薬師倫太郎臨床心理事務所01/WPK(ワーキングプア警備員)//04“気を抜いてはいけませんよ…”
北池袋。22:47
鑑識の調べによれば、死因は餓死。
布団が敷かれて異臭が立ち込める四畳半。
幡ヶ谷橋署の女性捜査官二人、それに70代の大家。
50代も半ばのスーツ姿の女性捜査官は、布団の中の御遺体に手をあわせる。
この御遺体には、いくつもの床擦れの跡がある、ということだ。
息のある時から放置されてきた証拠である。
「今日が6月27日。…この人、半月以上は寝たきりだったはずですよ、高御門警部、」
「そう、可哀想に…」
「見捨てられたワーキングプア?」
「私にはわかりません…」
上司は部下に思い付くままの台詞を苦笑とともに投げかけた。
それはどうでもいいことだった。
今どき、都会の孤独死など事件にすらならない。
だから高御門警部は、
病んだ社会に手を合わせて見つめることも忘れないようにしている。
それが本意ならざる死を迎えたこの人の無念をはらす過程になることも熟知している聡明な女性だった。
なんにしてもこの仏さんを早く心やすらかにさせてあげるのが二人の仕事だ。
「奥さんと子供、いたんでしょ、この人」
「そうなんだけどねぇ、愛想尽かしたんだか、尽かされたんだか…」
箪笥の上を調べていた警部が、手をとったもの!
名札?
『極楽大平警備保証株式会社 警備士:為川靖成 ID :SDOP36658-5681G』
「これ、極楽大平警備保証!…澄眠巡査部長、倫太郎くんの所へ連絡して!」
「はい!」
肌の色の濃い体育会系の女性巡査部長は携帯を開いた。
天井の隅に淀む死臭の中心あたりにそれはいた。
生きた人は、単純に長時間それに触れれば、気分が悪くなり、やがては死すら免れないほどの危険を伴うものである。しかし目には見えない。
形、色…何も無い。
それが物理的に形をまとっているものは死臭だけだった。
それは呪詛のような呟きをくり返していた。
当然、室内にいる三人には聞こえない。
“気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…気を抜いてはいけませんよ…”
「清掃業者の方、明日の朝一で来るそうです。」
「あ~あ、借りてつかなくなっちゃうわねぇ…」
「外国人の方なんかどうなんですか?」
「そうねぇ、身元確認の手立てとか…」
「それはそうと、撤収しましょう。」
「えぇ、あたし、だめ、気分悪くなってきた、こんなの始めて…」
浦和。 01:52
夢魔が出現した。
痩せて醜くイボの浮き出した細い手が、のたうつミミズのようにいきなり美少女のふとももをまさぐった!
安らかに眠っていた彼女の意識の中。
それは、老醜を晒した餓鬼だ。
その大きさは、彼女の身長をひとまわり上回る。
力は強い。
餓鬼は、鼻をつく体液を彼女の上にまき散らしながらのしかかってくる!
「い、いやいやいや嫌厭嫌厭嫌厭嫌厭嫌~~」
布団を突き飛ばし、身体が転がる。
「いや、否、嫌、厭嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌…」
彼女の目は、見えない何かを捕らえ、恐怖におののいている!
逃げ場は無い!
餓鬼の顔は、髪が抜け落ちて老人斑の浮き出した前頭部を揺らしながらスリよってくる。
「嫌嫌嫌嫌嫌…た、助けて、否、た、助けてっ!」
老醜の夢魔は、舌舐めずりをした。
美しい彼女の顔が、絶望に引き歪む!
夢魔は、腐って爛れた皮膚をまとわりつかせた腕を伸ばし、彼女の腰にしがみついてきた。
ここはどこ!?
あたしは、なんでこんな所にいるの!?
自分とこの化け物以外、距離もつかめない暗闇…
逃げる。(壁にぶつかる)
また逃げる。(今度は机の角)
助けて、誰か助けて…犯される…もういや、いや、誰か…ねぇ…誰か…助けて、お願いよぉ…
彼女は、
夢の中で襲いかかってくる化け物から逃げ回り、
自分の部屋のインテリアを半分以上なぎ倒していた。
もはや、二の腕や、足など血だらけだ…
餓鬼は、美少女を押し倒し、のしかかってきた。
餓鬼は何ごとかを呪詛のように呟いている…
“気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ、気を抜いてはいけませんよ…”
美少女は抗うことができない。
餓鬼の呟きは、まるで意味不明だ。
その口元は、へらへら笑いながら、破壊された意味の残骸のような音を吐き出している。
“気を抜いてはいけませんよ…”
これは彼女の覚知出来ない意識の奥底に仕掛けられた“時限爆弾”にアクセスするコードだった。
“六月の二十日”に何があったか、今の彼女に思い出すのは無理だったが、
彼女の意識のエネルギーは、この餓鬼が放たれた座標もふくめて、
まずい事にまとめて活性化してしまっていた。
黄色い乱杭歯が、軋む。
美少女に、それは奇怪な唸り声にしか聞こえなかった。
餓鬼は、骸骨のように奇怪な腰を美少女の下半身へ、左右に振りながら埋めようとする。
彼女の目から、涙が溢れて止まらなくなった。
両手で顔を被ってすすり泣く。
「いや、いやぁぁぁぁぁぁ…」
「どうしたの、沙耶華!、だいじょうぶ!?」
母が、悲鳴を聞きつけて駆け込んできた。
「う、あ、あああああああ~~~~~」
母の姿を見た葵菜沙耶華は緊張の糸が切れたように再び泣き出した。
少なくとも夢魔は去ったようである。
ただ今02:12。
「薬師先生とこ、電話しようか。」
「こんな時間に無理だよ、」
「おまえの苦しむ姿見たら、あたしはいてもたってもいられないよ。」
母は、二階の入り口にある電話器の子機を手にとった。
『はい、薬師倫太郎事務所…』ただ今倫太郎は、調べものの途中…『あ~、葵菜さん、どうしました_』
倫太郎は緊張した。
葵菜静恵(母)が、口火を切る。
「夜分遅く大変失礼いたします、実は…」
倫太郎は目をつぶっている。
夜更かしをして調べものをしていたので、
凛ちゃんがいれてくれた濃いめのラベンダーティーを一口すする。
クライエントの意識にシンクロした。
いる!
