第3話:憤怒の対価(中編)
第四章
蓮は、入り組んだ路地の突き当たり……街の喧騒を拒絶するように佇む、漆黒の館の扉を開いた。
「瀬戸蓮様……ですね。お待ちしておりました。私、ノワールと申します。どうぞお掛けください」
重厚なベルベットの椅子に身を預けた蓮は、絞り出すような声で呟いた。
「……俺はあいつを信じていた。それなのに、あいつは俺を『チョロい』と笑っていた……!」
「なるほど。親友と思っていた相手は、貴方の椅子を虎視眈々と狙う、飢えた蛇に過ぎなかったのですね」
ノワールはヴェールの奥で、微かに目を細めた。
「いいですか、蓮さん。人間の欲というものは際限を知りません。眼前に極上の果実――プロへの切符を差し出されれば、聖人君子ですら浅ましい剥き出しの牙を見せる。……貴方は友情という概念を、あまりに純粋に、清廉に信じすぎてしまった。その無垢な過信を、今この瞬間に焼き捨てる覚悟はありますか?」
蓮は悔しさに唇を噛み、アンティークのテーブルの上で拳を握りしめた。
第五章
「……では、私から三つの道を指し示しましょう」
ノワールの指先が羅針盤に触れると、針が出鱈目に跳ね回り、金属同士が擦れる不快な悲鳴を上げた。
「一つ目は、決裂。狡猾な相手のことは忘れ、別の空を見上げる道。貴方は一定の安息を得ますが、彼が喝采を浴びるたび、貴方の古傷は痛み、生涯疼き続けるでしょう」
「二つ目は、服従。彼の懐に潜り込み、その栄光の滴を啜る寄生虫となる道。貴方は富を得ますが、その無垢な魂は腐った泥のように膿んでいくでしょう」
そして三つ目。……彼の元に戻り、その傲慢の火種を燃え上がらせるのです。私が内側から全てを焼き尽くして差し上げましょう。貴方自身が道化としての「業」を背負う覚悟があるのならば、この道を選びなさい」
「さあ、道は指し示しました。何を選択されるかは……あなた次第です」
蓮は顔を上げ、震える声で叫んだ。
「…どれも嫌だ……っ! 他に……他にはないんですか? 例えば、今すぐあいつを殴り飛ばして、全部ぶちまけるとか!」
その瞬間、羅針盤の針が力なく左右に揺れた。ノワールの唇から、冷ややかな吐息が漏れる。
「……愚策ですね。その瞬間は溜飲が下がるでしょう。ですが、証拠もなく振るう暴力は、貴方をただの『逆恨みの加害者』へと墜とすだけ。彼は『親友に裏切られながらも耐える悲劇の英雄』として、より一層輝くことでしょう。……どうしてもと言うのであれば、お止めはしませんが」
「そんな……」
蓮の瞳から光が消え、失望が肩を重く沈ませる。正義すらも味方してくれない絶望。
ノワールは棚から、重厚なラベルの貼られた一瓶の赤ワインを取り出した。
「貴方は、まだ彼に対する『正当な怒り』が足りていないようですね。……殴って済ませようなど、甘美な慈悲に過ぎない。ならば、この『憤怒のワイン』を」
彼女が注いだワインは、光を吸い込み、どす黒い血のような色を湛えていた。
「消沈している者が飲めば、それは立ち上がるための熱となり、自らの運命を切り開く炎となる。……ですが、万能感に酔いしれる者が飲めば、その怒りは制御不能な毒となり、自らを内側から焼き尽くす。さあ、まずは一口。貴方の内側で燻っている種火を、呼び覚ましなさい」
蓮は差し出されたグラスを掴むと、意を決してそれを一気に煽った。
蓮がそれを飲み干した瞬間、全ての血管が沸騰するような衝撃が走った。絶望という名の氷が蒸発し、瞳には冷徹な炎が宿った。
第六章
「憤怒のワイン」を飲み干した翌日、蓮は松葉杖を突きながら、拓海が練習に励むグラウンドへと現れた。
かつてのエースの無様な姿に、部員たちの視線が突き刺さる。
拓海は練習を止め、面倒そうな、それでいて優越感に満ちた笑みを浮かべて歩み寄った。
「なんだよ蓮、まだ足が痛むのか? 病院で寝てればいいのに」
蓮は震える膝を抑えるように、深く、深く頭を下げた。
「…拓海。あの日、自販機の前で聞いたことは、もう忘れることにした。……いや、俺が悪かったんだ。君のような才能に気づかず、親友なんて顔をしていた俺が……」
拓海が眉をピクリと動かす。
蓮は屈辱に顔を歪ませながら、さらに言葉を絞り出した。
「頼む、拓海。君の…下で働かせてくれ。雑用でも何でもいい。君がプロで輝く姿を、一番近くで支えさせてほしいんだ」
一瞬の静寂の後、拓海は堪えきれないといった様子で吹き出した。
「ワハハハ! お前、本気か!? あの『天才・瀬戸蓮』が、俺の雑用をしたいって? …いいぜ、そこまで言うなら。お前には『敗北者』としての仕事が似合ってるよ」
それから、蓮の屈辱の日々が始まった。
拓海は部員たちの前で、わざと泥だらけにしたスパイクを蓮に投げつけ、磨かせた。
「おい、蓮。ここ、まだ汚れが残ってるぞ。……お前のサッカー人生みたいに、真っ黒だな」
拓海の下劣な笑い声と共に、泥水が蓮の手に跳ねる。
蓮は、ただ黙々と手を動かした。
指先の感覚が消えるほどの冷たさに、唇を噛みしめる。
練習中、喉が渇いたと言っては、蓮に遠くの売店まで飲み物を買いに行かせた。
膝の痛み以上に、心が疼く。
「おい、遅いぞ蓮! 足が悪いからって甘えてんのかぁ?」
拓海の怒声が飛ぶたび、蓮の指は泥と油で黒く汚れ、その心は一削りずつ摩耗していった。
だが、蓮は無言で耐え続けた。
彼の瞳の奥に宿る「青い炎」だけは、拓海には決して見えない場所で、静かに、そして激しく燃え続けていた。
(……もっと笑え、拓海。その傲慢さが、お前を焼き尽くす最高の薪になるんだから……)




