Part1 流れ星
星空の綺麗な夜だった。
終電も行ってしまった午前12時過ぎ。飲み会の帰りらしい赤い顔をした40代くらいの酒臭い中年のおじさんを彼の家に送り届け、トイレに行こうとその近くで見つけた公園にタクシーを止めた。車から降り、きりっと冷え切った冬の空気の中、ふと澄んだ夜空を見上げると何かがチカッと瞬いた。
星……なのだろうか。それにしては輝きが強かったような気がするが。
目を凝らしてよく見てみる。降るような星空とはまさにこのことで、住宅街とは思えぬほどの星たちが微かに青みを帯びた暗い空でただじっと静かに輝いている。このまま見ていると感覚が麻痺してこの空に吸い込まれてしまいそうだ。あるいは、星の方が俺に近づいてきているのか。ほら、特にあの星なんて今にも震えてて落っこちそう……だ!?
俺は目を瞠った。
満天の星達が静止している中、他のものと何も変わったところのなかったその星は急にふるふると震え始め、遂に尾を引いて落ち始めた。
……え!?あれってもしかして流れ星!?
これは幸運とばかりに願い事を唱えようとする。
ところが悲しきかな人間の性。欲望は数あれど、いざ実際に願い事として唱えようとすると何も思いつかないのだ。まあ待て。まだ星は落ち切ってない。ここは冷静になって自分の本当に叶えたい願いを考えようじゃないか……ん?待てよ?
そこで俺は異変に気づく。
あの星、何だか落下時間が異常に長くね?それに、心なしか段々大きくなってきているような気がするんだが。あれ、もしかして俺に近づいてきてる?
その通りだった。星は白に近い輝きを増しながらどんどんこちらへ向かってくる。
「え、ちょっと!?」
俺は慌てて逃げようと足を動かすが、体がうまく動かず、足がもつれて転び、尻もちをついてしまった。アスファルトの固い感触が、手に、尻に伝わってくる。
星はあと数秒でピンポイントで俺を直撃しそうだ。あまりの眩しさにせめて目だけは守ろうと(あるいは現実を認めたくないから)目を閉じようとした……が。
俺は見てしまった。
その輝きの先頭にまだあどけない顔をした10代前半くらいの少女がいるのを。
目が合ってしまった。
途端、時間の流れが遅くなったように感じた。
泣いている。
涙できらきらと輝く瞳の縁。
何でだ?何があったんだ?
彼女の口が微かに動いた。
「た」「す」「け」「て」
次の瞬間、彼女の体は地面に体育座りを崩したような形でへたり込んでいる俺の、曲げた体と足の間にすっぽりと収まっていた。着地の衝撃はなく、人が乗っているのが嘘のようにふわふわと軽い体。触れている感覚すら感じないほどだ。
えーっと……。
これはどういう状況だろうか。
俺は明らかに異常な自身の心臓の鼓動を抑えようとじっくりと少女を見た。
改めてみると非常に可愛らしい子である。
気を失っているのか閉じられた瞼。それを縁どる長い睫毛。泣いていたのは目の錯覚ではないようで、つーっと涙が一筋、そのつるんとしたたまごのような頬を滑り落ちた。
セミロングでふわりと内側に巻かれた髪は薄い栗色。何故か一つも乱れていない。
服装はまた何というか奇抜で……。黄色を基調とした、オレンジのアクセントが所々に入ったワンピースなのだが、フリルやリボンがあちこちにあしらわれている。街まで外出とかそういうレベルの服ではない。これではまるで何かのコスプレだ。
「ッ……うー……ん?」
俺がそこまで考えた時、少女が目を開けた。
何がどうなったのかわからないのか、不思議そうな顔をしてすぐ近くにある俺の顔を見る。
俺も咄嗟に言葉が出ず、少女を見つめ返す。
たっぷり五秒間。
「……おはよう」
どうしたらいいのかわからなかった俺が口から発したのはそんな寝起きにする挨拶だった。
「あっ、おはようございま……す?」
しかし少女の方も混乱しているのか、不思議そうではあるが挨拶を返してくれた。よし、とりあえず言葉は通じるな。
「あの、私……?」
少女は不安そうにあたりをキョロキョロ見回す。やがて、自分が今どういうシチェーションにいるのかを悟ったのか急に赤くなって俺からぱっと離れた。
「す……すすすすすすみませんっ!!!!あの、私、私一体……!?」
立って、慌てながらワンピースにぺたぺた手を当てて身なりを整える少女。何だか可愛いなと思った。
「よかった。元気みたいで」
しかし、そんな下心をおくびにも出さず俺は安心させるよう彼女に笑いかけた。
「ほ、本当にごめんなさい……なんとお詫びをしたら良いのか……」
恐縮して頭を下げる少女。
「そんなお詫びなんていいよ。それよりさ、君は一体——」
俺は言葉を最後まで言うことができなかった。
何故なら。
「!」
唐突に稲妻が走り、美しかった星空が切り裂かれた。
少女はさっきまでの見る人を和ませるような柔らかい雰囲気を引っ込め緊迫した様子で、俺の言葉を最後まで聞かずにそちらを向いた。
「……」
俺はこの行き所を失った言葉をどうすればいいのか……じゃなくて、何で稲妻が突然?雨なんて降ってないのに。
答えはすぐにわかった。
「ふふふ……私から逃げようたって無駄なんだからね……」
丁度稲妻が走ったであろう空の下に一人の人影があった。
暗くてよく見えないけど……なんだあの頭?ツインテール?
人影は近づいてくる。
「さぁ、あの子をどこに隠したの……?今言えば、この杖は返してあげる……」
何か先の丸い棒状の物を持っているようだ。
「嫌です!!絶対に教えません!!!!」
その人影に向かって叫ぶ少女。そこからは絶対的な拒絶が伝わってくる。
「……あらそう」
人影はぴたりと動きを止めた。そこは丁度街灯の下で、その人物の全貌がはっきりとよく見える。
くるぶしまであるようなピンク色の長い髪を、高い位置でツインテールに束ね、丸い髪飾りを付けているきつそうな目をした少女。栗色の髪の少女よりはやや年上のようだ。服はピンクに赤や白のアクセントが入っているが、セパレートタイプのミニスカートで、胸元や太ももなど露出が多くそのスタイルの良さがはっきりとわかる。
その少女は口の片方の端を吊り上げて、凶悪そうににやりと笑った。
「じゃあ交渉決裂ね。この杖は折るなり焼くなり私の自由。そして力づくでもあなたにあの子の居場所を吐かせるのも私の自由」
彼女は右手をスッと伸ばし、手のひらをこちらに向けた。
パチパチと彼女の手の周りで散る火花。なんだあれは。
それを見た栗色の髪の少女はさっと青ざめた。
「に……逃げなきゃ……」
彼女の小さな呟き。
「この私に逆らったこと、後悔することね」
ツインテールの少女がそう言うのを最後まで聞くやいなや、並々ならぬ危険を感じ取った俺の体は動いていた。
咄嗟に立ち上がり、微かに震えながら立ち尽くしている栗色の髪の少女の手を引き、すぐ横に停めてあったタクシーの後部座席に押し込む。扉を乱暴に閉め、俺も急いで運転席に乗り込み、ツインテールの少女に背を向けて、車を全速力で発進させた。バックミラーに映る、だんだん遠ざかっていく少女。俺は何も考えず、ただがむしゃらに車を動かした。一瞬――遠ざかるほんの一瞬、車内にいるのに彼女の声がすぐ耳元で聞こえた。
「人間の分際で私を敵に回したこと、後悔することね」