“それ”のビジュアルが、
三次元的に、倫太郎の意識の中でめくられていく。
一枚、二枚、三枚…よりくっきりと、
より鮮明に鮮やかに…
『でたな、とうとう』
「!え?何?…」
『すいませんね…沙耶華さんに変わっていただけます?』
「はい、倫太郎先生、」
受話器の向こうで、倫太郎は受話器を肩と顎に挟んで合掌していた。
『葵菜さん、あなた、感受性強いよねぇ。」
倫太郎は目をつぶったままだ。
「…」
「そのことはあなたの良い所として誇ってもいいと思うんだけど、今、それを活かせる仕事場じゃぁないいでしょ、』
「…」
『苦労するよねぇ…』
たたみかける倫太郎の言葉。
「はい…」
『少し余裕が出たら転職、考えてもいいんじゃないかな。』
「そう、ですね…」
『ものすごく恐い思いをさせた化け物はこっちが“押さえた”から』
「え!」
“押さえた”のだ。
別段、決めポーズをとって組み伏せたわけではない。
(まんがではあるまいし)
その秘法は伺い知ることはできない。
然るべき方法が存在し、それは東西の古文にも詳しいが、
言葉で置き換える事を強制する形での理性での納得を第一に要求する人間には、
到達しがたい世界ではある。
そして今は、そんな観念遊戯につき合う時間は無いのだ。
これは緊急介入だから。
『まだ少し“暴れる”かもしれないけど、葵菜さんには味方がいるんだ、ということ、死んでも忘れちゃだめだよ』
これがカウンセラーの仕事だ。
「はい。」
傷だらけの美しい女性は、受話器を握りしめ目を潤ませた…
桜田門。02:16
「うわ~~~~」
内堀通りを国会前信号左折直前…
極楽大平警備保証代表取締役が乗り回すことで有名なの砲座付きの迷彩ハマー。
危うく路肩へ乗り上げて転倒する所を急ブレーキで難を逃れた。
絶叫した人物は、ハンドルを握っていた老人である。
「“追い返された”!?…」
同乗者はいないので、この老人にしか理解できないことも、遠慮する必要は無い。
この老人の執着の強さは昔から破格だった。
望んだものは必ず手に入れる、という点において、その執着の有り様はシンプルだった。
善と悪を厳しく線引きすることとは無縁な人格形成期を過ごした手前、
それはよりシンプルで暴力的に巨大化していたと言える。
政界に知己がいた、ということも幸いしていた。
政治の世界には精神的エネルギーポテンシャルの高い人間が多いのはよく知られた事実である。
憲政史上最低と言われてその重要ポスト引退後もその行動で物議をかもしている政権重要人物とも、数人を介して会える間柄だった。去年の東日本大震災以降、停滞した政権の流れは、すべては国民のため、という見え透いた偽善主義の勃興を食い止められずに、このような鬼畜の繁殖をその近傍で許していたと言える。
ある日、この男は、自分が今いる物理的座標から、今の自分の意識の一部を切り離すことができることに気がついた。
それは心象のみで作られた具体的な仮想現実だった。
そこには“入力装置”があり“伝達装置”がある。
“入力装置”は、頭の中、前頭野に浮いている仮想鍵盤のようなものだ。
伝えたいものを伝えるために、順次その鍵盤をコンピューターのキーボードを叩くように“押す”
“伝達装置”は、どこまで伝えるか、という事に関してその距離は関係ないようである。
切り離した意識は瞬時に望むものの場所へ回廊をつなげ、その映像を距離と時間に関係なく結ぶ事を可能とした。
伸ばした回廊は“視界”を確保するだけではない。
その“視界”が確保している“対象物”への自在な干渉を可能とした。
当然干渉されている方にその兆候は一切関知出来ないが、まれに自分の意志では回避、消滅不能なほどの悪性の脅迫観念として感知してしまう人間がいる事はいた。
唯一その干渉を排除出来るものがあるとすれば、いにしえより伝わる“呪詛返し”あるいは“護摩”以外には無かったとえる。
美しい女は、望めば何人でもその意識の回廊を伸ばしてかこっておくことができた。
金も、物も、地位も権力も同様だった。
ステイタスを輝かせる知性と人倫も、金の力と、民族主義を内包した偽善的経済グローバリズムに汚染されたマスコミを牛耳る事が出来る場所に立つ事が出来ているだけに、その根本的な欠損を指弾される事はなかったといってよい。
そして、それらすべてに関係する関係者らの“裏切り”もすべてお見通しだった。
さっきまでは!
老人は自分の身体感覚をチェックしてみた。
暗く透徹した内的意識に何かひっかかるものがある。
それが有力秘書候補第一の葵名警備士に口添えしている男のようだ…とおぼろげながら、
この首魁は推測していた。