第2話:潔癖の檻(前編)
序章
「……『清潔』とは、至高の状態であると共に、生命への冒涜でもあります。呼吸をし、食事をし、排泄をする……。生きるということは、この世界を汚し続けることに他なりません。ゆえに、完全なる潔癖を求める心は、いつしか命そのものを否定し、白一色の『檻』を作り上げるのです」
闇の中、ただ一滴の雫が水面に落ちたような囁き。
キイ……キイ……キイ……。
妖しく光る羅針盤の針が揺らめき、微かな音を立てる。
「出口のない正義。他人を裁くことでしか、己の純白を証明できぬ哀れな看守。……さて。今回のお客様は、自分がその看守が支配する『檻の囚人』であることに、ようやくお気付きになられたようです」
羅針盤の針が、凍りついたような音を立てて止まった。
第一章
佐藤里奈にとって、自身が住むマンション『エターナル・ハイツ』のゴミ集積所は、処刑台に立たされるかのような苦痛だった。
「……三〇二号室、佐藤さん」
背後から響く、剃刀のように鋭い声。
振り返ると、そこには理事の門倉典明が立っていた。
糊のきいた白シャツに、手には一点の汚れもない白い綿手袋。
彼は割り箸を使い、里奈のゴミ袋をゴミの山から引きずり出した。
「この出し方……袋の口がやや開いている。規律の乱れは精神の乱れ。不潔な袋が一つ混じるだけで、このマンションの格が下がるのが分からないのですか?」
「すみません、少し急いでまして…。でも、ゴミが漏れるような事はしてないです」
里奈の声に震えが帯びる。
「問題は漏れるかどうかではない。規律だ」
門倉は表情一つ変えず、一歩詰め寄った。
周囲には、マンションの住人たちが足を止めている。
彼らは関わり合いになるのを恐れつつ、憐れみ混じりの目で成り行きを見守っていた。
「規律の乱れは資産価値の低下を招き、やがては治安の悪化を呼ぶ。貴女のような一人の身勝手が、この清潔な共同体を汚すのが分からないのですか?」
「いえ、そんなつもりでは……」
弁明しようとする里奈の言葉を遮り、門倉は更に続けた。
「もしこのような事態が続くようであれば、次の掲示板に、この不始末の内容を『全戸配布の警告状』として掲載させてもらいますよ。……貴女に、このマンションに住む資格があるのかどうか、皆に判断してもらいましょう」
門倉の瞳には、一切の悪意も、怒りすらもなかった。
そこにあるのは、里奈のような「だらしない異分子」を矯正し、正しく導くという「無機質な正義感」があった。
里奈は、衆人環視の中晒される屈辱と怒りの中で、強烈な吐き気を覚えた。
(私はただ、普通に暮らしたいだけなのに……!)
逃げるようにエントランスを後にした里奈の背中を、門倉の視線が「検品」するように追い続けていた。




