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蜘蛛の恩返し

作者: ユメオニ

 男は今年で35歳になるが、恋人もおらず、親友と呼べる存在もなく、孤独な生活を送っていた。

 唯一の趣味は映画鑑賞で、年間で300本くらい映画を観て、その感想をブログに発表しており、それなりの数の読者がついていることが男の密かな自慢だった。

 ある休日、ずっと楽しみにしていたスパイダーマンの新作が公開初日を迎えたので朝一番に観てきた男は、スパイダーマンになったつもりで意気揚々と街中を歩いていた。

 男はいい映画を観た後はその映画の世界にはまり込んでしまい、その映画の主人公のような振る舞いをすることがよくあった。

 ある古めかしい喫茶店の店先で、店主が箒を軒先に向かって振り回していた。

「何をしているのですか?」

 男が気になって尋ねると、店主はこう答えた。

「蜘蛛を退治しているのさ。まったく、忌々しい」

 軒先には立派な蜘蛛の巣が張り巡らされていたが、店主の振り回した箒によって壊され、蜘蛛が落ちた。

 背中に赤い模様のある蜘蛛だった。

 店主が箒を蜘蛛に振り下ろしたそのとき、男はとっさに蜘蛛の前に身体を投げ出していた。

 店主の箒が男の背中を打つ。

「あんた、何をしとるんだ!」

「この蜘蛛、私にくれませんか?」

 男はあっけにとられる店主に言い残すと、赤い模様のある蜘蛛を手の平にすくい上げ、その場を立ち去った。


 映画スパイダーマンの中では、蜘蛛に噛まれた主人公がスパイダーマンの力を手に入れる。

 男も蜘蛛に噛まれたいと思ったが、蜘蛛は男の手の中でごそごそ動き回るだけで、一向に噛む気配もなかった。

 男はつまらなくなって、歩道の植木に蜘蛛を放した。

「次はもっと人通りの少ない場所で巣を張るんだぞ」

 蜘蛛はすぐに去ろうとしたが、思い出したように止まり、男を見た、ように男は思った。

 背中に赤い模様のある蜘蛛のその姿は美しかった。

 一瞬その蜘蛛を家に連れて帰ろうかとも思ったが、すぐに馬鹿馬鹿しくなって男は立ち去った。

 男の身体に奇妙な現象が起きたのはその夜のことだった。


 指先が赤い、と思ったら糸だった。男の指先から赤い糸が出ていた。引っ張ると赤い糸はどこまでも伸びた。糸は間違いなく男の指先から出ていた。左手の薬指だった。

 スパイダーマンの指先から出る強靱な蜘蛛の糸とは違って、男の指先から伸びる糸はだらんと伸びるだけで、何の役にも立たなかった。

 邪魔だな、と思うものの、切ってしまう気にもならず、そのままにして過ごしている内に、糸はどんどん伸びた。

 奇妙だったのは、職場の同僚も道行く人も、男の指先から出る糸の存在が見えていないことだった。

 同僚とは仕事以外の会話をするような仲ではなかったが、それでも指から赤い糸をだらんと垂らし続けていたら誰かしら指摘してくるはずだった。でも誰もそのことに触れないどころか赤い糸に視線を止める様子もない。誰にも見えていないと考えるのが普通だった。


 思い当たることと言えば先日助けた蜘蛛しかなかった。

 蜘蛛を助けたお礼に、指先から糸を作り出す不思議な力を授けてくれたのだ。蜘蛛の糸は白だが、男の指先の糸は何故か赤い。蜘蛛の背中が赤かったことと何か関係があるのだろうか?

 せっかく蜘蛛がくれた糸なので、男はそれを使って色々遊ぶことを考えた。

 最初にやったのはあやとりだった。子供の頃は一人であやとりをやっていろんな技に挑戦したものだった。吊り橋、箒、東京タワー。色々作ったが、すぐに飽きた。蜘蛛が何故男に糸を作り出す力を与えたのか謎だったが、少なくともあやとりをする為ではなさそうだった。

 次に、いつのまにか外れてしまったジャケットのボタンを糸で縫い付けることを考えた。四苦八苦しながらボタンを付けることに成功して達成感はあったが、黒いジャケットに赤い糸がちょっと変で、それを着て外に出る気分にはなれなかった。

