第3話:憤怒の対価(前編)
黒の審判:第3話
憤怒の対価
序章
「……『ワイン』とは、熟成を待つ忍耐と、造り手の情熱が織りなす芸術です。ですが、その樽の中に一滴の毒を混ぜれば、それは芳醇な死の杯へと変わる。……純粋な『憤怒』は、時としてどんな名酒よりも深く人を酔わせ、壊す毒薬になり得るのです」
闇に沈む館の奥底。重厚な真鍮の羅針盤が、カチ……カチ……と、運命を刻む時計のような音を立てていた。
「憤怒の毒は、立ち上がるための熱となる一方で、他者を焼く炎にもなる。……さて。今回のお客様は、自身の内なる憤怒の炎に、ようやくお気付きになられたようです」
揺らめく蝋燭の火が、羅針盤の針を黄金色に照らし出した。針は一度、狂おしく回転し――凍りついたような静寂の中で、ある一点を指して止まった。
第一章
私立常盤大附属高校サッカー部。
そこは、全国から精鋭が集まり、毎年数人のJリーガーを輩出する「プロへの登竜門」だった。
瀬戸蓮は、その中でも「十年に一人の逸材」と称されるエースストライカーだった。
「蓮、お前はもう別格だよ。欧州のスカウトも見に来てるって噂、本当か?うらやましいぜこの野郎っ!」
練習後、部室で佐藤拓海が軽く小突いて来た。
「どこから聞いたんだよその噂!そんなの一度も来た事ねぇよ!…ったく」
蓮は頭をさすりながら、明るい笑顔で答えた。
蓮の親友・拓海もまた、並の高校ならエースを張れる実力者だった。
しかし、この常盤大附属においては「蓮の控え」に過ぎず、Jリーグの強化指定枠は残り一つ。
蓮がいれば、拓海にチャンスが回ってくることは万に一つもなかった。
第二章
一ヶ月後、蓮は拓海と部室へ向かう際、階段で転倒事故を起こす。
二人で階段を駆け下りるように走っていた矢先、拓海の足が蓮の膝に接触し、バランスを崩したのだ。
ガンッ!
左膝を強打し、高圧電流が流れるような激しい痛みに襲われる。
「うっ……い、痛い……足がっ……!」
呻く蓮に、拓海が慌てて駆け寄る。
「大丈夫か、蓮!?待っててくれ、今すぐ保健室の先生を呼んでくる!」
蓮は救急車で緊急搬送され、そのまま入院となった。
精密検査の結果、左膝の靭帯を断裂、全治一年との診断が下った。
それは、彼のサッカー選手としての人生が終わりを告げた瞬間だった。
拓海は、足繁く病室に顔を出した。
「蓮、すまない…。俺があの時ぶつかっていなかったら…」
拓海が深々と頭を下げる。
「お前のせいじゃないよ。ふざけて階段を駆け下りていった俺も悪かったんだし、命が取られたわけでもないんだしさ」
苦笑いをしながら答えるが、その瞳には一抹の寂しさが宿っていた。
第三章
またある日の事、蓮の病室には拓海が訪れていた。
「蓮、その後足の調子はどうだ?少しは良くなったか?」
「うーん…良くなってきてるけど、まだまだかな。今、松葉杖でリハビリ中だよ」
「そっか…ちょっとジュースでも買ってくるよ。コーラで良いよな?無理しないで寝てろよ」
病室で甲斐甲斐しく世話を焼く拓海の背中を見送りながら、蓮はふと、小さな悪戯心を抱いた。
実は、リハビリの成果は驚くほど順調だった。松葉杖があれば、もうかなりの距離を歩ける。
(あいつ、自販機まで俺が歩いていったら、どんな顔するかな。……きっと、驚いて、それから笑ってくれるだろうな)
蓮は静かにベッドを抜け出し、松葉杖を支えに廊下へ出た。
ゴムの石突が床を叩く微かな音。
角を曲がった先、自販機コーナーから拓海の陽気な声が聞こえてきた。
「……ああ、最高だよ。蓮のやつ、まだ松葉杖でリハビリ中とか泣き言言いやがって。あんなにチョロい奴だとは思わなかったぜ」
蓮の心臓が、早鐘のように響く。
氷を流し込まれたような寒気が、背筋を駆け抜ける。
「……あの日か? ああ、完璧だった。背後から軽く重心をずらしてやっただけで、勝手に転がって壊れてくれたよ。おかげで推薦枠は俺のものだ。……罪悪感? あるわけねえだろ。あいつが才能に胡坐をかいてる間に、俺は『チャンスの作り方』を学んだんだよ。……じゃあな、またJリーグ内定祝いのパーティーでな」
鼻歌を歌いながら曲がり角に現れた拓海は、そこに立ち尽くす蓮を見て、一瞬だけ目を見開いた。
だが、次の瞬間、その唇は三日月のように歪んだ。
「……なんだ。驚かせようと思ったのか? だったら成功だよ、蓮。お前のその絶望した顔……最高に滑稽だぜ」
親友だと思っていた男の、剥き出しの悪意。蓮の視界は、どす黒い絶望で塗り潰された。
その翌日、漆黒の手紙が蓮の病室に置かれていた。




