薬師倫太郎臨床心理事務所01/WPK(ワーキングプア警備員)//09等しく悼む人
彼女がいた…
彼女は、事務所前駐車場の街頭自販機の影からのっそり現れるようにして歩をすすめる。
正面ガラス越しに、男どもは葵菜沙耶華の姿が見えたようだ。
「お!葵菜警備士、どうした秘書研修の下見か、どうしたい、入ってきたまえよ。」
ヤクザの風格を備えた支社長は、思いもかけぬほど優しい口調で呼び掛けた。
その口調は、側にいた事務の女の子が仰け反るほど無気味なものらしい。
「さ・や・か・ちゃん」
鼻が悪いらしく、年中口半開きの陰気男(支社長側近)が気色悪くしなを作る。
「あ!」凛ちゃんアクセル全開!
憔悴しきったゴスロリ美女はバックに手をかけた。
「う、うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ~」
彼女の口から漏れ出したのは、怨訴の気がこもっていた。
それは人が発する声ではなかった。
ゴスロリ少女、駆け出す瞬間!凛ちゃんのハンターカブ!_____支社の正門に突っ込む!
間一髪、人外の叫び声をあげて走り出した少女を、自動ドアの中へ踏み込みそうになる所を食い止めた!
葵菜さん…凛ちゃんの足払いで包丁を出しかけて、バッグを取り落とす。
柄が半分見えている。
支社長、柄を見た。
_____瞬時に血液が沸騰し逆切れ!
脂肪のたまった頬を震わせて声を釣り上げた。
「なんだなんだなんだなんだなんだ、おちょくっとんのか、きさまっ、うげ…」「はぁっ」凛ちゃん、かまわずデブに掌底突き
倫太郎は、運命のどんずまりでもがいていたやつれた美少女の額に右手を当てた。
左手を右肩に添える。
そして優しく座らせると、両手に気をこめた。
最初は声に出した。
「河内くん、聞こえるか?…」
美少女の名前ではなく!?
ゴスロリの美少女は、その男性の名前を呼ばれた時に、全身に電撃が走った。
電撃?
意識の波である。
それは表層から奥へ打ち寄せる凄まじい津波だ。
言葉にする事は出来ないが、そこに確かにある。
「きみが思いつめているのはよくわかった。しかし、こんなことをしても誰も救われないぞ…」
基本、小声だ。これはプライバシーに関することだから。
美少女のうつろな瞳から涙が溢れはじめた。
ゴスロリ少女の首は、自分の運命を見据えることを拒否するかのようにあさっての方を向いていたが、頬に、微かに赤みが差しはじめていた。
二度目、倫太郎は声に出さずに“声”を放った。
“きみは死んでないんだ、きみの人生は終わっちゃいないんだぞ、わかるか?
…私が手を貸すから早まった判断はするなよ、いいか?”
“…はい!”
美少女の疲れ切ったうす暗闇の意識の奥の方から、
かすかな返事を倫太郎は確かに聞いた。
“よし、身体が元気になったら、彼女といっしょに遊びにおいで”
“…はい!…”
最後の返事に伴って、暗闇の部屋の窓をあけて差し込むような光を、倫太郎は感じていた。
彼は意識不明の重症だったと聞いていたが、もう大丈夫だろう。
迷彩服の代表は、予期せぬ騒ぎに根が小心者の部分を露呈して慌てていた。
「警察だ、警察を呼べ!」
「あたしが警察だよ。」
高御門警部がぶすっとした表情で進みでたが、さらに倫太郎が、女性警部を差し置いて前へ出た。
「ちょっと待ってくださいよ社長さん、」「何ぃ」
語尾がはねあがった。
超ロン毛のカウンセラーは、右手の人差し指をたてたまま、穏やかな笑顔。
「社員が思いつめて上司に相談しに来っていうのに、それは無いんじゃないですか?」
「何だとごるぁ!」
口半開き男が、警戒棒をしごきながら因縁つけてくる。
普段から確実に閉まらない口は、その下卑た声質に磨きをかけていた。
すくいあげるようにねメつける搦むような視線が、実に様になっている。
まるで、制服を着ている地獄の牛頭馬頭のようだ。
「黙ってろっ」倫太郎一喝!
