第2話:潔癖の檻(後編)
第五章
数日後の深夜。
里奈は心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じながら、門倉が夜回りに向かうのを確認した。
手に握っているのは、ノワールに渡された鍵と小瓶。
規律にマナー、住宅ローン、将来――。
里奈を縛り付けていたすべての「重圧」が、この鍵を回す瞬間に、音を立てて崩れる気がした。
(私の心を…穏やかな日常を取り戻すんだ。ためらう必要なんてない……!)
里奈は自身を奮い立たせ、門倉の部屋の鍵を開いた。
里奈は彼の聖域――自室へと足を踏み入れる。
そこは異常なほど清潔で、家具はすべて白い布で覆われていた。
床は鏡のように磨かれ、何台もの空気清浄機が唸りを上げていた。
そして本棚には、全住人のゴミから回収したと思われる「私的な記録」が美しくファイリングされていた。
「……あいつ、こんなものを『コレクション』にしてたの……?」
里奈は震える手で、小瓶の液体を部屋中に垂らして回る。
それは人間の鼻には感知できない、しかし「不潔の軍勢」を狂わせる甘美なフェロモンだった。
第六章
その晩、門倉の部屋に異変が起きた。
重度の不衛生害虫アレルギーを持つ彼の肌に、痒みを伴う湿疹が浮き始めたのだ。
(何だ…?部屋は徹底的に磨き上げ、塵一つ、有機物の欠片すら無いはずなのに…)
念の為、通常よりも更に徹底的に掃除をした上で、彼は床に就いた。
しかし深夜、身悶えするほどの痒みと喘息に襲われ始めた。
静寂の中でカサカサと這い回る音。堪らずに飛び起き電気を点けると、そこには夥しい羽虫、ゴキブリ、ネズミ……彼が最も忌み嫌う、不衛生生物の楽園が広がっていた。
「ぎぃやああぁぁぁっ!!」
絶叫の中、門倉は半狂乱で掃除機を振り回し、壁に叩きつけ、殺虫剤を撒き散らした。
かつて規律と静寂を愛した男が、自らの手で城を破壊し、醜い叫びを夜の空気に叩きつける。
第七章
両隣の部屋は、突如として門倉の絶叫と、彼の部屋から漏れ出た虫たちで満たされた。
隣人たちは虫にまみれ、深夜に悲鳴が響き渡る。
「ちょっと門倉さん!あんた夜中に何してんの!?」
「出てきなさいよ!あんたの所何飼ってるの?うちの部屋虫まみれよ!」
両隣の住人が扉を叩く。
他の住人たちも、ただならぬ様子に顔を出し始めた。
やがてドアが開くと、そこから溢れ出したのは、異臭と、大量の不浄な生き物たち。そして、全身を真っ赤に腫らし、喘ぎながら這いつくばる門倉の姿だった。
「ひっ、ひいい……っ! 来るな、汚い、汚いんだよぉっ!」
門倉は重度のアレルギーと精神錯乱により、救急車で運ばれ、二度とマンションへ戻ることはなかった。
のちに、整然と並べられた「他人のゴミの記録」も露呈し、「正義の看守」の正体は、最も不潔な「執着の塊」だという事が暴かれた。
救急車の赤色灯が遠ざかるのを、里奈はエントランスの影から、いつまでも見つめていた。
第八章
「…私は、門倉さんを物理的にも、精神的にも汚して『排除』したんですよね……お互い、歩み寄る選択肢はなかったのか、今でも思います」
里奈は寂しそうに呟く。
「自分の正義を信じて疑わない人間に、どんな正論をぶつけたとしても無意味です……。貴女は「業」を負うことによって、自らの心身を守り、平穏を勝ち取った。…これからは、胸を張って生きて行けば良いのです」
ノワールが、微かに微笑む。
里奈が外に出ると、外は雲一つない月夜だった。
その空は清涼で、どこまでも潔癖なまでに澄み渡っていた。
僅かな棘は残ったが、その心は晴れ、長い檻から解き放たれた開放感で満たされていた。
終章
鉄の扉が閉まると、館は再び静寂に包まれる。
「……潔癖からの腐食。これほどまでに悍ましく、そして皮肉な終演はございません」
ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。
「……潔癖を求めた看守は、最後には自らが産み出した『不浄』の檻に閉じ込められました。皮肉なものですね。他人の汚れを暴こうとする者ほど、自分の中の汚濁が招く『毒』に気づかない」
漆黒の記録帳を開き、羽根ペンを走らせる。そこには『佐藤里奈:対価……無垢なる平穏と、聖域を汚す劇薬』と記された。
「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるでしょう……」
ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。