 やがて男は糸を使って遊ぶことにも飽き、映画を観ながら指に巻き付けては解いたりして気分転換に使う程度になってしまった。


 そんなある日、男は仕事の関係である女と出会った。女は取引先の新しい担当で、男は初めて彼女を見た時に心臓が高鳴るのを感じた。そんな感覚は男にとって久しぶりのことだったので、その晩はうまく寝付けない程だった。

 女と出会ってから、男の指先の赤い糸は明らかに伸びるのが早くなった。そのまま伸ばしておくと日常の動作や仕事に支障をきたすので朝の出勤前に切るのだが、またすぐに伸びてくる。まるで髭のようだった。しかも、女と会った後は赤い糸の伸びが明らかに早くなるのである。

 男は、その赤い糸を女の指に巻き付けてみたいと思うようになった。そしてその為の作戦を夜な夜な練った。そのせいで最近は映画を観る本数がぐっと減ってしまったくらいだった。

 それを考えている時間は男にとって上質な面白い映画を観ている感覚に近く、全く苦ではなかった。

 ある日、男はついに作戦を実行に移すことにした。

「実は知り合いの占い師から聞いた運気がアップするおまじないがあるんですが、一つやってみませんか?」

 もちろん男に占い師の知り合いなんていない。

「え、やってみたいです」

 女はフレンドリーな性格なので、断りはしないと思っていたが、案の定だった。

「こうやるんです」

 男は左手薬指から伸びる赤い糸を女の薬指に巻き付けた。女からは赤い糸は見えていないはずなので、何かを巻き付けているような仕草にしか見えないはずだ。

 女はされるがままになっているが、男の心臓は異常なまでに早い鼓動を刻んでいた。

 男はようやく糸を巻きつけ終えた。男の薬指から出る赤い糸は女の薬指で固く結びつけられていた。

「これで完成です。これで運気がアップしたはずです。これからきっといいことが色々起きますよ」

「まあ、嬉しい。何が起きるか楽しみです」


 どんなに女から離れても、男の指の糸は切れなかった。女が離れれば離れた分だけ、男の指先から出る糸は伸び続けた。

 その証拠に次会った時も女の指には糸が巻き付いたままで、その糸はどこまでも長く伸びていた。

「この前もの凄く倍率の高い舞台のチケットが当選したんです。いつもこういうのハズレてばかりなのに。この前のおまじないのおかげかしら」

「きっとそうです。あのおまじないは効くのです」

 そんな訳はないが、男は都合のいい答えを返した。

 女と離れていても、指先から出る糸が女と繋がっているのだと思うと、男は幸福だった。

 赤い糸の効用はそれだけではなかった。

 男は、プライベートな時間で女と何度も偶然出くわすようになった。

 駅のホームで、書店で、喫茶店で。

 男は決して赤い糸を手繰った訳ではないのに、何度も女と出くわした。その度に軽い世間話を交わした。

 そして女が当選したという舞台を男が当日券狙いで観に行ったその日、劇場で女を見かけ、男はついに誘った。

「素晴らしい舞台でしたね。誰かと感想を語り合いたい気分なので、よかったらこの後食事でもどうですか?」

 その後の食事では二人の映画の趣味が共通していることが分かり、会話はとても盛り上がった。しかも女は男の映画の感想ブログを読んでいて、映画を観る際の参考にしていることまで判明した。

 男は、自分の書いたブログを女が読んでくれていたということに、飛び上がらんばかりに喜んだ。

 二人はそれからも何度か食事に行き、いつしか付き合うようになった。

 ある時、いつものデートで街中を歩いていると、女がキャッと悲鳴をあげた。

 見ると、女の首筋に蜘蛛が落ちていた。背中に赤い模様のある蜘蛛だった。

 男は、その蜘蛛を優しく掴むと、近くの歩道に放した。蜘蛛はちょっとの間男を見るようにじっと動きを止めた後、するすると建物の陰に消えていった。

 そしてふと見ると、男の左手薬指から伸びる赤い糸が消えていた。

 女の左手薬指からも糸は消えていた。

 当惑した男の様子に不思議そうに小首を傾げた女の手を、男はぎゅっと握った。

「行こうか」

 男は、微笑んでそう言うと、女と手を繋ぎ歩き出した。


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