それは声自体が、小型の爆弾の様に衝撃波を放った……間
カウンセラーは、唖然として涙を流し続けている大切なクライエントの背中に手を当てて軽くこする。
生命エネルギーを送り込んでいるようでもある。
そして問いかける。
「上野へ包丁研ぎに来たんだよね、葵菜さん、ね、そうだよねぇ~」
「う…うう、はい、はい、そ、そうなんです…そうなんです、(ぽろぽろぽろぽろ)…」
精神的にどん底にいた女性警備士は、
目の前に大きなロープが垂らされたような安心感に、堰をきったように涙が溢れだした。
彼女の口が“彼女の意志”に従って動いていたかどうかは、彼女自身が心もとなく感じていたのは確かなようだが、真っ黒く口をあけた底なしの闇の一歩手前で手を引いてくれたのが薬師先生である、という事は、
彼女の身体全身が感じていた。
だから、これでいいのだ。
「そういうことだそうです、“ はい ”だって、葵菜さんは、年末だし、ちょうど上野へ御買い物のついでに包丁を研ぎに来たんですって、ね~警部?」
子供のようニコニコする倫太郎に、高御門警部は苦笑した。
「う、はいはい…」
警部は了解していた。
これは倫太郎が打ち込んだ“言霊”だ。
暴行傷害未遂を見て見ぬフリをした自分に、かすかに心のうずきを感じた部分もあったが、小悪を自らのまわりにまき散らして偽善者を気取る大悪を見過ごしてはならない。
異常に髪の長いカウンセラーは、迷彩服の老人に向き直る。
「神谷さん、あんた、ここで働いている葵菜さんというこちらのきれいな警備員さんに、クロルプロトラジンを使ったな!」
「う…」
「どうだい、思いだせないかい、ほら?」
高御門警部が差し出したものは 『御苦労さまでした』 の文字が入った紫色の紙袋。
「あ!、あれ…」
葵菜さんには見なれたものだ。
極楽大平警備保証の練馬研修所では、何故かきれい所の女子のみに
『御苦労さまでした』
のバスタオルと石鹸がプレゼントされる慣習があった。
これである。
そして毎回貧血(?)で倒れる女子が出る…今の今まで、誰もその理由をいぶかる事はなかった。
所詮、いくらでも補充のきく非正規雇用の人間の範疇のことだ。
きれいどころを揃えるのは補充する全体の頭数さえ増やせばいい…
それ以上の苦労が存在しない “ 裏側 ” の問題である。
しかるべき権力者をあつくもてなす有能な秘書を派遣する『バルカンファランクス』という人材派遣会社も、極楽大平警備保証の関連企業の一つに存在していた。
「かねがねお噂はお伺いしておりましたわ、神谷社長」
「どちら様で」
迷彩老人の宣戦布告ともとれる誰何に、警部は厳しく言葉をついだ。
黒のスーツで決めている。(勝負服らしい)
「幡ヶ谷署、生活環境課、高御門と申します」
「ほぅ、年増だな」
「神谷さん、これシャレにならないでしょ、すでに内偵済みなんですけどね、」
余裕を見せていた老人の表情が、警部の最後の告知で激変する。
「なんだとぉ…」
気を取り直して脇に控えていた牛頭馬頭が、すごんだ。
「現任研修の時に目をつけた女性社員に訓練の後シャワーを浴びさせて、バスタオルとせっけんにクロルプロトラジンをたっぷり含ませておいたんじゃない?」
「ねぇ、凛先生、倫太郎先生のいってたクロルプロトラジンって何ですか?」
落ち着きを取り戻した葵菜さんは、凛ちゃんの説明に食い入った。
「…精神病の患者が暴れて困る時に使われる精神遮断薬のことよ。」
「精神遮断薬?」
「そう、化学的拘束服と呼ばれ、全身の力が抜けて無気力無関心になっちゃうの。極め付けはね、則頭葉に影響を与え逆行性健忘症を起こすのよ。」
「あたしの…記憶喪失、それのせい!?」
「そう!これを使うと何にも思い出せなくなっちゃう、半端じゃないわよ。」
「い、いや…」
美少女は、欠けた記憶の片鱗がはっきりした事で、そのショックの再現に涙ぐむ。
凛ちゃんは抱きしめた。
「で、あのジジイに乱暴されたこともすべて葵菜さんの記憶から消してしまえるの。」
「おまえらみたいな小賢しい輩に何がわかる…」
老人は吐き捨てた。
「ま、経営者としての神谷さんの苦労もわからないわけじゃありませんが、流行りませんよ、今どきそういうのは。」
「なんだと!」
「労基法、労災保険法、商法、薬事法、極め付けは刑法までレッドカード出てるんですが、
