薬師倫太郎臨床心理事務所01/WPK(ワーキングプア警備員)//03_PTSD
『スーパーダイフク』東京ドーム近くにある大手スーパー。
12階建のマンションの地下一階から四階までを占める。
梅雨まっさかりのうっとおしい季節にふさわしく、テナントの花屋の売れ筋はあじさいの鉢植えだ。
薬師倫太郎臨床心理事務所の所長:薬師倫太郎の婚約者にして有能なカウンセラーの凜ちゃんは、
今日も楽しくお買い物。
将来のダンナは、最近仕事が立て込んでいるので、
今日は胃腸の癒しもかねて中華風薬膳粥にしようかと思ってる。
「どう、凛ちゃん、若先生の景気は?」
さっそく、顔なじみのマネージャー。
オネェモーション入りの有能な田中さんだ。
「薬師倫太郎臨床心理事務所も最近じゃすっかり児童虐待救助隊で売出し中よ。」
「ま、やな御時世ねぇ、」
「でもそれで助かる子供がいるもん。」
「そっか…」
この時間の定期巡回の警備員が来た。
今日は女性警備員だな。
凛ちゃんも顔は何度か見たことがある。
すっごくきれいな人!
スカイブルーの冬服に紫のネクタイ、濃紺のドゴール帽、シルバーのモール。
胸のワッペンには『極楽大平警備保証』の漢字。
ところが…彼女は会釈をするやいなや!?
どさっ…「え?」倒れた!?…
横たわる彼女!凛ちゃんは駆け寄る。
「どうしたんですか?警備員さん、」
意識失ってる、あちゃぁ…白目!ぱしぱしぱしっ!
「警備員さん」
凛ちゃんは、軽く彼女の頬を叩いた。気が付く。
「あ、」
彼女は切れ長の目の美しい人だ。
化粧が流れ落ちそうなくらいにびっしりと脂汗が浮かんでいる。
おまけにげっそりやつれている。
なに?これは?
「ちょっと、マネージャーっ、」「あらなぁに?」
田中さんは、でっぷりと肥ったおばちゃんに今日のお勧めを紹介していたが、
「なぁにじゃないわよ、」
「あれっ、警備の葵菜さんじゃないですか、」
「ひどい汗、真っ青よ!」
「事務室まで運ぶわ、手伝って、」
「うん」
あたしは、葵菜さんを右肩に、マネージャーが左肩を担ぎ上げた。
彼女はうわ言のようにつぶやいていた。
「せ、生活費、生活費が…い、いやぁぁぁ、」
「しっかり葵菜さん、」
「生活費、生活費がぁっ」
「警備員さんしっかりして、」
あたしは葵菜警備士の手をとって脈を見た。ソファに身体を横たえる。
【SESSION-03 PTSD】03
「マネージャー、濡れタオル!」
「えぇ、わかったわ。」
見れば、まだ20代のはずなのに肌の色もむっちゃ悪い。
声をかける。
「ねぇ、マネージャー」
「え?」
「この人、満足に物食べてないわよ。」
「うそ…」
「ジュースか何か飲ませてあげないと」
「了解よ、おまかせ!」
気がつく。彼女は、脂汗が顔一面に滲んでいる。
なんと、いきなり泣き出した。
「ごめんなさい、す、すいません、こんな所で倒れちゃって、」
女性警備員は、よろよろと立ち上がる。
【SESSION-03 PTSD】04
「う、ううう、生活費稼がないと…犯される…」
何!?…お、かされる!?…
「ちょっと待ちなさい、何、“犯される”って、あなた、」
凛ちゃんは身を乗り出した。
ここで引き下がっては女がすたる。いやカウンセラーがすたる。
「い、いいえ、」
女性警備員は、怯えたようにかぶりを振る。
「今言ったでしょ?」
「ごめんなさい、あたし…」
「?!?!…」
「自分でも何いってるんだかよくわかんなくって…」
「…」
やつれた美人は力なく否定した。
そして…ぽろぽろぽろ…ぅわ…いきなり滝のような涙!
「大丈夫?」「ごめんなさい、ごめんさない…」
【SESSION-03 PTSD】05
よろよろと立ち上がりながら、何度も何度も頭を下げる。
美しい女性警備員のその姿は、むしろ壮絶ですらあった。
凛ちゃんは優しく手をかける。
「何もあなたがあやまること、無いのよ?」
「病気の母と弟のために仕事しなくちゃいけないんです…」
「そう、わかった、でも今はひと休みしなくちゃ、ね?」
「あ、うぅ、」
「あ、ちゃぁ…」
「うげぇええええげろげろ…びちゃびちゃびちゃ…ごめんなさい、ごめんなさい…う、うわぁぁ~ん…」
彼女は胃液を吐きながら、そして泣きながら謝り続けた。
これは…事件の臭い?
こうなったら何が何でもボスのところへ連絡しなくちゃ。
かちゃっ、
凛ちゃんは携帯をひろげた。
トゥッ、トゥッ、トゥッ、トゥッ、トゥるるるるる
「あ、倫太郎」『おう、買い物終わった?』
「いや、大変!」
【SESSION-03 PTSD】06
『どうした?』
「スーパーダイフクの警備員さん、いるでしょ?」
『あぁ』
「巡回中の警備員さんが倒れちゃって、なんか変なのよ、今事務所なんだけど…」
『どうしたんだ?』
「かなり重症のPTSD(心的外傷後ストレス傷害)の疑いがあるの、それと栄養失調よ、この人」
「すいません、そんな」
濡れタオルで脂汗をふきながら、
申し訳なさそうに彼女が話の流れに入ってきた。
「まぁ待ちなさいって」
「葵菜さん、あたしも気付かなくてごめんなさい、いろいろ事情あるんじゃない?」
オネェモーションの田中さんの表情は真剣そのものだ。
できる人の証拠である。
「…」
「ここはひとつ、凛ちゃんとこ、薬師倫太郎臨床心理事務所におまかせしてみない?」
「倫太郎、何か“視える?”」
【SESSION-03 PTSD】07
凛ちゃんは、変なことを言ったが、電話の向こうの声(言われた方)は意にも介さない。
『電話かわってくれるか?…あ、はじめまして、』
「どうも…」
『…ねぇ、あなた、“六月の二十日”あたりに何かありませんでした?』
「20日?…現任研修の日?…」
受話器の向こうの心理学の専門家でもある男は、いきなり前後に全く関連性の無い言葉を切り出した。
女性警備員は、うずくまって黙りこくってしまった。
凛ちゃんは、婚約者が、携帯電話ごしに放った“秘密兵器”の“着弾(?)”を確認した。
あてずっぽう?
いや、いやしくもプロのカウンセラーだ。
そんないい加減な言葉の使い方はしない。
では、この問いが発せられた理論的基盤は?
そんな事などかまうヒマはない、と断言するかのように、凛ちゃんは口を開く。
美しい警備員の肩をぽんとたたいた。
「だいじょうぶ、まかせて、“犯される”なんて口ばしってんのよ、この人」
『…おいおい、穏やかじゃないねぇ』
携帯の向こうの婚約者の眉がしかむのが目に見えるようだ。
「ねぇ、高御角さんとこ、連絡しとこうか?」
『そうだな、頼む』