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第3話:憤怒の対価(後編)

第七章


拓海のJリーグ内定壮行会。体育館は、全校生徒の拍手とテレビカメラのライトで溢れかえっていた。


天井から吊り下げられた巨大な看板には『Jリーグ内定祝賀会・佐藤拓海君の更なる飛躍を願って』と大書され、幾筋ものスポットライトが壇上の主役を白光の中に浮かび上がらせている。

拓海はスーツに身を包み、逆境に負けず親友の夢まで背負って立つ、若き英雄を演じていた。


「……僕が今日この場に立てているのは、隣にいる親友、蓮くんの献身的な支えがあったからです!」

拓海が手招きをすると、ステージの袖から、一人の少年が力なく歩み寄った。

かつてのエース、瀬戸蓮。

今の彼には、かつてピッチを支配した覇気は微塵もない。

拓海の数歩後ろ、影のように頭を垂れ、卑屈な笑みを貼り付けた「下僕」の姿がそこにあった。


「……光栄です、拓海くん。君のサポートができるなら、俺はそれだけで幸せです」

蓮が絞り出すような声で応じると、会場は美しい友情に打たれ、拍手が沸き起こった。

拓海はその拍手を全身で浴びながら、脳を灼くような全能感に酔いしれていた。


(見ろ、この無様な姿を。天才と持て囃された男が、今は俺の靴を磨き、俺を引き立てるための小道具に成り下がっている……!)


「拓海、君の輝かしい未来に……俺から、特別なお祝いを持ってきたよ」

蓮が震える手で差し出したのは、銀のトレイに乗った二つのグラスだった。中には、闇を煮詰めたような、深く澱んだ紅色の液体が満ちている。


拓海は一瞬、その液体に本能的な危惧を覚えた。

だが、テレビカメラのレンズが至近距離で自分を追っている。

疑念を見せるわけにはいかない…。


次の瞬間、蓮は自らのグラスを手に取ると、躊躇なくそれを一気に飲み干してみせた。

「……美味しいよ、拓海。さあ君も飲んで」

蓮の、毒を抜かれた空虚な笑顔。

それを見た時、拓海の最後の警戒心が、嘲笑と共に霧散した。


(こいつはもう、俺に牙を剥くことさえ忘れた飼い犬だ。……俺の勝ちだ。完全な勝利だ!)

拓海は、勝利者の優越感を喉に流し込むように、憤怒のワインを一気に煽った。


刹那、拓海の視界が真っ赤に染まった。

鼓動が耳元で爆音のように鳴り響き、身体中の血管が、熱いマグマのように駆け巡る。

全身から、途轍もない量の「憤怒」が爆発した。

ワインが拓海の内側に潜んでいた「傲慢」という名の火種に、大量のガソリンを投下したのだ。


司会者が感動を繋ごうと、マイクを向けた。

「本当に素晴らしい友情ですね。蓮くんの想いを背負って、プロの世界へ羽ばたく決意を、改めてお願いします!」


「…背負う…だとぉ?テメエ、俺を侮辱してんのかぁ!?」

拓海は、血走った目で司会者を睨み付ける。


「……なんで俺が、こんな『ゴミ』の想いを背負わなきゃいけないんだよ!ええコラァ!!」

会場が、水を打ったように静まり返った。司会者の顔が強張り、カメラマンの手が止まる。


だが、拓海の「憤怒」は止まらない。彼は蓮の胸ぐらを掴み、壇上の中央へと引きずり出した。

「おい、蓮! お前、自分が悲劇のヒーローだと思ってんのか? 毎日毎日、泥のついたスパイクを俺に差し出して、許しを請うような情けない面しやがって! 反吐が出るんだよ!」


「あの日、階段からお前を突き落とした時の指の感触っ! あの『グニャリ』とした手応え、今思い出しても最高に気持ちいいぜ!お前みたいな『才能だけのバカ』を消して、俺がこの座に就いた! ザマァみやがれっ!!」

拓海は、自らの指を愛おしそうに見つめながら、陶酔したように叫び続けた。


自分がいかに巧妙に親友を陥れ、いかにして周囲を騙してきたか。

憤怒に脳を焼かれた拓海にとって、それは隠すべき罪ではなく、自らの「万能」を証明する輝かしい勲章だった。


満雷の拍手は、いつしか氷のような沈黙へと変わり、やがて悲鳴と怒号へと変わっていった。

その混沌の中心で、蓮は静かに立ち上がった。

彼の瞳から、先ほどまでの卑屈な光は消え失せていた。

そこにあるのは、すべてを焼き尽くした後に残る、冷徹な静寂。


「……おめでとう、拓海。最高の門出になったね」

蓮の呟きは、狂乱する拓海の耳には届かなかった。

拓海は、駆け寄った警備員に押さえつけられながらも、まだ自分が手に入れたはずの「栄光」を叫び続けていた。



第八章


喧騒は遠ざかり、体育館には歪んだ静寂だけが残された。

テレビカメラは倒れ、華やかな装飾は無惨に引き裂かれている。

拓海が叫びながら連行された後、蓮は独り、壇上に残された二つの空のグラスを見つめていた。


「……終わったんだな」

呟いた蓮の瞳に、復讐を遂げた高揚感はなかった。

だが、胸の奥を重く占領していた泥のような感情が、夕闇に溶け出すように少しずつ軽くなっていくのを実感していた。


彼は松葉杖をその場に残し、まだ疼きを残す左膝を庇いながら、一歩、また一歩と自らの足で出口へと向かう。

外に出ると、沈みゆく太陽が世界を燃えるような朱色に染め上げていた。

ふと足元を見ると、古びたサッカーボールが一つ転がっていた。

蓮は、それをそっと手繰り寄せると、一呼吸置いてから右足を振り抜く。

かつての稲妻のような鋭さはない。重く、鈍い衝撃。

それでも、自身の意志で放たれたボールは、秋空の向こうへと高く、力強く弧を描いて飛んでいった。


「……なんだ。俺も、まだまだイケるじゃん」

自嘲気味な、けれど確かな光を宿した微笑。

蓮は一度も振り返ることなく、校舎を後にした。

吹き抜ける清涼な風が、戦いを終えた彼の頬を優しく撫でていった。



終章


鉄の扉が閉まると、館は再び、時を止めたような静寂に支配された。


「……憤怒を薪にした炎。これほどまでに醜く、そして美しい終演はございません」

ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。


「彼は、類まれな才能に愛されていたが故に、あまりにも無垢な光の世界に生きておりました。その眩い夢を塗り替えたのが唯一の親友だった…。人の世の因果とは、時としてどんな悲劇よりも残酷な筆致で描かれるものです。……彼が放り出したあの松葉杖は、果たして自由への鍵となるのでしょうか」


漆黒の記録帳を開き、羽根ペンを走らせる。そこには『瀬戸蓮:対価……青春の純潔と、孤高なる再生』と記された。


「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」

ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。

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