とりあえず、今日はご挨拶という事で。」
警察の民事不介入の大原則が、労働現場での餓鬼畜生の増殖をここまで許した…という認識を、かねてより薬師倫太郎臨床心理事務所の現場報告を基に固めてきたのが、幡ヶ谷署、生活環境課、高御門澄子警部の業務スタンスだった。
大物を釣りあげた、という実感は満点である。
このままではすまないな、という実感も十分だ。
「町中、歩けなくなるぞ、いいのか…」
「政権与党のおエラい様とのおつきあいもあるんでしたっけ、おお怖い怖い…」
倫太郎が妙におどけてみせた。
支社長と口半開きの牛頭が迷彩服の老人の左右を囲んで、得物を扱いて、まなじりがつりあがった。人間をやめている人間の表情はつとめて漫画チックだ。
その他者をねめつける視線の決まっていること。
制服は権力だ。
執着の地獄へ扉一つといえる。
まさに彼等はよき見本だった。
「あなた一人だけの世界じゃないでしょ!」
倫太郎が寂しそうに微笑みながら、右手を差し出した。
その台詞を紡いだ時に、彼の異常に長い髪すべてが一瞬、逆立った。
気が凝縮する。
剣豪が操るといわれる“縮地の法”を体現したかのように、
(実際は倫太郎の身体が動いた訳ではない)
この場の人の氣は、倫太郎を中心として、信じ難いほどに圧縮された。
12月の冷たい空気の中にほんのりと温もりが生じていた。
高度に圧縮された氣は、物理的な変成作用を生じると言われている。
…………凛ちゃんは気がついた。高御門チームは“?”………………………
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「!」______________
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邪悪な闇。
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それは老人が、自らの社会的身分の中に隠しもっているものだ。
その底知れぬ暗黒の底に蠢くものの気配は、倫太郎にとって見知ったものだ。
非正規雇用をいかに効率的に使いこなすか、が日本経済経営者階層の『実戦的倫理規範』となって、総体的に経営者の倫理道徳の希薄化が公然の秘密となりはじめてから、地獄の釜のふたを開けた連中が数多くいるのは周知の事実だった。
それは安っぽい経営者ヒロイズムですらない。
本人は生きるため、という至上の人間的道徳を語ったつもりになる所が、この手の輩の救い難い部分でもあった。
彼ら無数の人間を真似した『有財餓鬼』によって法の正義が封じられた時に、倫太郎のような力のある有志によってゲリラ戦が展開されてゆく。
民主党政権交替時より、法と正義と人権を守る、という言い回しを誰もが好むようになった。
法を守るためには法に触れなければよいと考えるのが『有財餓鬼』の知恵だ。
やつらは知恵がまわり、みなりもきちんとしている。
しかし本質は餓鬼である。
妄執の泥沼に沈み、足掻き続ける亡者だ。
人の死も法律に触れなければよい、
そう考えて対処される非正規雇用の労災死など、ニュースにすらならないし、
権力者の仕切りによって不正義と事故の境界線はいっそう曖昧になってゆく。
その曖昧な世界に、無数の餓鬼どもが生息する。
薬師倫太郎臨床心理事務所の数多い報告は、すべてこのゲリラ戦の戦果だ。
人を脅かすモノ_彼ら『有財餓鬼』は、唯一価値観の多様化という言葉によってのみ存在を許されている。
老人の魂が直面した危機は、闇を好奇の目に晒す、というステージにおいて遠からず新たなる物語を語りはじめるだろう。
「あなたは餓死した人や事故死した人を切り捨てても何とも思わない人のようですが、」
長髪のカウンセラーは、ゴスロリのやつれた美女の肩に優しく手をかけた。
………………………………「私は彼等も等しく悼みます。」………………………………………………
葵菜沙耶華は、慈父のようなカウンセラーの言葉に、幾度かの涙を押さえることができなかった。
「まぁ、私も単なるカウンセラーなんでね、そこらへんはお手柔らかに頼みますね…」
薬師倫太郎臨床心理事務所01/WPK(ワーキングプア警備員)// 了
薬師倫太郎臨床心理事務所02/不当労働行為、反撃の狼煙//00…準備中