第2話:潔癖の檻(中編)
第二章
郵便受けには、門倉からの「是正勧告書」という名のラブレターが毎日のように届く。
バルコニーに干した洗濯物の色が不適切だ、駐輪場のスタンドの角度が数度傾いている、深夜の足音が不快だ――。
里奈の生活は、透明な檻の中に閉じ込められ、一挙手一投足を観察される地獄へと変貌していた。
限界だった。
もう、この部屋で息をすることさえ苦しい。
そんな中、他の郵便物に混じり、一通の漆黒の手紙が届く。
(……もう…救ってくれるなら、死神だって構わない…)
里奈は震える指先で、漆黒の館の、冷たい鉄の扉を押し開けた。
第三章
「佐藤里奈様…ですね。お待ちしておりました。私、ノワールと申します。どうぞお掛けください」
里奈は、ノワールが促した椅子に身を預けた。
「…掘り出し物だと、思ったんです」
漆黒の館、揺らめくシャンデリアの光の下で、里奈は絞り出すように言った。
「駅まで徒歩五分。綺麗なのに、相場の二割も安かった。……内見で会った門倉さんも、『このマンションは私が守っていますから、安心してくださいね』と微笑む、温厚な老紳士に見えて、三十年ローンを組みました……」
里奈は顔を覆った。
「入居した翌日からです。挨拶代わりのように、ポストに『入居に際する細則遵守の誓約書』という名の、二十ページ近い独自のルールブックを叩き込まれました。共用部を歩けば背後から足音を数えられ、ゴミを出せば割り箸で検品される。……不動産業者がなぜあんなに急いで契約を求めたのか、ようやく分かりました。あの男こそが、この物件最大の『瑕疵』だったんです」
ノワールはヴェールの奥で、微かに目を細めた。
「三十年の住宅ローン。それは、貴女にとって終の棲家ではなく、一生をかけて贖う『白亜の監獄』の借用書だったというわけですね」
「……引っ越しもできません。多分私の時には、不動産屋が撤去していたのでしょうが……掲示板にびっしり貼られた『警告』の数々を見て、誰が買うでしょう?…あいつこそでマンションの価値を落としている元凶なのに……本人は『自分が一番貢献している』と信じて疑わないんです。あんな滑稽なこと、ありますかっ…!」
里奈の拳が震え、アンティークのテーブルを叩いた。悔し涙が、テーブルに滴り落ちる。
「里奈さん。この世で最も救いようのない悪とは、自らを『善』と信じて疑わぬ者のことです。彼は貴女を虐めているのではなく、貴女を『救ってやっている』と思っている。泥を啜る羊に、正しい歩き方を教えてやっている……。その傲慢な慈悲こそが、何よりも深く貴女を傷つけている事すら、気付かぬままに、ね」
手元の羅針盤の針をそっと指先でなぞった。
第四章
「…では、私から三つの道を指し示しましょう」
羅針盤の針が出鱈目に動き、微かな音を立て始める。
「一つ目は、服従。自ら門倉の右腕となり、他の住人を監視する歪んだ正義の執行者となる。貴女は門倉に許されますが、死ぬまで彼の下僕となる」
「二つ目は、決裂。門倉の常軌を逸したやり方に不満を持つ住人たちと手を取り合い、法的手段で戦うのです。しかし解決までの道のりは遠く、貴女の魂は悲鳴を上げる」
「そして三つ目。…腐食。門倉が作り上げた『完璧な潔癖』という檻を内側から腐らせ、歪んだ看守を引き摺り下ろす。貴女自身が相応の「業」を背負う覚悟があるならば、この道を選びなさい」
「さあ、道は指し示めました。何を選択されるかは……あなた次第です」
「……三つ目を!あいつに、味合わせたいんです。自分がどれほどこのマンションを、住人の心を汚してきたのかを。……その代償なら、いくらでも背負いますっ!」
理不尽な正義に対し怒りを燃やしつつ、里奈は強い意思を持って答えた。
羅針盤の針が、ぴたりと止まった。
「三つ目の道。彼の『潔癖』という名の檻を腐らせる道を選ばれましたね……。ですが忘れないでください。聖域を汚すためには、貴女もまた、その手を泥に染めねばなりません。……貴女が最も軽蔑する、あの男の『下劣なやり方』を、今度は貴女がなぞるのです」
ノワールはテーブルに、鈍く光る鍵と、粘り気のある無色の液体が入った小瓶を置いた。
「一つ目の業は、侵入。この鍵を使い、彼が不在の隙に、彼の聖域……あの男の部屋に忍び込みなさい。潔癖を標榜する男が、どのような私生活を送っているか、その目で確かめるのです」
「……不法侵入、ですか?」
里奈は息を呑んだ。
「ええ。平穏で優しい日々を愛する貴女にとって、それは最大の背徳でしょう。そして二つ目の業は、その無色透明な液体が入った小瓶…。それは、門倉の聖域を内側から腐らせる劇薬となります」
ノワールはヴェールの奥で、冷ややかに微笑んだ。
「清潔の城に、決して拭い去れない『腐敗』の種を蒔く。……その種が芽吹いた時、果たしてあの男の正義は、どこへ向かうのでしょうね」
里奈は、テーブルに置かれた鍵と小瓶を見つめた。
これを手に取れば、自分もまた、相手を土足で踏みにじるような「加害者」になる。
里奈の手が震えつつも、ゆっくりとテーブルへ伸びた。




