨状の庭園だけを見ているのではなかった。
自分の恰好に目を落とした。頭の先からつま先まで汚れていた。解けた髪はぼさぼさで、そこかしこに芝生がつき、ストッキングは伝線している。幾何学的でおもしろいとグレイが言ってくれた三角形のピアスは片方なくしてしまっていた。おろしたてのミントグリーンのワンピースはビターでまだらに染まっていた。
ガムシロップでべとべとする手を持ち上げて、チョコレートミントはゆっくりと対ビター拳銃をバッグにしまった。
ハニーは庭じゅうを探し回ってやっとチョコレートミントを見つけた。チョコレートミントは裏庭のオリーブの木と白いミニバラの鉢植えのあいだにうずくまっていた。ビターボトルをにぎりしめている。
「遅いよ」低い声でミントが言った。「どこにいたの?」
「探した」
「こんなんじゃ表に出られないでしょ」
たしかにひどいなりだ。
「車を呼ぶ」
「そうして」
「あの男がずいぶん探してたぞ。なにかあったのか?」
「別に」気落ちした声でミントが答えた。「もう連絡しないでねって言っただけ。BBのアカウントも削除しちゃったから、二度と連絡取れないや」
「ならいいんだが」話がSNSのことに触れたのでハニーは切り出した。「さっき殺し屋が来て」
「え」
「たぶん、この写真から場所を突き止めたんだろう」
殺し屋の携帯を操作して、ベイカーズ・バスケットのページにする。ケイティのアカウントに、さきほど一緒に撮った写真が投稿されており、チョコレートミントの顔にタグ付けまでしてあった。おそらく最初から、チョコレートミントのアカウントを見ていて動きを知ったのだろう。
「ほかにもSNSやってるだろ」ハニーはうながした。
ミントは深いため息をついた。「全部やめるよ」
ハニーは「帰ろう」とだけ言った。
手を貸してチョコレートミントを立たせると、がくっとその体が傾いだ。ミントがあわてて足元を確認する。左の靴のヒールがぽっきりと折れていた。
「あー! お気に入りだったのに……」
チョコレートミントの目から涙がこぼれ落ちた。さすがに少しかわいそうになって、ハニーは左足の靴を脱いで差し出した。
「履いとけ」
「義足が傷ついちゃうよ」ミントは遠慮して言った。「いいの?」
「裸足で歩くくらい気にしねえよ」火星の砂はもっとザラザラしていた。「そもそも、こいつ、いつも靴履いてなかった」
「ずっと裸足? まあ、服とか、着ないか」
ハニーはふっと笑った。「そうだな」
「あ……初めて笑ったね」
ミントの指摘に思わずうろたえていると、彼女はあははと笑ってかかとの折れた靴を脱いだ。「肩貸してよ」
かがんでやったハニーにつかまって、ミントは靴を履きかえた。
「足の人、名前はなんていうの?」
「マスタード」
「そっか」ハイヒールを指に引っ掛けて、ぶかぶかの靴で歩き出しながらミントはしみじみと言った。「ふたりでひとりなんだね」
無論ふたりは、その日のうちにとある殺し屋たちに目をつけられたことなど知るよしもなかった。
「チェスナッツがやられたってよ」
「殺し屋番付見た? 順位大幅ダウンしちゃってさ。しばらく仕事にさしさわるかもね」
「バカだなあ」
「やったのはだれかな?」
「こいつだよ、ランキング上昇してるこいつ」
「三百二十八位じゃん。新人さんか。まだひとりも殺してないよ」
「“速贄”チェスナッツを退けるとは。どんなやつかな」
「こちらがそのVTR」
「ハイジャンプの選手かな?」
「ちょっとふつうじゃないよね」
「ひょっとして、ひょっとする?」
「姉ちゃんと同じだって?」
「どうだろうねえ。ちょっと興味がわいてきたかも」
(第5話 おわり)